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日々是妄想: 京都でカメラ散歩

毎年恒例、京都グラフィー弾丸ツアー

京都グラフィーを観に行く様になったのはいつからだろう。写真のメモリーでチェックしたら2017年の記録が出てきた。恐らく、それからほぼ毎年行っている様に思う。
京都市内を会場とした展示は、常に刺激的で意外性があって、五感が喜ぶから好きなのだ。今回は五月晴れに恵まれ、歩くのも楽しかった。

テーマは『SOURCE』 

はじまりですべてのものの起源
多分、最初の頃はテーマを読んでも、なんだかよくわかっていなかった。ただ観て感じることの方が心地よく、町と作品のコラボに触れて楽しんだ。それはよその芝生を見てる感覚だった気がする。
幾らかテーマについて考えられるようになったのは、ここ数年のこと。特にコロナ禍あたりから意識的に観察ができる様になったのは、自分も当事者の側に立っていると気付いたからかも知れない。
体感温度はそれぞれ違うにせよ、全員が右へならえで同じ方向を見るように、ある意味での均質化の強制が当事者意識に繋がったと思う。
基準に当てはまらず従わないことが排除対象になった状況は、そもそも人と人の関係性に大きな隔たりがあることを明るみに出した。
それまで辛うじて保っていた均衡が大きくズレて地層が露わになるように階層が見えてしまった感があるのは気のせいだろうか。
当たり前と思っていたこと=正しいわけではない。何を持って正義とするかが実は実体がなく、ルールだけが独立してまかり通る状況は、とても窮屈で居心地の悪いものだった。
根本から揺らいでいるからこそ、原点を見直す視点を持つ。
それはどこか今年の横浜トリエンナーレのテーマとも似通っている様に思える。いくら文明が進化しようが、AIにはできないことだってある。それこそが身体感覚を使い、感覚や感性を働かせることなのではないだろうか。過去を振り返って懐かしむことではなく、過去から何を学ぶかを問われている。忘れたふりも無関心も無し、今、ここ、自分がいる場所を認識して、大事にすることから始めるしかないように思う。

ヤノマミ族について知る

写真家のクラウディア・アンドゥハルのインタビューは自分が経験した差別の体験を淡々と語り、何故その視点を持つに至ったかを窺い知ることができるものだった。時代や状況により、声を上げることが許されない人々がいる。そのことは頭の隅に置いておこうと思う。
文明とは隔絶された世界に住もうが人であることに変わりはない。私達と同じサピエンスなのだ。どんな状況であっても敬意は必要不可欠であり、フラットな関係は理解と敬意があって初めて成り立つ。
京都という場所でこの展示を行う意味はとても深いのかも知れない。ざわりとした感触が残る展示。
写真もだけど、Yanomamiのアーティストによるドローイングが印象的だった。

種は美しく偉大な旅人だった

"生命の拡充に資する真の富の根源的な条件は、何よりも樹木や草の葉の緑=植物である”
ゲデスの講義から引用

まさにそういうことなのだと二条城の展示を観て理解した。様々な植物は生き残りをかけた生存戦略を種に集中させてきた。自らの領域、コミュニティを拡張することは生存率向上に繋がる。
その戦略の結果はなんと美しくセクシーなことか。大きく引き伸ばされた種の写真を見てうっとりした。
人工的に色をつけて判別された京野菜の種も妖しく美しい。まさか種にこれほど魅了されるとは…
同時にこれらがなければ、私たちは生きていけない現実にも思い至る。始まりは種なのだ。種が発芽し、花を咲かせ実を結ぶ。毒があるもの、食べられるもの、長い時間をかけて人類は自然から学びながら狩猟採集生活を送ってきた。気の遠くなるような進化の営み。自らにとって有用な植物を増やすことで、経済も発展したのだ。まさに植物の進化によって私たちは生かされている。
だがサピエンスそのものは、植物ほど進化していない。経済発展によって創り出した文明だけが先走りした結果、世界は混乱に行き着いた。
古の台所という場所に種の展示をする。生きることの根源がそこにある良い展示空間だった。どうせなら錦に行って京野菜でも買えば良かった…

次の世代が世界をどう観ているか

誉田屋の空間にこれか…CHANELネクサスホールの展示はちょっと意表をつく。
*Birdshead(鳥頭)で思い出すのは西原理恵子の『鳥頭紀行』だったりもする…

上海出身のアートユニットによる作品は、空間に違う息吹きをもたらす。典型的な京の商家と墨色に塗られた蔵。合う合わないはともかく、京都と東京で撮影された124点のイメージからなる『Matrix』の新作は興味深い作品だった。都市の断片が組み合わされ、新たな違う景色になる。シャッフルされて繋ぎ合わされた表象には、確かに今という時代が感じられ、妙な説得力があった。そうかと思うと古典的な表現もあってその対比はちょっと斬新だった。
蔵に至ってはテーマパークっぽい。そもそもクセが強い空間に架空の新興宗教はある意味で合ってる。着物を展示するときに使う衣紋を使ったのもそれらしくて面白い。オブジェを写し、その写真をコラージュのように配置する。写真は記録メディアでしかないけど、それも写真の在り方なのだ。

印刷の匂いが今も残る京都新聞地下1F

Diorがスポンサーになったヴィヴィアン・サッセンの展示
若干コマーシャルな感じはするけれど、様々な表現を試行錯誤しながら、一人の作家が変容したことがわかる展示ではあった。
いずれの表現もその時の感覚で自分自身と向き合い、話し合いながら作り上げた感じがした。独特な色彩センスと造形感覚は興味深い。写真に彩色した作品が面白くてガン見した。
空間が章立てで仕切られたのがちょっと残念な気もしたが、回顧展と銘打ったからにはこれもアリなのかと思う。
古くて薄暗い工場跡にカラフルな作品、その対比が際立つ展示。映像を流した場所も良かった。
ただ前回のアンビエントを観てると、うーん、ちょっと残念という気もしなくもない…
展示以外?かは不明だけど、階段の途中や壁に書かれた文章がとても良い。思わず立ち止まる力があった。視覚イメージとしても印象に残るインスタレーション。古い建物が語っているようにも思えた。

日帰りではあったけど、観たいところには行った。毎回、ここでこれか?という意外性も楽しみな展示になっている。京都という土地柄を活かした良い展示だと思う。
普段は入れない空間を体感できるのも個人的にポイントが高い展示ある。

事前に横浜トリエンナーレを観たことで、それぞれのテーマに共通する視点があることに気づけた。人新世は色々な意味で転換期に来ていて、歴史の関係性を見直す視点を持たなければ読み解けない事柄がある。
テーマを伝える手段は異なるけれど、何かせよというメッセージを受け取ったような気がしている。
そして私達は何を失いつつ、何を得ようとしているのか。。。

帰りに八竹庵の縁側に座り、坪庭を眺めて一息ついた。瀟酒な町屋には鉾見台がれば、洋間もある。
このバランス感覚が京都らしいのではと、お上りさんは思うのだ。
特に展示があるわけではないけど、過去のカタログやインタビュー映像なども見ることができた。
突き詰めると温故知新に行き着く。過去は変わらない。ノスタルジーはあって当然だけど、そこから何を見い出し学ぶのか。不確定の未来をどうやって思い描けば良いのかは、誰にもわからない。
今日という一日を生き、日常を積み重ねた先に何があるのか。問いだけがリアルに残る。
五月晴れに恵まれた京都の一日を、とりあえず覚えておこうと思ったので備忘録として書き残しておく。

東京駅が近づくにつれ、日常に戻る感覚がある。
もう少し遊びたかった子供の頃の夕暮れ時を思い出し、中央線が遅延してないことを祈る🙏

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