好きなものはずっと好きでいい。わたしたちの血と肉だった「昭和45年女」
ちょっぴり背伸びして「昭和45年女」を買った47年女、じゅんぷうです。
買わない理由がどこにもない1冊でした。ついに来たな、と。プロマイドのマルベル堂に勤務し、時折noteにヤヌスの鏡やホットロードへの想いをつづり、鈴木英人のイラストバッグにはデュラン・デュランのバッジとニヤのアクキー(To-y35周年の一連で上條先生にお会いし損ねたのは痛恨)、日ごろから回顧どころか昭和と地続きの世界線で生きているわたしではありますが、この「45年女」、10代のころの自分の部屋の本棚や大事なものゾーンそのものでした。
兄が8歳上、総勢20人近くいるいとこたちの下から2番目という環境で育ったわたし。年上のいとこたちの持っているマンガや雑誌を読み、音楽も一緒に聴いていたそもそもが背伸びしたがりっ子。10歳ぐらい上でおそらく当時高校生だったお隣のお姉さんの部屋で「キャンディ・キャンディ」を読みながらお姉さんとお友だちの会話に聞き耳を立てていました。「昭和45年女」のお兄さん雑誌「昭和40年男」も創刊時は「来たな」という感じで読んでいましたが、わたしが特殊というよりはやっぱりカルチャー多様性世代なんですね。
弟雑誌「昭和50年男」の増刊として発刊された「昭和45年女」のコンテンツの中でも、ひときわわたしがざわついたのは「My Birthday」と本田恭章さまでした。ここを掘ってくださってありがとうございます。
愛と占いの情報誌「My Birthday」。通称「マイバ」。魔女っこ入門や白魔術、妖精入門みたいな別冊も買うぐらい、神秘やメルヘンの扉を開いてくれたのはもちろんなのですが、自分を形成しているといってもいいカルチャーが、じつはマイバきっかけなんです。山岸涼子「日出処の天子」、大和和紀「ヨコハマ物語」、新井素子はじめコバルト文庫いろいろ…。これらは背伸び値最大の小学校高学年ごろ、マイバのレビュー記事で気になって手を出し、数えきれないほどくり返し読んで今も心の宝物たち。つまり愛と占いだけじゃない情報誌だったんですよ。12星座の「毎日の星占い」なんていうとてつもなく細密な提供をしながら、ティーンのための占い以外の情報もぎっしり。「45年女」の記事を読んで、え、ここまで手作業でやってたの…!?と震えました。愛と占いの愛って読者への愛ですよ!
そして本田恭章さまです。『2年B組仙八先生』の夏彦に『ねらわれた学園』の京極少年と、最初に出会ったのはドラマの中の彼でした。こんなに麗しい日本人男子がいるのかという衝撃。それからロッカーとしての彼を追ってJAPANを知り、ハノイ・ロックスを知り、洋楽雑誌「ROCK SHOW」も買うようになっていきます。ファイル式の挟める下敷きの1枚にはまるまるデュラン・デュランのジョン・テイラーの切り抜き、もう1枚のA面が本田恭章でB面が中川勝彦という小学生でした(中学生になるとバービー・ボーイズのKONTAに)。カンペンの中には明星のふろくの吉川晃司シールを貼ってた気もする。お部屋にはグリコ「カリフォルニアバー」の特大吉川晃司ポスターと(セブンイレブンで大量にもらったおおらかな時代)、アルバムか写真集的なダイアリーの予約特典の特大本田恭章ポスター。
中学生~高校生はバンドブームに熱狂して恭章さまの活動もあまり追わなくなったのですが、The Toysというバンドを組んでいると知った高校生のとき。当時新宿の日清本社の地下にできたばかりのライブハウス、パワーステーションでマンスリーライブをやるというので通っていました。やっとお目にかかれたナマの恭章さまはやはり麗しく、けれどクールでミステリアスで尖った雰囲気は消えて大人の余裕。ビジュアルが神がかりすぎていたゆえに、異色キャラでのドラマ出演、ロック寄りのアイドル歌手デビューと、葛藤と格闘の連続だったと思います。
そんな恭章さまからわたしたち「45年女」への”今がんばってることを貫いて、止まることなく歩み続けてほしい”というメッセージに不覚にもほろり。田村セツコさんもそうですが、あらためて、好きなものを好きなままでいていいんだと背中を押された「昭和45年女」でした。ちゃんとスキンケアとか薬膳特集もあって、マイバぐらい抜かりなくやさしい笑