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アイデア資本主義

20240801

資本主義の歴史を一言で表すと、拡大の歴史である。一般的にヨーロッパにおいて資本主義が確立したとされる封建主義の終焉と産業革命以降、生産活動に資する土地・労働・資本およびそれを消費するマーケットが、地球上で急速に拡大してきた。それは裏を返すと、地球上の「余白」を食いつぶしてきた歴史を意味する。その結果、我々に残された余白は非常に少なくなってしまった。

資本主義にとっての余白、すなわち新しい成長余地のことを「フロンティア」とする。
フロンティアとはもともと「最前線の」という意味だが、拡大のための新天地という意味合いもある。

アジアからアフリカまで地球上のあらゆる地域がグローバルなマーケットに取り込まれた今、物理的なフロンティアはほとんど消滅した。

代わりに、インターネット空間において新たな成長余地が見いだされ、模索されてきた。インターネット空間は、我々の肉眼に見えない領域であるという点で伝統的な資本主義のフロンティアとは異なる。

こうした変化は、資本主義にとってのフェーズが変わったことを意味する。見える領域にもはや投資先がなくなってしまった。

文化人類学の観点を取り入れながら資本主義を読み解く。文化人類学の本質は、未開の地について研究するという点よりも、むしろ、個々人の振る舞いに着目し、ミクロな現象を通じて社会というマクロな次元について検討する。
一般にマクロなシステムとして捉えられることの多い資本主義についても、それを一旦ミクロな次元に分解して、何が資本主義を資本主義たらしめているのかということから検討する。

資本主義がミクロな次元で成立するためには「計算」と「時間」が非常に重要であるということや、資本主義をフロンティアの移り変わりという視点から捉える。

フロンティアは、〈空間〉以外にも、〈時間〉 および 〈生産=消費〉の領域において資本主義の拡大しうる余地が歴史的に存在し、開拓されてきた。しかし、いずれの領域においても伝統的なフロンティアが消滅しつつある。
資本主義は「インボリューション」(内へ向かう発展)へ向かっている。
資本主義はそこに生きる一人ひとりの心的傾向に根ざす現象であり、フロンティアがなくなったとしても形を変えて拡大を志向している。
伝統的に外へ外へと向かっていた拡大のベクトルが逆転し、内側へと向かい始める。

■脱資本主義論に対するアンチテーゼ
経済格差の拡大や環境問題などを背景に、資本主義からの脱却についての議論されている。資本主義を否定して次の時代に進もうとするにせよ、その実態を正しく捉え、次の時代に活かすべきものは活かしていく。

確かに、資本主義が、経済成長を追求した結果として危機・搾取・疎外が生み出され、拡大してた。しかし一方で、資本主義がイノベーションや成長の原動力として経済成長を牽引してきたのもまた事実である。

■資本主義の本質
資本主義は容易に適用したり変更したりできるシステムのようなものではなく、個々人の「将来のより多い富のために現在の消費を抑制し投資しようとする心的傾向」から生じる経済行為の総合的な表出である。すなわち、時間が直線的に続いていくという感覚に基づいて未来についての計算を行うという動作から生じる。こうした動作は現代人にとって極めて基本的かつ未来志向の健全な動作である。また、少なくとも〈個体×推測可能な範囲の未来〉という範囲においては合理的な思考であるから、私たちが直線的な時間感覚と計算の術を身につけている以上、こうした未来志向の動作は自然に生じる。このように資本主義は私たちの心的傾向に根ざす現象であるから、システムを切り替えるようには単純に切り替えられない。

要するに、「今日よりも良い明日を過ごしたい」という一人ひとりのささやかな想いが、資本主義の根底にある。

「資本主義」は、未来のためにいま我慢して貯め込む、という最近の人間の性(さが)のことである。その日暮らしの狩猟採集段階にはないことだったが、人類社会に農業が始まったのち、農業生産物の余りが出て、それを売り買いする市場ができる。技術の進歩と国家体制の整備、そこに資本の永続的投下をうながす 「会社」が成立して、「資本主義」の飛躍と膨張が起きる。この運動をしっかり支えるには、常にさらなる投資を刺激するフロンティアが必要となる。21世紀のいま、フロンティアは、空間的にはもはやアフリカしか残されてない。時間的には永久という時間態を「ゴーイング・コンサーン」という捉えかたで企業組織体に織り込んでしまったため、現在の延長線上に約束された「未来」はこない。生産=消費は、「欲しいモノ」が身の回りにあふれ、「新商品」による循環はひとまず終わった。「フロンティア」はほとんどなくなった。
※ゴーイング・コンサーン:「継続企業の前提」企業が将来に渡り存続し、事業を継続していく前提

「資本主義とは何か?」
・市場経済における自由な競争に基づく社会の仕組み
・ある国の商業や産業が、国家ではなく、営利目的の民間所有者によって制御されている、経済的・政治的システム
・資本家が生産手段を専有し、(余剰) 労働を搾取する社会の仕組み
・【文化人類学の視角】人類が「生態系」のプラットフォームの上で、勝手に行っているゲーム

自給自足の経済において1年間の食事を賄うために米を蓄えておくことと、翌年の米の収穫量を増やすために消費を抑制して種に充てることとは、よく似ているが、本質的に異なる経済行為である。前者はマルクスが言うところの単純再生産、後者は拡大再生産にあたる。後者を促すような心的傾向が資本主義である。
1年後にああなりたい、こうなりたいと考えること自体が、資本主義的な思考である。

資本主義をシステムとしてではなく、資本主義的経済行為を生み出す姿勢として捉え、「将来のより多い富のために現在の消費を抑制し投資しようとする心的傾向」と定義する。

資本主義的な経済行為を生み出す必要条件は、「直線的な時間感覚」と「計算可能性」である。その両方によって、未来の推測とリスク・リターンの計算がなされる。

直線的な時間観念はユダヤ・キリスト教文化によって生じ、広がった。
ユダヤ・キリスト教においては、世界は神によって創造されたものであるため、天地創造のタイミングを始点として、現在そして未来に至る直線的な時間がイメージされる。

この直線的時間に対して、円環的時間という観念がある。日本人は円環的な時間の観念を抱いていた。こうした円環的時間の観念は、特に農耕社会における春夏秋冬が繰り返すという四季の感覚や、仏教における輪廻転生である。

直線的であれ円環的であれ、時間を知覚できるのは我々に記憶があるからだ。
過去についての記憶があるからこそ現在と過去の差異が、そして現在が過去と異なる時点にあるということが知覚される。
時が流れているという感覚、そしてそれに基づく時間という観念そのものが、その個体がもつ記憶の範囲や粒度に依存している。
このように、時間を我々がどのように知覚するかというのは決して絶対的なものではない。
 
直線的な時間の観念が未来についての予測を促し、それがさらに未来における利潤の計算を可能にするからこそ、人は資本をどのように投資すべきかを判断できるようになる。逆に言えば、直線的な時間感覚と計算可能性を欠いた状態では、資本主義は持続的には成立し得ない。

もともと農民たちは、未来に得られるであろう収穫から逆算して消費量を決定するわけではなく、過去、つまり前年の収穫に従って消費を行っていた。また彼らは未来を見越して消費のために穀物を蓄えておくことはあっても、未来の収量を増やすために穀物の消費を減らし、種籾に回すということはしなかったとされる。

資本主義の歴史は拡大の歴史であり、資本主義
には拡大の原動力が内在する。

資本主義は、拡大の余地が常に必要である。
・空間
・時間
・生産 = 消費

・空間
 土地 = 植民地 ( 奴隷 )

・時間
狩猟採集社会:その日暮らし = 非資本主義

農耕社会:一年
 単純再生産 = 前資本主義
  「いま」の消費を「将来」のために抑制
 拡大再生産 = 資本主義
  「いま」の消費を抑制した上で、抑制によって生じた余剰を「将来」のより多い富のために投資

資本主義社会
 商人:一生
 商家:家の末代
 企業:無期限

資本主義においては、効率を求める運動の中で様々な要素の機能分化が進んだ。狩猟採集社会や農耕社会と比較すると、この頃の商人は社会へ埋め込まれる程度が小さくなっていた。個としての商人において富の蓄積が生じ資本主義の担い手になったことと、商人が集団を均一化しようとする圧力からある程度自由に活動していたこととは関係している。
ただし、程度や状況の差はあれど、商人たちの活動内容は国家や社会の影響を受けていた。

13世紀の神学者であるトマス・アクィナスが 「欲とは単なる富への欲望ではなく、富への節度なき欲望である」と言ったように、富自体が悪であるという考え方から富をもちすぎることが悪であるのだという考え方へと少しずつ変化していった。

資本主義は個々の商人やその子孫を含む“家”から、企業へと移り変わっていった。資本主義の主役として、権利関係に基づく企業が、血縁関係に基づく“家”に取って代わった。
様々な側面で見られるゲマインシャフト(地縁や血縁によって自然と形成される集団)からゲゼルシャフト (特定の目的のもとに作為的に形成される集団)への移行である。

現代では、企業が将来に渡って存続し、事業を継続していくという前提のゴーイング・コンサーンにより、資本主義における時間は無期限の未来となった。

資本主義が前提とする時間の長さがどんどん長期化してきた。

未来について推測し、それに基づいてリスクやリターンを計算することで、投資の意思決定を行い、富を増やそうとするのが資本主義における基本的な運動である。このような心理は必然的に、計算に含める未来の長さを長期化させる。

・生産 = 消費
生産=消費のフロンティアは、生産量や消費量を増やすことと、生産性を上げることに分けることができる。
生産を増やせばその分売れるという状況であれば、人口の増加や空間のフロンティア拡大に応じた市場の拡大がフロンティアたり得る。しかし現在では、モノが行き渡っている上にモノの耐久性も上がっているし、そもそもインターネット上の無料コンテンツの増加などにより、可処分時間の奪い合いが発生するなど、モノ同士の過当競争が生じているような状況である。すなわち、モノを作れば売れるという時代ではなくなっており、生産量の領域におけるフロンティアは消滅しつつある。生産性の領域は、イノベーションによって生産コストを下げたり、安価な労働力を投入したり、安価な資源を投入したりすることによってフロンティアであり続けてきた。
しかし、生産性、生産量、消費量ともに限界が来つつある。

産業革命が、資本主義の契機ではない。産業革命以前に労働の質的変化や生産の大規模化がすでに生じていた。産業革命が生産の領域に引き起こしたのは、生産量と生産性の急速な拡大である。

先進諸国では少子高齢化の時代に突入し、市場での消費の伸びが期待できないこと、消費者の嗜好の多様化が進み、人と同じモノよりも個性を演出するモノが選好されるようになったこと、情報通信コストの低下により無料あるいは安価に楽しめるコンテンツが増加したことなど、様々な要因によって大量消費の傾向に歯止めがかかり、モノ余りの時代が訪れた。

先進国と発展途上国における人件費の差を利用して、安価な労働力が手に入る地域で生産を行い、生産物がより高く売れる地域で販売を行うという構図は限界が見えてきた。

石油などの化石燃料の埋蔵量には限りがあることから、利用の果ての枯渇が危惧され、生産性に限りが見えてきた。また、資源の枯渇がなくとも資源起因で生産性の悪化が生じ得るということがある。オイルショックといった政治的な要因でもって資源価格の高騰が生じると、それによって生産性の悪化が引き起こされる。

空間・時間・生産=消費という3つの領域が資本主義の拡大とともに移り変わり、そして消滅してきた。

拡大を志向す資本主義は、どのように変わりゆくのか。

・空間
切り開くべき空間のフロンティアがなくなっても、空間への投資によって成長を実現することはできる。例えば、都市の再開発では、新たなフロンティアを開拓するのではなく、開拓済みの土地に再投資を行うことによって低減しつつある土地の収益性を再び高める行為である。

・時間
現在から未来へと至る時間軸を伸ばし続ける形での成長ではなく、現在の時間を細分化し、金融取引の機会を増やすことによる利益追求が生じている。

・生産=消費
Kaizenをはじめとした抜本的な技術革新を伴わない形で、生産性や品質を徐々に高めていく活動だ。投下資本を抑えながら生産性を底上げすることでROI (投資収益率)を上げる。

モノを「所有」することよりも必要なタイミングでモノを「利用」することのほうが重要になりつつある。モノを生産することよりも、生産されたモノを活用してサービスに仕立て上げることのほうが重要になっている。

モノの「生産」よりも「活用」が付加価値を生むようになっていく。「モノ+活用方法」という新たな価値を訴求することが重視されている。

モノ余りが進行し、不足を埋めるものを作れば売れるという時代ではなくなった。不足のない社会というのは、消費者がどうしても必要とするものが特にない社会である。欲しいものはあるかもしれないが、まだ存在しないものについては自分自身が本当に欲しているのかどうかなど当然よくわかっていない。今、消費者が何を求めているのかが非常にわかりづらくなっている。

消費者が使って嬉しくなるものが何かは簡単にはわからない。消費者に直接答えを尋ねても、真の正解は得られない。消費者が無意識のうちに何を行い、何を感じているのかを理解した上で、背景にある行動原理を導き出すしかない。
消費者の思考というフィルターを通した産物である「発言」ではなく、日常の中での自然な「行動」に着目することで、「本当のところ」が見えてくる。

奴隷貿易もまた、資本主義の拡大プロセスの中で強化された。より安価に、大量の農業生産を可能にするために、人々が奴隷としてプランテーションに投入され、労働を強いられてきた。後に、産業革命やフランス革命などを通じて労働者が次第に自由な存在になっていき、人格を拘束する奴隷制は時代遅れであるという思想が広がったことが、奴隷貿易の廃止に結びついた。

どんな社会も、そこに生きる人々から浮いたものとしては存在しない。人々は社会に埋め込まれており、同時に、人々のミクロな行為の総和として社会現象が存在する。資本主義社会はそうしたミクロな選択の総合的な現れとしてマクロ的に感知される。
この見方は、資本主義をマクロなシステムとして捉える立場を否定するものではなく、相対化することを企図する。
私たちには、何気ない日常生活の中でも、未来を推測すること、そして推測される未来から逆算して現在とるべき行動を決定することが様式として染み付いている。
「良いと思っている」
計画なしに日常をやり過ごすよりも、夢や目標をもって計画的に時間を使ったほうが「良いと思っている」のだ。
私たちが自分の人生を真剣に生きて、自分の将来について思案したり目標を立てたりするという行為の中に、既に資本主義の本質が含まれている。
将来を案じて、少しでも確かなものにしようとすること、その一つの現れとして、現在の消費を抑制して投資に回すことで得られる富を増やそうとする行為がある。
未来志向の、ミクロな営為の集積として生じるのが、マクロな意味での資本主義である。










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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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