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【笑いと文学】ピース又吉、EXIT兼近と続くお笑い文学者の系譜

EXITの兼近。
いつもネタ番組で登場する時は、
手をくねらせ、 
ポンポンポーンという決め台詞。
一見チャラそうな、あの兼近が
実は大の読書家と先日、
お笑い好きな友人から聞いて、
びっくりしました。

そうして、それだけで、
彼に関心が急に湧き、
更に彼の自宅の本棚の写真を見て
もういっぺんに好きになりました。
(笑)

大の読書家と知っただけで、
急に人物査定が変わるのは、
よくないですよね。
普段から相手の本質を
見極めてないから
そういうことになる、汗。

兼近は、ピース又吉の『火花』を
読んで感激し、芸人を目指したほど、
又吉をリスペクトしてるし、
彼の著作は全部読んでるらしい。
『東京百景』『第2図書係補佐』
『ひと』『劇場』
『かきフライが無いなら来なかった』
『まさかジープで来るとは』
などがありますが、
私が一番親しんできたのは
『かきフライ…』『まさかジープ』
この2冊です。

これはお笑い構成作家の
せきしろという作家と又吉が
交互に自由律詩俳句を
書いていく、実に奇妙な本です。
タイトルが既に自由律詩俳句(笑)。
(余談ですが、せきしろさんはかつて
ハリセンボン・はるかの恋人でした)

自由律詩というと、
種田山頭火や尾崎放哉が
まず浮かびますが、
彼らの歌はどれも切ない。
あまりに悲しい世界観。
家出して家族を捨て
死に場所を探して…
みたいな山頭火や放哉の歌は、
超ショートショートな
私小説みたいですね。
たまに読みたくなる。

でも、又吉の自由律詩俳句はそんな
文学的悲しみとはちょっと違います。
又吉もお笑い芸人、
せきしろさんも構成作家、
二人ともお笑いの世界の人なんです。
だから、自由律詩も、
文学的でもありつつ、
大喜利の回答みたいでもあるんです。
だから、読んでてクスっとなる。

そこに、又吉独特の悲観主義が
顔を出して、山頭火みたいな切なさを
もたらしてくれます。

ちょっと、いくつかご紹介します。
「二日前の蜜柑の皮が縮んでる」
「大人なのに行きつけの店がない」
「自販機を同時に押した
少し嫌な方が出た」
「自動改札にも無視された」 
「山では素直に挨拶できる」

これはみな、又吉の俳句です。
構成作家せきしろさんの俳句は
これより更に味付けが鮮やかかも
しれません。

これなら、私もやれそうかな!?
そう思った方も多いのでは?
私も毎回、これを読んでる時は
自由律詩俳人になってしまいます。
(笑)
でも、自由律詩はセンスが
ぐっと問われます。
はっきり言って、
センスにのみかかってるジャンル、
それが自由律詩俳句かもしれません。

それにしても、
お笑いって、もしかしたら、
文学と近いのでしょうか?
いや、文学はお笑いを包含してる?
というべきでしょうか。

改めて、仮に種田山頭火や
尾崎放哉の自由律詩俳句を
笑いという意味から思い起こすと、
ちょっと笑えるものが
沢山あるかもしれませんね。

「どうしようもない私が歩いている」
も、種田山頭火ではなく、
又吉が書いてたと言われたら
どうでしょう?
ちょっとシュールなネタかなって、
見え方も変わってきたりして?

ユーモアがどこかに潜んでるのも、
よい作品にはマストかも?

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