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【エッセイスト】向田邦子の手袋。須賀敦子の靴。
手袋を探した向田邦子。
靴を探した須賀敦子。
二人の作家・エッセイストは
あまりに違う印象だから、
気づかなかったですが、
実は1929年生まれの同い年でした。
向田邦子といえば、
ドラマシナリオ、
エッセイを得意とし、
小説も少し残し、直木賞も受賞しました。
須賀敦子は、
戦後まだ留学が珍しい時代に、
フランス、イタリアに留学し、
イタリアで家庭を持ち、
谷崎や川端康成ら日本文学を
イタリア語に翻訳しました。
イタリアの夫を亡くした後、
日本に戻り、大学で教えつつ、
精力的に著作を著しました。
向田邦子は、
自分にぴったりの好みの手袋に
出会うまで、手袋を買わず、
その頑固さを矯正することなく、
それを個性として生きました。
「手袋をさがす」というエッセイは
そうした、向田さんには珍しい、
人生論的なエッセイです。
「我ながら、何といいイヤな性格だろうと思いました。このままでは、私の一生は不平不満の連続だろうな、と思いました。今年の冬どころか来年の冬も、ずっと手袋をしないで過ごすことになるのではないか、と思いました。自分に何ほどの才能も魅力もないのに、もっともっと上を見て、感謝とか平安を知らないこの性格は、まず結婚してもうまくゆかないだろうな、と思いました」
一方、須賀敦子は、
「ユルスナールの靴」というエッセイで
プロローグに、こんな文章を書きました。
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と」
なんという見事な発見だろう、
と私はずっとため息をもらしながら、
ふと、これは向田邦子の
「手袋をさがす」と対をなす、
いや、向田邦子と須賀敦子の
二人の人生観がいかに対照的かを
証明する自分語りだろうかと、
痛感させられずにはいられない。
かたやぴったりの手袋、
かたやぴったりの靴。
向田邦子は自分の業深い個性に
行き着いたのに、対して、
須賀敦子はあんなに活動的に
生きて行ったにも関わらず、
なお忸怩たる思いで、
もっと遠くへ、もっと深くへ、
行きたいのに行けていない自分を
悔しがっている。
須賀敦子もまた業深い人ですね。
二人がまた、文学者となって
文章を著したのは明らかに
中年以降からだったことも、
境遇はよく似ている。
でも、文学的な世界観はあまりに
ちがう。異なり過ぎている。
向田さんは、家庭や夫婦や男女を
テーマに描き続けた。
須賀敦子は、それよりも広く、
孤独や愛や儚さをテーマに
文章を描き続けました。
どちらが深いか、とか
どちらが人気か、という
問題ではありませんが、
私は、少なくとも今は、
須賀敦子の忸怩たる悔しさに、
自分を移し込みやすい。
手袋を探し続けた向田邦子。
靴を探し続けた須賀敦子。
私が好きなエッセイストは
あまりにも才能豊かで、
かつ、完璧主義な
ないものねだりであったことは
どうも間違いないですね。