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【書く】名文を書くためには、よく考えることしかない?

現代小説ばかり読んでいると、
飽きが来る場合がある。

なんだか、すらすら読める
その容易さがイヤになるのだ。
それからか決定的な何かが
不足している気がするんです。

それで、
明治文学あたりを
取り出して読むと、なんだか
ちょっとホッとします。

そんな体験、50代以上の人間には
しばしばあるのではないでしょうか?

あれは、文体のゴツゴツ感、
それを読み解いていく快感が
もらえるからでしょうね。

それなら、
現代人が明治文学みたいな
ちょっと古くさい文体で
文を書いていたら、
あの独特のゴツゴツ感は
再現できるでしょうか?

おそらくは、
なんだかインチキ明治文学に
なるのが目に見える(笑)。

関西じゃない人が
関西弁を喋る時のあの
インチキ関西弁みたいな。

明治人は、みな、
文体を自分流に作るしかなかった。
漱石はすらすら読めるじゃない?
でも、それは漱石が
工夫に工夫を重ねて作り出した
文体なんですよね。

漱石と同時代の人でも、
まだ江戸時代みたいな作家、
たとえば、樋口一葉やらが
普通にあって、
また、漢文的な素養の深い人なら
幸田露伴みたい作家が
まだまだ普通にいました。

幸田露伴の文体も、
決して漢文そのものではなく
同時代の読者にわかるよう、 
もちろん工夫をしてるんだけど、
まだまだ、漱石などに比べ、
漢文的な香りが強すぎる。

明治は一人一人、
自分の文体をきわめようと
必死だった。

さて。問題は、現代です。
文体作りに格闘しなくても
良くなりました。

平野啓一郎を読めれば、
伊坂幸太郎を読むことは容易だ。

とかく、現代文学では、
文体に作家その人のオリジナルさが
ついて回るのは、
ドイツに住み続け、
母語の日本語だけに限らないで
創作に取り組む多和田葉子さんが
文体について、
常に意識的な作家でしょう。

それから、
歌い手出身で独特の文体を持つ
川上未映子さん。

この2人は文体について、
無意識になることがないから、 
逆に安心して、
その文体の魅力を堪能できる。

逆に言うと、
文体について、
無自覚でもすらすら良い文章が
書けてしまう現代作家は、
ある意味、不幸かもしれない。 

そのぶんを、
現代作家は、ドラマ作りに
熱心になったり、
内面を奥の奥まで
覗きこんでいく道しか無くなる。

文体のための格闘を
もう私たち令和人間は
しようにもできない。

これをメリットに活かして、
新しい創作エネルギーとして
放出できたらいいですが、
さて、それは何だろう?

それは、ただひとつ、
よく考える、ということに
尽きるように思うんです。

普段からなんとなく、
という訳ではなく、
それなりに、
生きる意味や
性についてや、
言葉について、
友人について、
働くことについて、
お金について、
ネット社会について、などなど
考えをまとめていると、
noteを書き出してるうちに
そうした背景があるかないか、
ということが、
ライティングの助けになる。
反対に、考えていないから
浅いレベルで終わってしまう、
ということが多々あります。

徒然に書いていて、
ああ、もうこれ以上 
深掘りしていけないや、
まいったなあ、ということが。

まあ、深掘り出来ていたら、
noteでも、もう少し、
良い記事を書けて、
皆さんにも喜んで頂けるのに…(汗)。

さあ、そろそろ
出社の時間になりました。

今日も1日、がんばりすぎず、
怠けすぎずに生きましょう。

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