恋する文化人類学者
20240610
私たちは文字を意味伝達の媒体として多用する社会であるが、アフリカの無文字社会では、声や音の微妙なニュアンスをコミュケーションの手段として発達させた。
異文化の受容は、人類の多様性の尊重である。
異なる人々が実際に生活をともにし、その関係がある一定以上密になったとき、コミュニケーションは破綻を迎える。
少しずつ「違う」ということの居心地の悪さに気づきはじめる。そこには理解できない何かがある。
文化人類学、異文化の研究をするのであれば、現場を体験するしかない。現場調査、フィールドワークを行う。
『西太平洋の遠洋航海者』マリノフスキー
「人類学者は仕事のためにふさわしい環境に身をおくべきである。つまり、できるだけ、白人と一緒に住まず、原住民のどまんなかで暮らすことである。原住民のいるところへときたま顔を出すのと、彼らと本当に付き合うこととは、全く違う。本当の付き合いとは何を意味するか。村での生活は、初めのうちはものめずらしく、ときには不愉快なこともあり、また、ときにはひどくおもしろいこともある、一種の異常体験なのだが、それが、しばらくするうちに、環境との違和感のない、全く自然な毎日になっていくということである。しまいには私を彼らの生活の一部であり、たばこをくれるのでなんとかがまんできる一つの必要悪、言い換えれば、一人のうるさいやつとみなすようになるのだ」
人は相手の素性に恋するのではない。恋をした後に相手の素性を少しずつ発見していくのだ。
「私は誰?」と自分に問いかけたときに浮かんでくるさまざまな答え。名前、名字、性別、~の娘、の兄、 ~大学生、〜県民、日本人、アジア人、地球人・・・・・・これらすべてが交錯する場が「私」である。私はこういった数々の「私」を引き受けて、なおかつ「ひとりの私」でいなければならない。このように、自分が自分自身であるという意識をアイデンティティという。
それは内的に自分自身としてのまとまりがあり、同時に自分の外側に位置する社会ともつながっている、という感覚である。
「私」のアイデンティティを構成する要素には、数多くの社会的カテゴリーが含まれている。名字という親族カテゴリー、男女という性別カテゴリー、県民という地域カテゴリー、日本人という国籍あるいは民族カテゴリー、アジア人という人種カテゴリー、地球人という宇宙的カテゴリー。
私たちは一個の肉体をもってこの世に生を受ける。確かに私という個人はこの世界に存在する。だが人間は社会的動物であり、必ず既成の社会の中で場所を与えられ、その場所に見合った役割を期待され、その期待に応えながら行動してゆかなければならない。この場所が社会的カテゴリーである。人類はさまざまに人間を分類し、おおくのカテゴリーをつくりあげてきた。この世界は、さまざまなカテゴリーが複雑に絡みあった構造物なのだ。私たちはこれら複数のカテゴリーに所属することで、社会的なアイデンティティを確立している。
本のページからこぼれ落ちる、現実の世界は、本の中には収まりきらない。
民族の定義
「われわれ意識」をもち、身体的特徴を同じくし、共通の言語・文化・歴史意識を共有する集団
われわれ意識は「他者意識」と対になってはじめて存在する、ということ。自分たちと違う人々との出会いが、自分たちは同じである、という意識を生みだす。
「大人になる」とは、個人的欲求を社会的枠組みに適応させてゆくこと、いいかえれば社会のしきたりを受けいれてゆくということだろう。私も大人になったのかもしれない。
外婚 ( 一族の者ではなく他集団の者と婚姻関係を結ぶこと ) により複数の集団が連帯し、人類はより大きな社会を形成することが可能となる。外婚は「女性の交換」という形式をとる。
自然の状態の親族関係に、あえて人為的な外婚規制をもちこむことで、人類は自然な状態から文化の状態に移行した。別の家族との縁組の絆が、生物性に対する社会性の優位、自然性に対する文化性の優位を保証するのである。結婚は単なる男女間の愛の結晶などではなく、人間社会を成立させる最も根本的な社会的仕組みなのだ。婚姻とは女性の交換である。
人間は「分割」する動物であり、分割こそが文化の基本である。例えば一日は刻一刻と移ろいゆく時間の連続だが、人はそれを「朝」「昼」「晩」などと分割し、それぞれにあわせて挨拶を使いわける。
連続体を分割してそこに意味を付与するというプロセスが、われわれの世界を成り立たせているのだ。人間の「生」も連続的な時間の流れにすぎない。生まれてから死ぬまで、続く時間の流れがあるだけだ。だがわれわれはそれを分割せずにはいられない。 か弱くかわいい幼少期、純真かつ残酷な少年・少女期、悩み多き青年期、結婚を経ての壮年期、人生たそがれ老年期、誰もが迎える死後の世界。こうして一生をいくつかの期間に分け、その階梯をひとつずつ登ってゆくプロセスとして人生を捉えるのだ。
親しき仲にも礼儀あり、という言葉がある。例え互いに心を許しあった仲だとしても、越えてはいけない垣根がある。その垣根の高さは文化によって、社会によって、あるいは個人によって異なるだろう。われわれはその高さを敏感に察知し、相手に不快感を与えるまえに身を引かねばならない。そのセンスは成長する過程でなんとなく身についてゆき、様々な場面に対応できるだけのコミュニケーション能力を備えた頃に「大人になった」と世間から評価される。
社会は独自の〈社会構造〉をもっている。社会構造とは「社会関係の連続的な網の目」のことである。例えば人類学者がある社会を調査する場合、目の前にいるのは具体的な人々である。そして人類学者が直接に観察できるのは、彼らのひとつひとつの行為である。それらの行為は決して無秩序なものではなく、彼らの置かれている社会関係のあり方によって統制されている。たとえば父と息子の関係において、やっていいことと悪いことは社会的に決まっているだろう。祖父母と孫の関係、先生と生徒の関係、上司と部下の関係など、 それぞれの社会関係によって、両者の行為のあり方が一定の規範に従うよう社会が無言の圧力をかけているわけである。こうした社会関係とそれに規定された社会的行為は観察可能なものであり、「現実に存在している」そしてその社会におけるすべての社会関係が互いにに結びつきあいながら網の目のようになったものを、社会構造と呼ぶのである。この社会構造の基本的単位は個々の人間である。人は必ずその社会関係の網の目の中で生きているのだ。人々は、自分がこうした規範に従って行為するよう期待されていること、及び他の人々も当然同じようにするはずであると期待して差し支えないということを知っている。社会関係は常に一定の権利と義務を含んでおり、人はそれに従って生きることを余儀なくされているのだ。
ひとつの社会はいっけんバラバラな要素の寄せ集めのようであるが、実はそれらは互いに密接に関連し、結び付き合いながら、ひとつの社会を構成している。それはあたかも人間の身体が様々な器官の集合体でありながら、ひとつの生命を形づくっているようなものである。だから行為は「社会的生命」のなかで、人間の各器官が健康を維持するために働くのと同じく、その社会の継続性を維持するために機能するのだ。そしてそれは、常に社会の均衡を保つ方向に機能するであろう。このように、〈社会構造〉と〈機能〉をキーワードとして、社会をひとつの生命体のように理解し、その内部における社会的要素の相互依存関係や、社会的行為の因果関係を明らかにしようとする理論的態度〈機能主義〉あるいは〈構造機能主義〉と呼ぶ。
「(学者たちは)不必要な学問上のつまらぬことはたくさん知っているけれども、人生にとって最も必要なこと、すなわちこの世で人間はどのように生きなければならないかということについては、何も知らないし、また知ることができないのだ」
『愛と生と死トルストイの言葉』
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