たまたま手に取った「方丈記」に心を打たれた件(エッセイ)
期末レポート執筆のために、大学の図書館でフィッツジェラルドの短編集を探していたのだがなかなか見つからず、しばらく文庫本の棚をうろうろしていると一冊の本が目についた。鴨長明「方丈記」。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて久しくとどまりぬるためしなし。
とまあ、中学生だか高校生だかの時に暗記させられるわけで、しかも無常を書き連ねているという、何とも難しそうな、堅苦しい随筆、という印象を持っていた。あと勝手にものすごく長い文章だと思い込んでいた。
ところがどっこい、勿論現代語訳を使って読み進めていったのだが(光文社文庫版)、現代語訳で大体50頁弱という大変読みやすい長さで、しかも言っている内容がそのまま現代にも当てはまるような内容であったのだ。
恐らくもっと詳しい解説書など山のように存在するだろうし、大変読みやすいので皆さんもぜひ実際に読んでもらいたいのだが、まあせっかくなので簡単にこの随筆のあらましを書き連ねてみる。
自然災害だとか、政治的な混乱だとかいう世俗の情勢に嫌気がさして、一種の虚無に陥った50歳を過ぎた老人(勿論、当時の平均年齢からしてみればかなりの高齢である。ちなみに執筆されたのは1212年。鎌倉時代)が出家して、言うなれば余生を楽しんでるよ、みたいな内容。個人的に面白いなと思った点は二つ。
一つ目は、そこに書いてある内容がそっくりそのまま現代に当てはまるということ。大火災、地震、干ばつ、それに伴う飢饉なんかが書かれていて、特に地震なんかはやはり日本という国の宿命であって、ほかの国の書物にはなかなか見られないから、何というか本当に800年前に鴨長明さんが同じ日本に住んでたんだなってことが実感できるのが良い。あとは、「賢帝は庶民の家の煙突から煙が昇っていなかったら(それほどまでに生産力が落ち込んでいて、生活に窮している)年貢でさえも免除する」、とか「都が成り立っているのは地方のおかげなのに、どうして地方のことを軽んじるのだろうか」、とかまさに今のご時世にもちょうどど突き刺さるようなことを言っていてすごく興味深かった。いいぞ、もっと言ってやれ。
二つ目は、鴨長明の人となりがとても魅力的ということ。まず、趣味が和歌と琴っていうのが良い。教養のある、かっちょいい生き方。そして、出家したはずだから本当はダメなのに、それらを出家した先に持って行ってしまうのもまた良い。その新しい、小さな小屋みたいな住まいで虫や鳥の声といった自然の音に包まれた静寂の中で、和歌の書物を読んだり、自分で和歌を作ったり、それを楽器に合わせて歌ったりする。誰に聞かせるわけでもなく、ただただ自分の楽しみのために。それと、ちょくちょく都の様子が気になる様も良かった。なんだ、全然煩悩だらけじゃん。でもそれも本人は認めていて、「ただただ仏様の前でお経を唱えるのみである」、と書いてあって、なんか、これが仏教というか宗教のある種正しい受け取り方なんじゃないかな、なんてのをふと思ったりもした。
とにかくこれを読んでくださった皆様には是非実際に「方丈記」を手にとって読んでもらいたい。私でなくたってちゃんと「日本三大随筆」に数えられるくらい長い間世間から認められてきているのだから、駄作なわけがない。そこは胸を張って言える。
長くなってきたからそろそろ切ろうと思うのだけどもう一つだけ。今回の件で、改めて日本の古典教育について少し考えた。日本の古典教育、いや、受験のための古典教育は、ひたすら原典が出題され、いわばそれを現代の日本語に変換する能力が求められる。私も学生時代は四苦八苦して単語帳を必死に覚えて、何とか助動詞の意味を抑えていた記憶がある。しかし、そのような学習はどうしても本質が欠落してしまっているように感じる。どうしてもつまらないと感じてしまう。古典の時間を睡眠時間に充ててしまう。
これは恐らく私だけの意見ではないと思う。以前AbemaTVでもこの話題を扱っていて、ひろゆきさんが「古典廃止論」を熱心に訴えていた。結局昔の言葉を覚えたって意味ないじゃん。それならもっと役に立つ数学とか理社に力を注いだ方が良い、と。
確かに、ただただ昔の日本語を覚えたってあまり役には立たない。それならよっぽど英単語を覚えた方が役に立つであろう。私は、やはりもっと古典の「内容」を重視すべきであるように思う。極端を言えば、すべて現代語訳で読ませてもいいように思う。単純にその思想や風情を味わうだけでも十分に価値があると思う。昔こんな人がいて、こんなこと思ってたんですよ、って。
まあ、実際に入試とかのことを考えると絶対に暗記させる、学ばせる事柄は多いほうが良い。でも、それだとせっかくこんなに素晴らしい古典が日本にはたくさんあるのに(これは日本の大きな強みだと思う。今から1000年も前の作品を、同じ国という文脈の中でで読める国は早々ない。てか、日本だけだ)、それをほとんど享受できないままで終わってしまう。今の時流を見ると、そのうち古典教育そのものがなくなってしまうような気さえする。それなりの改革はやはり必要であろう。