矢野絢子
感じたこと、思ったこと、だれかのこと。
チラシやジャケットのための、またはなんのためでもない、絵。
一頁だけの物語。
続き物の、小さな物語。
コトバだけの、コトバ。
2009年7月4日東京渋谷。 その日の渋谷はいつもにましてひどい有様だった。 高知のよさこい祭のような人ごみ。異臭。耳をつんざく大音量で騒音を撒き散らしながらのろのろ進むド派手なトラック。 それらに混じり、汗だくで重たいトランクを引きずり、道玄坂を上る。今日のライヴ会場は、もうすぐだ。 しかしそのたった10分の道のりで私の神経はかなり磨耗しており、ラヴホテルとライヴハウスが所狭しと隣接するビルヂングに辿り着いた時には、すっかりくたくただった。 エレベーターで
この前あたしは「じんうえん」というビョーキになって、3日間入院した。ほんとは母が「1週間くらい入院させたい」と言っていたけれど、病院のベッドが満パイだって、3日間しか開かないというので、3日になった。 まず、金曜日の午前中に病院にいって、「明日入院です」とゆわれた。お医者さんは目の下にくまのあるなんかサラリーマンみたいな人で、えらそうにしていたけれど、ちょっと似合ってなかった。 それから髪が金パツで口のまっかな看護師さんと、高校生みたいな看護師さんがあたしに注射する
高知の自宅の玄関を出て約4時間後。 私と15キロのトランクは、東京世田谷区にある小さな家にくつろいで、そこの主が淹れてくれたうまいコーヒーを飲んでいた。 「もうこんな時間か、昨日は飲みすぎちゃって…」 寝ぼけ眼で彼女が言う。私は笑ってパンを差し出し一緒に食べた。 彼女はY子。私と同じくピアノと歌のシンガーソングライター。2年前から上京し、都内でライヴをしながら生活してる。 昨年高知で出会い、仲良くなり「東京来たらうちに泊まりなよ」のひと言に本気で甘え、今では私
バニラアイスと生クリーム、ハニーシロップにべっとりと濡れたフレンチトーストと向き合っている午後三時。見ているだけで目眩がしそうなほど、甘い。 昨日とは違う街の同じようなカフェでコーヒーをすする。煙草をふかす。真昼の陽光から隠れるように、日中何時間でもそうしていると、若いウェイトレスが、あるいは年老いた喫茶の主人が、迷子の子供に向けるような憐憫と好奇の目で優しく合図をよこす。 頁に目を落とし、指で遊ぶ、めくる、煙草に火を点ける。 物語は今日も続いている。 オールナ
小さめの浴槽に水をいっぱいに張る。はだかになってつま先からゆっくり入る。しぶきをあげずに、水が体を受け入れる。虫のようにじっとしている。明るい格子の外から、隣の家のピアノの音が聞こえている。 息を吐くと、ハッカのように涼しく体をめぐる。世界で一番きれいな声を持っている様な気がする。「あー」と声を出して水からあがる。今度は思いっきり音を立ててあがる。 ひんやり暗い台所の大きな机に頭をもたげている。コップで机の上に水たまりをつくる。指で広げて、盛り上がった水の端を観察する
へたな絵かきがおりました。へたならなんで絵かきかと思うかもしれませんが。その男は自分が絵かきと思っていたのですから、へたな「絵かき」なのでした。 それならなんで「へた」かというとその男は自分がへたくそだと思っていたのでしたから。 「それはどうして?」とまだ聞かれる人がいますかもしれませんので、その理由を書いておかねばなりません。 「もうわかってる」という頭の良い方は、ご安心してとばして先へとお進みください。 「へたな絵かきのその理由」 絵かきがひとりおりました。
くきくきちゃんは、赤いわんぴいすを着てでかけた。ちいさなともだちと一緒に。ズックもきちんと履いた。ぼうしは去年買ってもらったむぎわらをかぶった。はりがねくんと、ふたごのぶたぶたに「いってまいります」とていねいにおじぎをした。ゴジゴジの時計がピーっと鳴った。 くきくきちゃんはそのまま家からまっすぐの道を歩いた。ヤギロンパの枝が、みんなゆっくり輪を描いてくきくきちゃんの歩いた道を消していた。赤や黄色や緑の風が笑い声や泣き声を運んできては落としていった。 途中、おしゃべりニ
「ああ、そうです。丁度ほら、こんな風に雨が降り続いていた時のことでしたね。青い空がまるで思い出せなくなるほど、毎日毎日が雨でした。 あそこの小さな公園があるでしょう。 そこで赤い傘を持った子供と水色の傘を持った子供が楽しそうに遊んでいました。 そう、子供は雨なら雨の、晴れなら晴れの遊び方をちゃあんと知っていますからね。ぬれることが嬉しくて、赤や水色の傘がうれしくて、どろんこがおかしくて、笑い転げていましたよ。 でもね、ふいにひとりが思ったのです。 (いつから雨は