Timer
20241029
僕は、記憶というのは糸のようなものだ、とつくづく分かった気がしている。「記憶の糸をたぐりよせる」という慣用句の適切さに舌を巻く。記憶にはそれぞれ細い糸がついていて、僕たちは日々、無数の糸のなかから「これだ!」というものをつまんで引っ張り上げている。正しい糸を正しく引っ張り上げれば僕たちはいつでも過去へと遡行できる。だが、最近の僕は、「これだ!」と選んだ糸が正しくなかったり、つまんだ糸を途中で指からすべらせてばかりいる。
ほんとうにいろいろなことを忘れてしまったーと思う。
「忘れる」というのは難しい概念だ。客観的には明瞭でも、主観的には非常にやっかいなものでもある。自分以外の人間の忘却の度合いというのはかなり正確に判断ができる。「なんだあの人はあんなことも忘れてしまったのか。すっかり老碌したもんだ」と評するのはたやすい。が、これが自分自身のこととなると、「なんだ僕はあんなことも忘れたのか。すっかり耄碌したもんだ」とは言えない。忘れるというのは、何を忘れたかを忘れるということでもあるからだ。何を忘れたかを忘れてしまえば、それはもう「忘れる」とは言い得ないのかもしれない。何を忘れたかを忘れた世界には「忘れた」という概念が存在しない。彼は忘れるべきものを、まずは忘れてしまっているのだから…
人間というのは物心がついた時点で、ふたりの自分に分裂する。
実人生を悪戦苦闘しながら歩んでいく自分(車)と、そういう自分を観察する自分(運転手)だ。
この二役を僕たちは死ぬまで同時にこなしつづける。ふたりとも与えられた肉体のなかにあるので、車と運転手のようにときどき分離することはかなわない。いまの僕みたいに車体(脳)が壊れてくると、それを修理して、かつてのように上手に記憶の糸をたぐり寄せる機能を回復させるのは、はとんど不可能ということになってしまう。
動物はいま(だけ)を生きているーとよく言われる。彼らはただ、真っ直ぐに与えられた生命を燃焼させる。明日の心配どころか、つい数分後の心配さえしていないように見える。食べたいときに食べ、飲みたいときに飲み、眠りたいときに眠る。明日、食料や水が手に入るかどうかを思い煩いはしない。食べたい、飲みたいとなったら全力で獲物を追い、水場を捜す。
彼らがそんなシンプルな生き方を実践できるのは、自分という存在がふたつに分裂せずに済んでいるからだ。彼らは、俺は虎だ、俺はライオンだ、俺は羊だ、と決して思わない。それどころか俺は雄だ、わたしは雌だと思うことさえない。犬は犬を、猫は猫をただひたすらに生きる。自分が犬だとも、猫だとも知らずに。
彼らは外界を観察して、自身との差異を分析したり、自分たち以外の生物それぞれに名前を付けて仕分けしたりもしない。太陽や月、星々の運行を占うことも、その法則を見出すこともしない。
自分や他人の行為を記録したり、それをもとにありもしない物語を妄想するようなこともない。
ーそもそも自分とは何だろう?
僕たちの脳内で絶え間なく起きている意識現象は、睡眠時だけでなく覚醒しているときであっても、僕たちをうつちゃった状態で勝手にさまざまな想念を生み出しているようだ。
うたた寝から目覚めた瞬間、自分が誰だか分からなくなるのは、その自分が「自分らしさのない一般的な自分」(これを仮にαとする)になっているからだろう。そして一拍ののちに僕たちは「そう信ずるところの自分自身」(βとする)にスイッチを切り替える。
うたた寝のみならず、普通に起きているときでも油断をすると意識はαの状態に没入し、ふと我に返ってもβに戻すのに手間取ってしまうのだ。おそらく脳にとっては、αの状態の方が心地いい、ないしは負担が少ないのだろう。脳が成長過程にある赤ん坊や幼児を見ていてもそれはよく分かる。高次の機能を獲得するまでの脳は、主にαの機能を使って外界からの情報を取り込み、想念を作り出しているのに違いない。彼らはそうやってβの自分を徐々に完成させていくのかもしれない。
そして、老化が進むとオートファジー機能の低下によって脳内のゴミの処理がうまくいかなくなり、今度は器質的にβを維持するのがむずかしくなってくる。そのため、僕たち老人の意識活動は次第にα中心になってくるのだ。認知症というのは、意識がαによってほとんど独占されたときにあらわれてくる症状だと思われる。
死というものはつくづく、「ほんとうに親しい者の死」と「自分自身の死」の場合にのみ意味を持つのだと、これまで数多の死を眺めてきた僕は思う。
本物以外の死については、僕たちは一観察者の域を超えることはない。そもそも本物の死と見徴していた死(たとえば親きょうだいの死)でも、大半は経年変化によって本物っぽい死に転化してしまう。そして、本物以外の死は、自分とは直接の関わりを持たない、単なる情報といての死なのである。
情報としての死である限り、あくまで人生の背景でしかない。
この世界は、ほんとうに親しい人の死と自分自身の死だけでできている。
ほんとうに親しい人の死は現在の死であり、自分自身の死は未来の死である。現在の死は現象そのものが僕たちに激しい影響を与え、未来の死は、その100%の可能性が僕たちに計り知れない影響を与えつづける。
「私とあなたは一心同体だもん」
「一心同体?」
「私が死ぬっていうことは、あなたが死ぬっていうのと同じだと思うんだよ」
僕が不思議な顔をつくると、
「この世界にはもう、私とあなたのふたりしかいないと私は感じているの。ここ数年、ずつとそんな感じ。それはきっとあなたも同じだと思う」
僕は小さく頷いた。
「だとすると、私が死ぬのとあなたが死ぬのは同じだと思うんだよ。世界に私たちしかいなければ、どちらかの消失は、相手にとっても同じ意味しか持たないでしょう」
「私もあなたもひとりぼっちになるんだよ。ひとりぼっちの世界はもう世界とは呼べないでしょう」
いろいろと頭をひねって我が想念の何事かを文字に書き起こすことし、その行為自体が82歳になった僕にとっては無意味なこと、やってもやらなくてもいいようなこと、たたの時間つぶし、つまりはこの人生のほとんどすべてを表象する無為でしかないのだから。
いま僕が知りたいのはたしかに僕自身についてだった。僕という人間は一体誰で、これからどうなるのかーそれが知りたい。もう他に知りたいことなんて何もなかった。
「神だとか宗教だとかを私たちはずっと馬鹿にして生きてきたけど、そういうものをこころのなかから完全に追い払えないでいるのは、こうして歳を取って、何もすることがなくなって、何も知りたいことがなくなったとしても、自分が誰で、どこから来てどこへ行くのかだけは、どうしても知りたいんだって気づいてしまうからだよ。その興味だけは唯一、捨てきれないんだよ。ということはね、私たちは、自分のことを私とか僕とか思った瞬間から、その『私』や『僕』が知りたい動物になってしまったんだよ。人間っていうのは知りたい動物なんだよ。そこが他の動物とひとつだけ違うところなんだと思う」
娘に「この世界に悲劇なんてものは存在しない」と告げたのは、言葉の綾だったのだろう。
博士は言外に、Timerを装着してしまえば、「永遠のいのちを得る危険性」があると言いたかったのだ。
装着者の多くが恐怖と欲望に負けて不死の人間となってしまうことを博士は危惧した。
死を失ってしまえば、本当のかなしみのみならず本当のよろこびをも失ってしまう。
不死の世界には真実の悲劇も真実の愛もあったものではない。
だからこそ、博士は娘に「本当に悲しむ必要はない」と説いた。なぜならば、「どんなにかなしいこと」があっても、死さえ失わなければいずれは消え去ってしまうのだから。
かなしみやよろこびのない世界に生きつづけるよりも、死を運命づけられた人生の方がはるかに幸福だと博士は考えたのである。
「死後の世界への道というのは、それがあると信じる人にだけ開かれるーそんなふうに思うようになりました。神だの天国だの地獄だのを本気で信じたことなんて一度もなかったし、どうしてもんなものを本気で信じられる人がこの世界に大勢いるんだろうって不思議でした。でも、最近、そうじゃないかもしれないって感じるようになった。死ぬというのは旅行のようなものなのかもしれない。
死後の世界へ行くには嘘でも本当でもともかく、”あっち”に行くっていう意志が必要なんじゃないか。そして、神だとか天国だとか地獄だとかを信ずるというのは、そうしたとりあえずの意志を持つには最も手っ取り早い方法なんじゃないかそんな気がしてきたんです。
僕たちが自らの死を想像するとき、何より恐ろしいのは「この僕」の消滅である。「この僕」が消えることを想像するとほんとうに哀切な気持ちになる。「この僕」の消滅はつらく、さみしく、そしてむなしい。それは暗闇に引きずり込まれるような待ったなしの恐怖だ。そうやってつらく、さみしく、むなしく思うことができなくなるということこそが、「この僕」の消滅の最大の恐ろしさでもある。
だが、少し冷静になって振り返ると、その恐怖の別の側面が見えてくる。
ちょっと待てよ。じゃあ、自分は一体どうやって「この僕」と出会ったのか?それはいつで、どんなきっかけだったのか?
まったく記憶にはないが、僕たちはそのことを直感的に理解している。
そうなのだ。ある日、僕は突然、「この僕」になった。実人生をせっせと生きる僕を見つめるもうひとりのそれが「この僕」の正体である。つまりは視点なのだ。僕はこの視点を与えられて「この僕」となった。では、他の人々はどうだろうか?イエス。彼らもまたある日、「この僕」となった。結局、僕はある日、突然、何の理由もなく「この僕」になり、周囲の人たちもそれぞれある日、急に「この僕」になったのだ。だとすれば、僕はまたある日、突然に「この僕」になるのだろう。たとえ、「この僕」が消滅したとしても、僕はまた「この僕」として目覚める。世界はそうやって「この僕」になった人々であふれているし、それは世界が存統する限り延々とつづいていくのだ。皆が皆、それぞれの視点に過ぎず、その視点はいきなり理由もなく付与される。そしてある日、シャットダウンする。だが、おそらくはすぐにどこかで再起動して、また「この僕」となる。
幾つもの経験を思い出し、あなたたちはよくここまでやって来た。それはすべてあなたたちの意志の成果だ。人が意志を持ったとき重なりが生まれる。
その重なりの複雑さが世界をつくる。パリに行きたいという意志を持ったとき、パリは生まれるのだ。なぜならパリに行きたいという人生が重なって、あなたにパリをもたらすからだ。すべては意志によって織りなされる。その意志によって重なり合いが生じ、別々の世界が互いに干渉し合って唯一無二でありつつ無限でもある”あなたの世界"となる」
「パリに行きたいからパリがあるんですか?」
「そうだ。パリはパリに行ったときにパリになる。パリのことを知りたいと本を開いたとき、初めてそこにパリがある。行った土地はそのとき初めて生まれ、知った場所はそのときに初めて知られるべきものとして生まれる。それがあなたの意志であるならば、必ずそうなる。書物は開くまで白紙なのだ。本を開いた瞬間に文字が生まれ、物語が始まる。結局は自分が作り出しているのだ。とうのむかしから知っている物語を、ただ、思い出しているに過ぎない。すべては忘れてしまった記憶でしかない。あなたの世界から見れば、それが真実だ。そして、忘れた記憶を届けてくれるのは無限に存在するそれぞれの”あなた"なのだ」
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