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あなたの知らない脳
20250204
自分のことは自分がいちばんよくわかっている、と思っている人は多いだろう。なにしろ心の中は人にはのぞけないし、誰にも知られていない過去や秘密もある。いやいや、自分のことは意外とわかっていないものだよ、と言う人もいる。確かに、「あなたの長所と短所は何ですか」と訊かれると返事に詰まるし、自分では気づかなかった癖を他人から指摘されて驚くこともある。それでも、人の意見を聞いたり、心理テストをしたり、あらためて生き方を見つめ直したりすれば、自分の意外な一面にも気づき、自分のことがよくわかるように思える。
ところが脳神経学者によると、そんなふうに自己分析してわかる「自分」、意識に上る自分は、大きな氷山の一角にすぎないのだという。私たちが自分だと思っている自分は全体のごく一部であって、残りの大部分は水面下に隠れていて意識に上らない。
水面下の脳の活動は、意識に上る「自分」のすべてに関係している。自分が見聞きするもの、やること、考えること、信じることさえも、意識のあずかりしらない脳の活動によって決まるというのだ。目に入るものがすべて「見える」とはかぎらない。関心のないものが目の前にあっても気づかないことはよくある。だから、視覚や聴覚は脳がつくり出すものという話は、比較的納得しやすい。無意識の行動というのも理解できる。習慣的にやっていることは、意識に上らないし記憶にも残らないことがままある。職場に向かう電車の中で、ふと、玄関の鍵をかけ忘れたかもしれないと不安になるのは、その行為を意識していないからだ。
しかし、思考や信念までもが意識のある「自分」には手の届かない水面下で決められるとは、いったいどういうことだろう?洗脳や催眠術のたぐいの話なのか?そうではない。私たちはヒトとして、周囲の状況に適応して生き延びられるように進化してきた。脳も例外ではない。人間が直面する問題をうまく解決し、より長く生き、より多くの子孫を繁栄させることができるように進化してきている。そのため、誰に魅力を感じるか、どうやって他人とかかわるか、何を美しいと思うのか、といった主観的と思われる判断も、実は太古の昔からの進化によって脳に焼きつけられているプログラムで決まるというわけだ。
さらに著者は、「本当の自分」という概念の危うさも指摘する。なぜなら、脳のなかの部位どうしが対立して争い合うこともあるからだ。著者はそれを「ライバルからなるチーム」と呼んで、議会制民主主義になぞらえている。脳のなかにはいくつもの政党が存在し、議論を戦わせていて、どの意見が勝つかは条件や状況によって変わる。最終的に勝った意見が「自分」の意識に上って行動として現れる。討論と決議の結果によっては行動が矛盾することもあるが、どちらか一方だけが「本当の自分」なのではない。どちらも同じ脳が生んだ結果である。脳のなかの対立によって「自分」が変わることを、事実として受け止める必要があるようだ。
このように、脳は私たちが知らないところで一生懸命働いてくれている。処理すべきデータがあまりにもたくさんあるので効率よく仕事をこなそうと、既存のデータを再利用したり、勘を働かせて予想を立てたりする。情報が足りなければ、それらしい話をつくり出す。
※
私たちはおそらく地球上で唯一、向こうみずにも自らのプログラミング言語を解説するゲームに打ち込むほど高度なシステムである。自分のデスクトップコンピューターが、周辺装置を操作し始め、勝手にカバーをはずし、ウェブカメラを自分の回路に向けるところを想像してみてほしい。それが私たちだ。
頭蓋骨のなかをのぞき込んで見つけたものは、最も重要な人類の知的発達に数えられる。
私たちの行為、思考、そして経験の実にさまざまな側面が、神経系と呼ばれる広大で湿った化学・電気ネットワークとつながっている。そのメカニズムは私たちとはまったく異質なのに、どういうわけか、それが私たちなのだ。
思考は、物理的要素に支えられている。どうしてそれがわかるかというと、脳が変化すると人が考えられることの種類が変わるからだ。
脳という物質の状態が思考の状態を決めるのだ。
そしてその物質は正常な思考が作動するために絶対かせない。
私たちの希望、夢、野心、恐怖、人を笑わせる素質、素晴らしいアイデア、迷信、ユーモアのセンス、欲望、すべてがこの不思議な器官から生まれる。そして脳が変化すると、私たちも変化する。
私たちがやること、考えること、そして感じることの大半は、私たちの意識の支配下にはない、ということである。ニューロンの広大なジャングルは、独自のプログラムを実行している。意識のある自分ー朝目覚めたときにぱっと息づく私はー自分の脳内で生じているもののほんの小さなかけらにすぎない。人の内面は脳の機能に左右されるが、脳は独自に意識を仕切っている。その営みの大部分に意識はアクセス権をもっていない。私は入る権利がないのだ。
脳は情報を集めて行動を正しい方向に導く仕事をしている。決定に意識がかかわるかどうかは問題ではない。そしてたいていの場合、かかわっていない。
聞いているつもりもなかった部屋の向こう側の会話に、自分の名前が出てくると気づく。理由はわからないが誰かを魅力的だと感じる。自分がどういう選択をするべきかについて、神経系が「虫の知らせ」を送ってくる。
脳は複雑なシステムだが、だからといって理解不能ということではない。私たちの神経回路は、人類が進化していくなかで祖先が直面した問題を解決するために、自然淘汰によってつくられたものだ。脾臓や目と同じように、脳も進化の圧力によってつくられてきた。
意識も同じだ。意識は有利だから発達したのだが、有利なのは限定的な範囲だけである。
私は大はしゃぎで言う。「いいことを考えついた!」。しかし実際には私にひらめきの瞬間が訪れる前に、脳が膨大な量の仕事をやっていたのだ。一つのアイデアが舞台裏から表に出てくるとき、私の神経回路は何時間も、何日も、あるいは何年もそれに取り組み、情報を集約して新たな組み合わせを試している。しかし私は舞台裏に隠れている壮大なメカニズムに驚嘆することもなく、手柄を横取りする。
「私たち一人ひとりのなかに、私たちが知らない別の人がいる」
カール・ユング
「僕の頭のなかに誰かがいるが、それは僕じゃない」
ピンク・フロイド
自分の内面で起こることのほとんどが自分の意識の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳のなかで始動する意思決定に関しては、大部分を傍観しているのがベストだ。
意識は脳の活動の中心ではなく遠いはずれのほうにあるので、行なわれていることのかすかな気配しか伝わってこない。
脳に対する新たな理解によって、私たち自身についての見方が大きく変わる。私たちは営みの中心にいると直感的に思っていたが、もっと緻密に、明快に、そして驚くような角度から、状況をとらえるようになっている。実は、私たちは同じような進歩を以前にも経験している。
人の意識には上らないのに人を行動させることができる、希求と傾向があることを示唆している。
意識される思考と無意識の思考のあいだには境界が存在し、私たちが自覚する観念もあれば、しないものもある。
人は自分のことをほとんど知らないという正しい認識に到達した。
二面の壁が合わさる隅では、光線の当たり方のちがいによって、隅のすぐ隣のほうがペンキの色が明るく見えたり、暗く見えたりする。思うに、たとえ知覚上の事実はずっと目の前にあったとしても、今までそれを見逃していたのだ。
データはそのまま目の前にあったのに。そんなわかりやすいことを、なぜ私たちは知覚しないのだろう?私たちは本当にそんなにも自分が経験していることに気づかないのだろうか?
そのとおり。びっくりするくらい気づかない。そしてこの問題に関して、内観は役に立たない。自分は世界をちゃんと見ていると信じていて、そうではないことを指摘されるまで気づかないのだ。
シーンにゆっくり目を配り、興味深い目印を分析して、ようやく変わっているものを見つける。脳が見るべきものを理解すれば、変化は楽に見えるししかしそのためにはまず徹底的に調べなくてはならない。この「変化失認」は注意力の重要性を浮き彫りにする。つまり、ものの変化を見るためには、それに注目しなくてはならないのだ。
あなたは自分が世界を細部にいたるまで見ているとむやみに信じていたが、実は見ていない。それどころか、目に入るもののほとんどを認識していない。
何かに目を向けても、必ずしもそれを見ることにはならない。このことを最初に発見したのは神経科学者ではない。マジシャンがずっと前に気づいて、その知識を活用する手法を築いた。マジシャンは私たちの注意を誘導することで、すべて見せながら手品をする。
その行動から秘密がばれるはずなのだが、私たちの脳は網膜に当たるものすべてではなく、目に入る場面のほんの一部しか処理しないので、マジシャンは安心していられる。
実際、私たちは自分で自分に問いかけるまで、ほとんどのことを意識していない。今、左の靴は足にどんなふうに当たっている?かすかに鳴っているエアコンの音の高さはどれくらい?私たちは五感にとってわかりきっているはずのことをほとんど意識していない。注意力を場面の細かいところに向けてはじめて、逃していたものを認識するようになるのだ。ほとんどの場合、集中力を発揮する前は、そういう細部に気づいていないことに気づいていない。したがって、世界に対する私たちの知覚が外界を正確に描写した解釈ではないだけでなく、私たちは実際には知る必要があるものしか見えていないのに、自分は細かい全体像を把握していると誤解している。
脳は世界にアンテナを伸ばして、必要なタイプの情報を積極的に抽出する。脳は、すべてを一度に見る必要はないし、すべてを内部に蓄える必要はない。どこに行けば情報が見つかるかを知っていればいいのだ。世界を詮索するときの自分の目は、任務を負ったスパイのようなもので、データを得るために最適の戦略を実行する。たとえそれは「自分の」目であっても、その目がどんな仕事をしているのか、自分はほとんど知らない。隠密作戦のように目はレーダーが感知しないところで仕事をしていて、そのスピードは速すぎてあなたの鈍重な意識では追いつけない。
視覚はあまりにも自然に思えるので、それを理解するのは、魚が水を理解しようとするようなものだ。魚はほかのものを経験したことがないので、水について考えたり思い描いたりすることは、ほぼ不可能である。
左目に一つの像(たとえば牛)、右目に別の像(たとえば飛行機)を示された場合、知覚の切り替えが起こる。両方が同時に見えることもないし、二つの像が融合して見えることもないーその代わり、一方が見えて、次に他方が見えて、また前の像に戻るのだ。自分の視覚系は対立する情報間の争いを仲裁しているのであり、私は実際にそこにあるものを見ているのではなく、その瞬間に勝っているほうの知覚の内容を見ているのだ。外の世界は変わっていなくても、自分の脳は動的にさまざまな解釈を示す。
脳はそこにあるものを能動的に解釈するだけでなく、しばしば本来の領分を踏み越えて、ないものをでっち上げる。
一つには、目は二つあって、盲点は別々の重ならない場所にある。つまり両目を開けていれば、視界がくまなく網羅される。
もう一つは、盲点の欠落している情報を脳が「補完」することにある。
そこにあるものを知覚しているのではない。脳が伝えてくるものを知覚しているのだ。
目から脳にちょろちょろ流れるデータはあまりにも少ないので、豊かな視覚経験をきちんと説明できないという疑いた。そして、脳は入ってくるデータについて憶測を立てる必要があり、その憶測は以前の経験にもとづいている、と結論づけた。つまり、わずかな情報しか与えられない脳は、精いっぱい推測して、それをもっと大きいものに変えているというのだ。
視覚の概念を「無意識の推論」と呼んだ。この推論とは、そこに何があるのだろうと脳が推測するという考えを指し、無意識は私たちがそのプロセスを自覚していないことを指摘している。
視覚は客観的にそこにあるものを表現するように思えても、ただで手に入るものではない。学びとる必要があるのだ。
目覚めている状態と眠っている状態のちがいは、目から入ってくるデータが知覚を固定していることだけである。眠っているときの視覚(夢)は現実世界の何ものとも結びついていない知覚であり、目覚めているときの知覚は自分の目の前にあるものともう少しかかわりのある夢のようなものだ。
私が特定の条件下で何らかの行動をすると、脳は何が起こるかを内部でシミュレーションする。内部モデルは運動行為(捕る、よけるなど)に一役買うだけでなく、意識的な知覚の基礎にもなる。1940年代に早くも思想家たちは、知覚の機能はとらえられたデータの断片を組み立てることによってだけでなく、入ってくる感覚データに合わせて予想することによっても作用するのではないかと、漠然と考え始めていた。妙な話に聞こえるかもしれないが、この考え方の発端は、私たちが何を見るかは予想に影響されるという観察結果である。
一次視覚野は、網膜からどんなデータが入ってくるかを予測するための内部モデルを構築する。一次視覚野は視床に予測を送り、視床は目から入ってくるものとすでに予想されているものの差異を報告する。視床は視覚野にその差異情報ーつまり、予測されなかった部分ーだけを送る。この予測されなかった情報が内部モデルを修正するので、将来的にはミスマッチが少なくなる。このように、脳は自分のまちがいに注意を払うことによって、世界のモデルを精緻なものにしていく。
詳細な予想が視覚野から視床に送られ、正方向に向かう情報は差異を伝える小さな値号だけであれば、当然そうなると考えられる。
このことから、知覚には感覚入力と内部予測の能動的な比較が反映されていることがわかる。そしてそこから、もっと大きな発想を理解する道が開ける。すなわち、周囲に対する意識は、感覚入力が予想に反する場合にのみ生じるのだ。世界についての予測がうまくいっているとき、脳はうまく仕事をこなしているので意識は必要とされない。たとえば、初めて自転車の乗り方を覚えるときはものすごく意識を集中する必要があるが、しばらくたって感覚運動予測が完成すると、無意識に乗るようになる。自分が自転車に乗っていることに気づいていないと言っているのではなく、どうやってハンドルを握り、ペダルに力をかけ、胴体のバランスをとっているのかを意識しないという意味である。あなたが動くとどうなると予想されるか、あなたの脳は豊富な経験から正確にわかっている。だからあなたは何か変化が起こらないかぎり、動きも感覚も意識しない。
自分の知覚する世界はつねに現実世界に後れをとっている。言い換えれば、自分が知覚する世界は、「生放送」のテレビ番組のようなもので、実際には生放送ではないのだ。そういう番組は、誰かが不適切な言葉を使ったり、けがをしたり、服が脱げてしまったりした場合に備えて、数秒遅れで放送されている。あなたが意識している生活も同じで、たくさんの情報を集めてから、それを生で放送していさらに妙なことに、聴覚と視覚の情報は脳のなかで処理されるスピードがちがうのに、指パチンと指の光景とパチンという音は同時に生じているように思える。
肝心なのは、時間は心による解釈であって、「外で」起きていることの正確なバロメーターではない、ということだ。
私たちの時間の感覚ーどれだけの時間が過ぎたか、何がいつ起こったかーは脳によってつくられたものだということだ。そしてこの感覚は、視覚と同じように、ごまかされやすい。
そういうわけで、自分の感覚の信頼性に関する最初の教訓は、信頼するな、である。何かが本物だとあなたが思うからといって、本物だとあなたが知っているからといって、それが本物であることにはならない。
結局のところ、私たちは「外に」あるものをほとんど自覚していない。
脳が時間と資源を節約する憶測を立てて、必要な場合にだけ世界を見るようにしている。自分はたいがいのことを疑問に思わないかぎりは意識していないと知った私たちは、自分発掘の旅の第一歩を踏み出したわけだ。自分が知覚する外界のものは、自分にはアクセス権のない脳の部分によってつくられていることがわかった。
アクセスできないメカニズムと豊かな錯覚の原理は、視覚や時間のような基本的知覚だけに当てはまるのではない。もっと高いレベルー 私たちが考えること、感じること、信じることーにも当てはまる。
知識と意識のあいだには大きな隔たりがありえる。内観で操れないスキルについて調べて最初に驚くのは、潜在記憶が顕在記憶と完全に分けられることだ。一方が失われても他方はまったく無傷の場合がある。
人々がいつも本心を言うとはかぎらないのは、自分でも本心を知っていとは、かぎらないからでもある。「自分が言うことを聞くまで、自分が何を考えているかどうしてわかる?」
二人の人間が恋に落ちるときに起こることを考えてみよう。常識的には、生活環境、きずな意識、性的な魅力、互いへの称賛など、あらゆる種から情熱が生まれるとされている。
自分が誰を配偶者として選ぶかに、無意識の隠れたメカニズムはまさか関係していないだろう。それとも、しているのだろうか?
人は他人に映る自分を愛する傾向がある。
心理学者はこれを無意識の自己愛、あるいはよく知っているものへの安心感だと解釈するーそしてそれを「潜在的自己中心性」と呼ぶ。
見たことを覚えているかどうかにかかわらず、事前にリスト上でその言葉を見た場合のほうが上手に埋められる。
あなたの脳の一部がリスト上の言葉に影響されて変化する。この効果はプライミングと呼ばれる。あなたの脳はポンプのように呼び水を差されたわけだ。
プライミングは、潜在記憶のシステムが基本的に顕在記憶のシステムと別々であることを裏づける。すなわち、顕在記憶がデータをなくしても、潜在記憶はしっかりしまい込んでいるのだ。
何かを過去に見聞きした経験は脳を一時的にくすぐるだけでなく、影響が長く続く可能性もある。誰かの顔写真を前に見たことがある場合のほうが、あとで見たときに魅力的だと判断する。前に見たことを覚えていなくてもそうなのだ。これは「単純接触効果」と呼ばれていて、潜在記憶があなたの世界観ー何が好きで何が好きでないか、などーに影響を与えるという、やっかいな事実をはっきり示している。
利益に被験者の意識がアクセスできるようになるだいぶ前に、被験者の脳のどこかが気づいているのだ。そしてその情報は「虫の知らせ」のかたちで伝えられている。被験者は意識的に理由を言えないうちから、利益がある方を選び始める。ということは、有利な決断をするために、状況に関する意識的な知識は必要ないということだ。
さらに、人は虫の知らせを必要とすることが判明している。それがないと、あまり良い決定ができないのだ。
体の物理的状態によって生じる感覚が、行動と意思決定を導くようになる。
体の状態が世の中で起こる出来事の結末と結びつくようになるのだ。何か悪いことが起こると、脳は全身(心拍、腸収縮、筋肉の弱さなど)を利用してその感覚を記録し、その感覚が出来事と結びつく。改めて、その出来事について考えるとき、脳は基本的にシミュレーションを行ない、その出来事にまつわる体感覚をよみがえらせる。
するとその感覚が意思決定を導いたり、少なくとも先入観を抱かせたりする働きをする。ある出来事から引き起こされる感覚が悪い場合、その感覚が活動を制止しようとする。
感覚が良い場合は活動を促進する。
この観点で考えると、体の物理的状態が行動を誘導できる虫の知らせをもたらす。その虫の知らせのほうが偶然の予想よりも正確である場合が多い理由はおもに、無意識の脳が先に物事を理解し、意識は遅れをとることにある。
あらゆるノウハウにおいて、意識がなんらかの役割を果たしているとしたら、どんな役割なのか?実はその役割は大きいーなぜなら、無意識の脳の奥深くに考えられている知識の多くは、意識的な計画というかたちで始まるからだ。
脳の意識的な部分は、神経メカニズムのほかの部分を訓練し、目標を確立して資源を割り当てる。
意識は長期計画を立案する会社のCEOであり、日常的な業務のほとんどは脳のアクセスできない部分がすべてこなしている。
印象的な脳のーそしてとくにヒトの脳のー特徴は、遭遇する課題をほぼどんなものでも学ぶ柔軟性だ。この学習する柔軟性が、人間の知性と考えられているものの大部分を占めている。知性があると言える動物はたくさんいるが、人間とそのような動物とのちがいは柔軟な知性をもっていて、目の前の課題に合うように神経回路を適応させるところである。
だからこそ私たちは地球上のあらゆる地域で集落をつくり、生まれた場所の言語を学ぶ。
脳は解決すべき課題を見つけると、その課題をいちばん効率的になし遂げられるまで、自身の回路の配線をやり直す。課題がメカニズムに焼きつけられるのだ。この巧妙な戦略によって、生き残るために最も重要な二つのことを実現できる。
第一はスピードだ。自動化によって迅速な意思決定ができる。動きの遅い意識のシステムを列の後ろに押しやらないと、迅速なプログラムは仕事ができない。
第二の理由は、エネルギー効率である。メカニズムを最適化することによって、脳は問題解決に必要とされるエネルギーを最小限に抑える。私たちはバッテリーで動く移動性の生きものなので、エネルギーの節約は非常に重要なのだ。
欲望ほど自然に思えるものはないが、まず知っておくべきなのは、私たちには人類固有の欲望だけが配線されていることだ。このことから、単純だがきわめて重要なポイントが浮き彫りになる。すなわち、脳の回路は自分が生き残るために適した行動を起こすように設計されている。
生まれつき備わっている思考による誘導という同じ原則が、論理、経済、倫理、感情、美、社会的交流、愛情、その他さまざまな心の状態について、自分が奥深くに抱いている信念すべてに当てはまるのだ。進化の目指すものが私たちの思考を導き、組み立てている。
自分が経験できることは、自分の生体内プロセスによってきっぱり区切られている。
これは常識的見解、つまり私たちの目や耳や指は外に実在する物理的世界をそのまま受けとめているのだという考えとは異なる。私たちに見えないものが見える機械が出現して科学が進歩するにつれ、私たちの脳は周囲の物理的世界のほんの一部をサンプリングしているにすぎないことが明らかになった。
同じ生態系に住んでいても、環境から拾う信号は動物によってちがうことに気づいた。
生物はそれぞれ独自の環世界をもっていて、おそらくそれが「外に」実在する現実のすべてだと思い込んでいる。自分が感知できるもののほかにもっと何かあると、どうしてわさわざ考える必要があるだろう?
私たちは環世界を受け入れ、そこで止まる。
私が視界と呼ぶものと、あなたが視界と呼ぶものはちがうかもしれない。私の視界はあなたの視界と比べると逆さまかもしれないが、私たちにはわからないのだ。何を物と呼ぶか、どうやってそれを指さすか、外界のどこに進むか、私たちが合意しているかぎり問題はない。
結局、脳の機能には人によって微妙な差があり、それが世界の感じ方のちがいに直結する場合もある。そして各個人は自分の感じ方こそが現実だとじている。
個人個人が主観的にどう世界を見ているかに驚くほどちがいがあることが浮き彫りになり、何を知覚するか、何を知覚できるかを、それぞれの脳が独自に決定していることを再認識させられる。現実とは一般に考えられているより、はるかに主観的なものなのだ。現実は脳によって受動的に記録されるのではなく、脳によって能動的に構築される。
世界に対する知覚から類推するに、自分の知的生活は一定の領域内に築かれていて、ほかの領域には立ち入ることができない。自分に考えられない考えがあるのだ。
脳という湿ったコンピューターの機能は、周囲の状況に適した行動を生み出すことだ。
進化は入念に自分の目、内臓、生殖器などを形づくってきたーそして自分の思考や信念の特性も。
脳の物理的構造は一連のプログラムを統合しているのであり、プログラムは過去に特定の問題を解決したからそこにあるのだ。その結果にもとづいて、種は新たに設計特性を加えたり捨て去ったりする。
赤ん坊について考えよう。生まれたばかりの赤ん坊は白紙の状態ではない。むしろ、問題解決のための道具をたくさん受け継いでいて、さまざまな問題に遭遇するときは解決策がすでに手元にある。
本能とは複雑な先天的行動であり、学ぶ必要がないものだ。程度の差はあれ、経験とは関係なく現われる。
進化圧によって形成された本能のプログラムが、私たちの行動をスムーズに進め、私たちの認知をしっかり舵取りしている。
本能は昔から論理的思考や学習の対極と考えられている。自分が大部分の人と同類であるなら、イヌはおもに本能で動いているが、人間は本能とはちがうもの、理性のようなもので動いているようだと考えているだろう。
しかし、人間の行動がほかの動物よりも柔軟に合理的なのは、人間のほうが動物よりももっている本能が多いからであって、少ないからではない。本能は道具箱のなかの道具であり、多ければ多いほど私たちは柔軟になれる。
私たちがえてしてこのような本能の存在に気づかないのは、それが非常にうまく機能していて、苦もなく自動的に情報を処理しているからだ。プログラムは回路の奥深くに焼きつけられているので、私たちにはアクセスできなくなっている。これらの本能がまとまって、人間性と考えられているものを形成している。
特化して最適化された本能の回路は、スピードとエネルギー効率のメリットすべてをもたらすが、その代償として意識のアクセス範囲からはさらに遠ざかることだ。その結果、私たちは、生来の認知プログラムにアクセスできない。私たちは自分の行動のまさに原動力である本能を見ることができない。これらのプログラムにアクセスできないのは、それが重要でないからではなく、きわめて重要だからである。意識が干渉しても何も良くならない。
人が魅了される気持ちは人知では計り知れないものではなく、鍵穴に鍵が差し込まれるように、専用の神経ソフトウェアに特殊な信号が差し込まれて生じるものだ。
人が美しさとして選ぶものは、ホルモンの変化によって生じる妊娠能力のしるしをおもに反映している。
女性の場合はふっくらした唇、丸い尻、くびれたウエストが明確なメッセージを伝えているー「私はエストロゲンがいっぱいで子どもを産める」。男性の場合はがっしりした顎骨、無精ひげ、そして広い胸だ。それを美しいと思うように私たちはプログラムされている。形が機能を示しているのだ。
そのプログラムはとても深くしみ込んでいるので、人によるばらつきがほとんどない。
女性は年を取るにつれ、外観が変化する。胴体が太くなる、唇が薄くなる、胸がたるむなど、どれも妊娠能力のピークを過ぎたという信号を送る変化だ。
女性は月経周期のうち妊娠能力が最も高いとき、月経の約10日前に最も美しいと見られることが判明している。男性による評価でも女性による評価でも同じで、彼女がどんな行動をするかは関係ない。写真を見る人もそう知覚する。したがって、彼女の見た目の良さが妊娠能力のレベルを伝えているのだ。
RS3 334のコピー数が多い男性ほど、一雌一雄関係形成の測定値し恋愛関係の強さ、自覚している結婚問題、配偶者が認識している結婚の質などの測定値ーが悪い。コピーが二つある人は未婚の可能性が高く、結婚している場合も結婚生活に問題を抱えやすい傾向があった。
人が恋に落ちるとき、情熱と心酔がピークに達するまでの期間は最大3年である。
体と脳の内部信号は文字どおり催淫剤である。そしてそのあとは下り坂に入る。この観点から考えると、子どもを育てるのに必要な時間、平均で約4年が過ぎると、私たちはセックスのパートナーに対する関心を失うよう、あらかじめプログラムされている。
離婚がいちばん多いのは結婚の約4年後である。体内で生成される催淫剤は、自分たちの子どもの生存可能性を高めるのに十分な期間、男性と女性を離れさせないための効率的なメカニズムにすぎない。両親そろっているほうが片親よりも生き延びるためには有利であり、その安全を提供するために、二人をおだてて一緒にいるようにしむけるのだ。
狂ったサーカスのゾウに関して、私たちはわざわざ責任を問うことさえしない。単に動物であると理解されている。
それに引かきかえ人間のこととなると、法制度は私たちには自由意思があることを前提にそして私たちは、このあるとされる自由にもとづいて裁かれる。しかし、基本的に私たちの神経回路もゾウと同じアルゴリズムを実行しているのなら、人間と動物のこの区別は理屈に合うのだろうか?
私たちの脳の設計図はゾウの脳と同じだ。進化の観点から見ると、哺乳類の脳のちがいはささいなところにしかない。それなら、この選択の自由はどこから人間の回路に紛れ込んだと考えられるのだろう?
私たちが何ものであるかを決めるのは広大で複雑な生体ネットワークである。私たちは白紙の状態で人生という舞台に上がり、自由に世界を取り込み、なんの制約もなく決定を下すわけではない。実のところ、自分の意識が一遺伝や神経ではなくしどれだけ決断できるのか、わかっていないのだ。
私たちは問題の核心にたどり着いた。本当に選択の自由があったという根拠を示すのが難しいなら、いったいどうして多様な行動を本人のせいにするべきなのだろう?
それとも、なんだかんだ言って、人にはどう行動するかについて選択の余地があるのだろうか?自分を構成するあらゆるメカニズムをものともしない、生体内プロセスとは無関係の小さな内なる声があって、決定を指図し、たえずやるべきことをささやきかけているのだろうか?それはいわゆる自由意思ではないのだろうか?
自由意思はたとえ存在するにしても、巨大な自動化されたメカニズムのうえに乗っかっている小さな因子にすぎない。
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