今夜、すべてのバーで
20240604
おれの身体の症状にのことごとく、くっきりした矢印で「肝硬変」をさし示している。生きてこの病院を出られる気が、どうもしない。 そんなになったのも、もとはと言えばこの「性悪女」の…
愛しさ半分憎さ半分のまなざしでにらんでみるのだが、どうも勝手がちがう。清酒は、あくまでその名のごとく玲瓏と澄みきって優しい香気を放っている。
「そうだな。女の悪口はやめよう。長い間、世話にもなったし、いい夢も見させてくれたんだ」
シャブ中にならずにアル中になったのは、子供の頃から注射が嫌いだったせいかもしれない。
彼は、彼の生そのものが、いっさいの感傷やレトリックを剥落させた、硬質の「詩」であるような男なのだった。
おれがアル中の資料をむさぼるように読んだのは結局のところ、「まだ飲める」ことを確認するためだった。ついには「アル中の本」を肴にしてウィスキーをあおる、というのがおれの日課にさえなった。
「連続飲酒」とは、普通の酒飲みが、ある日をさかいに線が切れたように朝昼晩、一週間二週間と飲み続ける現象をいう。
一般的なアル中は、それぞれに日常生活の中に不吉な予兆を示している。現役のアル中であるおれに言わせれば、アル中になる、ならないには次の大前提がある。
つまり、アルコールが「必要か」「不必要か」ということだ。よく、「酒の好きな人がアル中になる」といった見方をする人がいるが、これは当を得ていない。 アル中の問題は、基本的には「好き嫌い」の問題ではない。
酒の味を食事とともに楽しみ、精神のほどよいほぐれ具合いを良しとする人にアル中は少い。そういう人たちは酒を「好き」ではあるけれど、アル中にはめったにならない。
アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。
この世からどこか別の所へ運ばれていくためのツール、薬理としてのアルコールを選んだ人間がアル中になる。
肉体と精神の鎮痛、麻痺、酩酊を渇望する者、そしてそれらの帰結として「死後の不感無覚」を夢見る者、彼等がアル中になる。これはすべてのアディクト(中毒、依存症)に共通して言えることだ。
たとえば「ナイトキャップ」的な飲み方は、量の多少にかかわらず、行動原因そのものがすでにアル中的要素に支えられている。アルコールが眠るための「薬」として初手から登場するからだ。薬に対して人間の体はどんどん耐性を増していくから、量は増えていく。そのうちに、飲まないと眠れないようになる。この時点で、「手段」は「目的」にすりかわっている。
退屈がないところにアルコールがはいり込むすき間はない。アルコールは空白の時間を嗅ぎ当てると迷わずそこにすべり込んでくる。あるいは創造的な仕事にもはいり込みやすい。創造的な仕事では、時間の流れの中に「序破急」、あるいは「起承転結」といった、質の違い、密度の違いがある。 イマジネイションの到来を七転八倒しながら待ち焦がれているとき、アルコールは、援助を申し出る才能あふれる友人のようなふりをして近づいてくる。事実、適度のアルコールを摂取して柔らかくなった脳が論理の枠を踏みはずした奇想を生むことはよくある。
アイデアのひらめきの後には、それを形にする、つまり書き上げるための密度の濃い時間が流れる。その時間が終わったときのしこった神経は、また激しくアルコールを求めるのだ。
渇きは飲んでも飲んでもいやされることはなかった。まるで塩水でも飲んでいるように、飲めば飲むほどアルコールに対する渇きが増すのだった。おれの心には穴がいくつもあいていた。夜ごと飲みくだすウィスキーは、心にあいたその穴からことごとく漏れてこぼれ落ちてしまうのだった。
おれの日常の中に、少しずつアルコールが沁み込み始めた。たまの打ち合わせで人に会うときにも、ウィスキーをひっかけてから出かけないと、人に会う元気が出てこないような気がした。
おれはずっと酩酊がもたらす、膜を一枚かぶったような非現実の中で暮らしてきた。酔いがもたらす「鈍さ」が現実をやわらげていたのだ。それがいま、尖端恐怖症の人間に突きつけられたエンピツの先にも似た、裸で生の世界が鋭角的に迫ってくる。
くだらない
くだらない人生
くだらない人間
「みじめな状態でいるよりは意識を失っていたほうがマシ」
みじめな人間がすべてジャンキーになるのだったら、世界中にシラフの人間は一人もいなくなるだろう。同じ苦痛を引き受けて生きていても、中毒になる人間とならない人間がいる。幸か不幸か、なにかの依存症になってしまった人間が、一番言うべきでないのが、プレスリーの台詞なのではないか。中毒におちいった原因を自分の中で分析するのはけっこうだが、〝みじめだから中毒になりました”というのを他人さまに泣き言のように言ったって、それは通らない。それでは、みじめでなおかつ中毒にならない人に申し訳がたたない。私のことをわかってくれ〟という権利など、この世の誰にもないのだ。
アメリカはいざしらず、日本の政府にはドラッグを政府が専売にするその「資格」がある。ガンの元凶である煙草を専売し、公営ギャンブルでテラ銭をかせぎ、酒税で肥え太ってきた立派な「前科」があるからだ。ギャングにドラッグの利権を渡すくらいなら国が汚名をかぶって管理すればいい。そしてその利益の何十分の一かを、中毒者たちの療養に還元すべきだ。日本の政府には、ドラッグ常用者を逮捕する資格はない。アル中を量産している形而下的主犯は政府なのだ。犯罪者に犯罪者を逮捕する資格はない。
アルコールとドラッグは、日本が経験しなくてはならない通過儀礼なのかもしれない。一度死の手前まで行ってみなければ抗体もできない。
しかしこの通過儀礼のむこうに、生があるのか死があるのか、誰にもわからない。
タバコ、酒に比べれば、ヘロインもコカインも物の数ではないと言える。まして常習性のないマリファナやハッシッシなど子供のキャンディみたいな存在でしかない。おそらくは百年たってから今の日本の法律や現状を研究する人は、理不尽さに首をひねるにちがいない。タバコや酒を巨大メディアをあげて広告する一方で、マリファナを禁じて、年間大量の人間を犯罪者に仕立てている。昔のヨーロッパではコーヒーを禁制にして、違反者をギロチンにかけた奴がいたが、それに似たナンセンスだ。まあ、いつの時代でも国家や権力のやることはデタラメだ。
「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。 「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある。
あとは日本人が、この盃を受けて飲みほすかどうかである。おれは飲んだ。麻薬を選ばなかったのは、つまりエチルアルコールが、一番手にはいりやすい合法ドラッグだったからに過ぎない。薬理作用のあるものをドラッグと呼ぶならば、エチルアルコールは完璧にドラッグだ。それもメンタルな要素に関わらず、一定以上の量を服用すれば誰でも確実に『効く』かなり強烈なドラッグなのだ。
とにもかくにも、おれは酩酊の手段としてアルコールを選んだ。日本に生まれて、それが一番法的に安全で廉価なドラッグだったからだ。もしインドに生まれていれば、酒を恐れて、ガンジャ(大麻)を楽しんでいただろう。半世紀前の中国に生まれていればまちがいなく阿片窟に入りびたっていただろうし、南米に生を受けたならコカの葉を噛んでいたろう。要はそういうことなのだ。腐ったお上に捕まるのなぞまっぴらごめんだ。
「死者はいつも生き残った人間をせせら笑ってるんだわ。まだ、そんなことやってるのか、って。ご飯を食べたり、会社へ行ったり、恨んだり、怒ったり、笑ったり、傷つけ合ったり。死者から見れば、あたしたちってずいぶん頓馬に見えるはずよ」
「卑怯な手口なのよ。思い出になっちゃえば、もう傷つくことも、人から笑われるような失敗をすることもない。思い出になって、人を支配しようとしているんだわ」
「生きよう生きようとしてても、たとえば雷が落ちてきて死ぬかもしれない。でも、それはあたしにとっては正しい、そうあるべき死に方だから文句は言わないわ。あたしは、自分とおんなじ人たち、生きようとしてても運悪く死んでしまう人たちの中で生きたいの。生きる意志を杖にして歩いていく人たちの流れの中にいて、そんな人たちのためだけに泣いたり笑ったりしたいの。だから、思い出になってまで生き続けるために、死をたぐり寄せる人たちと関わりたくないわ。そんな時間はないんですもの」
「強と弱しかスイッチのない扇風機」
中間のレベルというものがない。あいまいなグラデーションのようなものが一切ないのだ。切り捨てるか、熱烈に受け入れるか。愛するか無視するか。
おれは奇妙な解放感を味わった。金もないのにタクシーに乗っている。さっき会ったばかりの男と、これから見も知らぬ人間の家へ行って泊めてもらうことになる。どういう目にあうのか知らないが、どうなってもいいような気がした。さし当たって、失うものは何もない。ただただ流れに身をまかせて、夜の果てのどこかへ運ばれていく。それは妙に心楽しい体験だった。
おれはひょっとして、いま、「自由」なのではないか、とそう思った。「自由」という言葉は、青臭い若者たちの手垢にまみれた、気恥かしい単語だった。ただ、おれは生まれてこのかた、自分を「自由」だと感じたことは一度もなかったのだ。 「自由」というのがどんな手触わりで、いかなる気配のものなのか、おれは知らなかった。
おれにはどこか、そういう幼児的で無邪気な部分がある。日常の中で異形のものに出会うと、恐怖よりも先にまずおもしろさを感じてしまうのだ。
説教は、おれに希望と絶望の両方を与えた。ひょっとすれば、あと何十年も生きられるのかもしれない、という希望。ただし、それはシラフでさえいれば、という括弧つきの希望だった。この病院にいて、わずか十日やそこらで訪れたこの退屈。 外界に出れば少しはましかもしれないが、煩雑でくだらないことの多い世界と正面からシラフで向き合うことになるのだ。
ある日、考えるより先に岐路が先に突きつけられてしまったのである。
「そうですか? 死んじゃえばいっしょでしょう?」
「そんなことあるもんかね。人が覚えていてくれるってことは、その人は生きいがあるんだよ。ベートーベンだのバッハだのって、今でもみんなにほめられ分の作った曲が歌われて。生きてたかい、苦労したかいがあるってもんだよ」
「それはそうかもしれない。作品が残るってことは自分のどっか一部が生き残ことですからね」
性欲に煩わされないのは、実に快適なことだった。人間の大きな煩悩がひとつ減ったわけで、高い山から下界を見おろしている仙人のような気分になる。性欲をもてあましている人間と話をすると、同情と優越感がいつも同時に湧いた。
おれは、そういうものは卒業した。解脱したんだ、とほくそ笑んだ。ところが、それは「解脱」ではなくて、ただの「衰弱」だったのだ。
酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、「飲まない」ことによって与えられなければならない。それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う。飲むことと飲まないことは、抽象と具象との闘いになるのだ。抽象を選んで具象や現実を制するためには、一種の狂気が必要となる。
「飲む人間は、どっちかが欠けてるんですよ。自分か、自分が向かい合ってる世界か。そのどちらかか両方かに大きく欠落してるものがあるんだ。それを埋めるパテを選びまちがったのがアル中なんですよ」
アル中の特徴
・口唇的欲求 ( 多弁、食道楽、喫煙など )
・甘えん坊
・高度に感情的
・怒りの感情表現が稚拙
・対人関係において未熟
・権威に対するアンビバレントな依存心と攻撃性
・態度は尊大であるにも関わらず自己評価が低い
・完全欲、強迫性、孤立感が強い
・性的役割が混乱している
・分裂気質、抑うつ傾向、依存性、敵対傾向、性的未熟性
・活発で攻撃的で衝動的かつ反社会的な青少年はアル中になりやすい
アルコールは、一種の慢性自殺
「あんた、自殺したいのか」
「わからないんですよ。まあ、首くくるほどの勇気も動機もないのは確かなんですがね。なんか漠然とした自分への殺意みたいなものがあるような気もする。未必の故意ってやつかもしれないな。自分一人かたづけるのに、酒の力でも借りなきゃやってられないってとこもありますかね」
ストレスによって心理が不安定になる。これをドライブ状態というが、人間はホメオスターシス ( 均衡状態 ) を保つために、何とかしてドライブを軽減しようとする。その際に、アルコールを用いたとすると、アルコールは見かけ上のホメオスターシスをもたらす。こうして飲酒が学習され、ストレスのたびに強化されていく。
「アル中のことがわかるときってのは、ほかの中毒のすべてがわかるときですよ。薬物中毒はもちろんのこと、ワーカホリックまで含めて、人間の〝依存”ってことの本質がわからないと、アル中はわからない。わかるのは付随的なことばかりでしょう。〝依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。この世にあるものはすべて人間の依存の対象でしょう。アルコールに依存している人間なんてかわいいもんだ。血と金と権力の中毒になった人間が、国家に依存して人殺しをやってるじゃないですか。連中も依存症なんですよ。たちのわるいね。依存のことを考えるのなら、根っこは"人間がこの世に生まれてくる"、そのことにまでかかっているんだ」
「子供なんてのは、人生の中で一番つまらないことをさせられてるんだからな。私だって十七までに面白いことなんか何ひとつなかった。面白いのは大人になってからだ。ほんとに怒るのも、ほんとに笑うのも、大人にしかできないことだ。なぜなら、大人にならないと、ものごとは見えないからだ。一センチのびていくごとにものが見えだして、風景のほんとの意味がわかってくるんだ。なのに、なんで子供のうちに死ななくちゃならんのだ。つまらない勉強ばっかりさせられて、嘘っぱちの行儀や礼儀を教えられて。大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか。せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高い所からこの世を見おろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか」
「恋も知らずに死んだって別に構わない。知らないものは”無い”と同じだ」
「アル中個人でなくて、家族全体の問題として、つまりアルコホリック家族っていうシステムの問題としてとらえるわけ。家族の中でのルール、ホメオスターシスを、”共依存”っていう新しい概念で」
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