【哲学】日常の思想と、非日常の思想はどう違う?
日常の思想と
非日常の思想。
日常を支える思想があるように、
非日常だからこそ必要な思想、
非常事態に陥った人間を救う思想、
そんな役目の思想もあると。
私は思ってました。
思想、思想いうと硬い印象ですが、
マナーやエチケット、考え方、
といったものでしょう。
さて。上記の私の浅い考えを
吹き飛ばすような文に出会いました。
小林秀雄『文学と自分』(1940年)
「今度、文芸銃後運動の講演旅行に
参加させて戴いたが、僕は平素考え
ている処と違ったお話をしようとは
少しも考えておりませぬ。又、
そんな事が出来るとも思いませぬ。」
1940年とは、
日中戦争の真っ盛りですね。
太平洋戦争の1年前。
そんな非常事態には、
作家たちは、
何か特別な考えや思想を
つまり、非常事態に備えた
特別な言葉を講演したり、
書いたりしていました。
我々に思い当たるのは、
4年前のコロナ禍の非常事態や
東日本大震災の3・11、
阪神大震災の時などには、
やはり、新聞や文芸雑誌に、
こんな時代には、
こんな時代だからこそ、
非日常的にも耐えうるような
より一層急進的な思想が
求められ、必要とされた。
そのニーズに、
作家や思想家、評論家も
新しく応えなければいけない、
そんな考えを持っていました。
ところが、
先に紹介した小林秀雄は
非常事態に必要な新しい思想、
そんなものはないし、
必要ともしない。
むしろ、普段から極め尽くした
普遍的な思想は、
平和な日常でも、
非常事態でも、
変わらない思想や考えを
持つべきだろうと言うのです。
ちょっと驚きました。
非常事態に合わせた
政治や外交があっても、
非常事態にコロコロ変わる
思想や考えでどうするのか?
そう小林は書いているのですね。
非常事態にあっても、
平和下にあっても、
芸術や文学は根本的には同じで
あるべきだ、と、、、。
相変わらず、小林秀雄は
ものを極めた先にいて、
読者を驚かせる評論家だ。
まあ、小林秀雄好きはみな、
大同小異、そこに惹かれて読む
マゾヒストなのでしょう(笑)。
「人間は平等である」などと
普段から話し書いてる作家や評論家が
戦争が起きたからといって、
「人間は不平等である」なんて
内容が変わったら確かに
我々も不安になりますね。
そんな作家は信頼ができない。
政治家や経済評論家が
非常事態に政策を変えるのは
仕方ないとして、
作家や評論家はその思想を、
戦争中になろうと、
敗戦を迎えようと、
思想もスタンスも変えぬべきであろう、
小林はそんなことをいうのです。
この考え方には、
いささか違和感も覚えますが、
逆らえない、もっともらしさもまた、
同時に強く感じます。
さて。
今、私たちが生きている世界は
非常事態でしょうか?
平和下にあるのでしょうか?
最近、そんなことすら
わからなくなりました。
どちらにせよ通じるような
思想や文学を持ち合わせて
いたいものですね。