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人生でいちばん大切なこと

20241210

あなたにとって、
一番大切なことは何ですか?
それを見つけて
信じられる人は、幸せです。

「あなたにとって、今いちばん大切なものは何ですか」
「あなたの人生の中で、いちばん大切にしていることは何ですか」
もしもこのように問いかけられたとき、あなたならどう答えるでしょうか。
「自分にとって大切なものは家族に決まっている」
「今は家族のことよりも、仕事がいちばん」
「とにかく人生でいちばん大切で必要なのはお金」
「いや、自分の夢こそが人生でもっとも大切にすべきもの」.......。
そこには千差万別の答えがあると思います。
そしてこの問いかけには、正解や答えなどはありません。
自分の人生で何をいちばんにするか。それを決めるのは自分自身の心であって、他人からとやかく言われることではないからです。
大切なことは、自分が導き出した答えとしっかりと向き合って、責任と自信をもって歩むことだと私は考えています。
ただし、一つだけ知っておかなくてはいけないことがあります。
それは、今あなたが考えている「いちばん大切なこと」は、ずっとそこに留まっていることはないということです。
私たちの人生は、常にうつろっているものです。まさにそれは「無常」というもの。「この世に常なるものなどない」ということです。
私たちは一日一日、年を重ねています。それとともに、心もうつろっていきます。置かれている環境もまた、変化をしていきます。
自分自身ではその変化に気がつかなくとも、確実に人生は移り変わっている。
それが人間の歩んでいる道です。ですから、人生の中で「大切なもの」もうつろっていくのは、ごく自然なことです。
そしてほとんどの人は、自身の変化とともに「いちばん」も変化していくものです。

このように私たちの人生は、ときの中で常にうつろっています。永遠に今の「いちばん」が続くことはありません。
もし、ずっと一つだけの「いちばん」を追い求めていると、やがてそれは執着となり、本当に大切なものを見失い、心を追い詰めることにもなります。
大切なものもまたうつろっていく。そのことを心に留めておくことです。
何ものにも執着しない。一つのことだけにとらわれない。それが禅の基本的な考え方です。

「今のいちばん」としっかりと向き合いながらも、けっしてそれだけに執着しないこと。そんな心が、人生を生きやすくしてくれるのだと私は思っています。

現代社会を眺めたとき、「自分にとって大切なこと」が見えにくい世の中であると私は思うのです。その大きな要因は大量に流れてくる情報にあるのだと思います。
たとえば一昔前までの日本は、小さな村単位で人々は暮らしていました。いわゆる閉ざされた社会です。村人たちは同じように畑を耕し、同じものを食べ、同じような価値観をもって生きていました。つまり、「いちばん大切なもの」をみんなで共有していました。
まずは生活のために田畑を守ること。毎日一生懸命に畑仕事をすること。ある年齢に達したら誰もが結婚をして所帯をもつ。子どもを産み育て、決の世代へとバトンタッチをしていく。
淡々とした人生ではありますが、その人生の中にはたしかな「大切なもの」がありました。善し悪しは別として、人生に迷うことはありませんでした。目の前にある「大切なこと」にだけ目を向けていれば、それでよかったのです。
ところが、現代社会はそれを許してはくれません。日々に流れてくる大量の情報と自分を比べ、ついその情報に目を奪われてしまいます。そして私たちはついたじろいでしまうことになるのです。

自分にとっては不要な情報を安易に取り入れて、それに惑わされながら生きている、ということになります。そこに本当の幸せはあるのでしょうか。
そこに自分の人生だと呼べるものがあるのでしょうか。
自分にとって、「これこそが、いちばん大切なこと」だと思うものがあれば、けっして迷わないことです。
何よりも、今あなたがいちばん大切にしていることに心を尽くすことです。
迷うことなく、疑問を抱くことなく、その「いちばん」を言じて生きることです。
そしてその「いちばん」は、年を重ねるとともに二番になったり三番になったりすることもあるでしょう。それは当たり前のことです。

人生には後悔がつきものです。大きな後悔から些細な後悔まで、後悔のまったくない人生などあり得ないと私は思っています。
しかし、その中でも、できる限り大きな後悔は残したくない。そのためにも自分がそのとき倍じている「いちばん」と、真正面から向き合うことが必要なのです。

規則正しい生活は、無駄のない生活です。
決まった生活の中には、不要なことは入り込めないのです。
規則正しい生活には、自分自身の歩むべき道がくっきりと見えるものです。
今自分がなすべきことは何か。いちばん大切にしなくてはいけないことは何なのか。その人生の道標がはっきりと浮き上がってくるのです。
反対に不規則で乱れた生活をしていれば、余計な欲望が次々と生まれてきます。そして満たされることのない欲望を前にして、常に不満足な心を抱えることになるでしょう。
満たされない心は、やがては不安感へとつながっていきます。人生に対する漠然とした不安感です。それを抱えながら生きるのは、とてもしんどいことです。
もしも今、あなたの心に迷いがあったり、大切なものが見えにくくなっているのであれば、とにかく規則正しい生活を心がけることです。今やるべきことにだけ目を向けて、それ以外のことは考えないようにすることです。
心を集中させて、日々の生活を粛々と送っていくこと。「こんな生活をしていていいのだろうか」などといっさい思うことなく、「今はこれでいいんだ」と言じて生きることです。
その道のりの先に、きっと大切なものが見つかるはずです。

本当に必要な物は、捨てることで見えてきます。
そして、捨てることで心が楽になります。
部屋の乱れは、心の乱れそのものと言えるでしょう。
不要な物を抱えることは、すなわち本当に必要で大切な物が見えなくなってしまうことにつながります。
大切な物が見えなくなるということは、すなわち生き方そのものが見えなくなってくる、ということです。
物と心はまったく別だと思われるかもしれませんが、そうではありません。
人間の心は、必ず周りの物によって影響を受けるものなのです。

私たちは、体と心でできていますが、まず体を優先しましょう。
体が整って初めて、心を整えることができるのです。

過去を悔やみ、未来を追っていると、「今」を生きることができません。
「今」をどう生きるか。
それが後悔のない人生を創ります。

過去とは、もう過ぎてしまったもの。その過去に目を奪われ、執着してはいけないと考えるのです。過去の失敗などをいつまでも悔やんでいても仕方がありません。過ぎ去ったものは早く心の中から追い出してしまうことです。
そして未来とは、まだ来てもいない時間です。明日を信じて生きることは悪いことではありませんが、その明日が来るかどうかは実はわかりません。そんな不確定なものに心を遊ばせてばかりいると、大切なものを見失うことになりかねません。
「現在」という時間。もっと言うなら「今」というこの一瞬。それこそがもっとも大切にすべき時間であると禅は教えているのです。
自分にとって大切なものがわからないと言う人がいますが、自分がやるべきこと、自分にとっていちばん大切なことがはっきりと見えていないときは、人はつい過去を振り返ったり、未来に心を逃がそうとします。
「昔はもっと充実していたのに」「今はやりたいことがないけど、一年後には見つかっているだろう」というように.......。
現在という時間の中で解決しようとするのではなく、曖味な過去や未来に託してしまうのです。
「今」というこの瞬間に目を向けることです。
自分の人生で大切にすべきこと。自分にとっていちばん大事なもの。それらはすべて「今」という時間の中にこそ宿っているのです。そしてそれを見つけるためには、「今」を一生懸命に生きることしかないのです。
あなたが生きているのは、「今」というこの瞬間です。目を向けるべきは、「今」という時間なのです。その「今」から目を逸らしたり、「今」に手を抜いたりしていれば、自分にとって大切なものが見えるはずがありません。
一生懸命に生きた今日という一日。その一日の積み重ねが人生であることを意識することです。今の自分を愛おしみながら、一歩ずつ歩んでいくことです。
私たちはいずれ旅立ちのときを迎えます。それは避けることのできない真実です。
人生を閉じるとき、心から生き切ったという満足感に包まれるかどうか。はたまたやり残したことを数えながら旅立っていくのか。それを決めるのはあなた自身であり、「今」という時間の過ごし方、そのことにかかっているのです。

自分を押しつけると衝突が生まれますが、一歩引いてみると、人づき合いは楽になります。
私たち人間には「自我」というものがあります。「自分はこう考えている」「自分はこうしたい」と、さまざまな自我をもちながら生きています。
もちろんこうした「自我」は生きていくうえでとても大事なものです。自我をもたずして自分自身の人生は歩むことはできません。自我がなければ、自分は何者かもわかりません。反対に言えば、自我をもっていない人間などひとりもいないということです。
ただし、この自我を前面に出さないことです。自我を出し過ぎれば、必ずそこに他人との衝突が生まれます。
互いの自我を押しつけ合い、何としても自分の考え方を通そうとすると、そこに温かな人間関係や信頼感が芽生えることはありません。
常に自分を押し通すことなど無理だということです。
であるからこそ、「一歩退く」という心を常にもつことが大事なのです。
会社や家庭が温かな空気で包まれていることほど幸せなことはありません。
ギスギスした空気の中にいたいと言う人など一人もいないでしょう。
そしてその温かな空気は、そこに生きる人間が作っていくしかないのです。
それには、互いに一歩退く心をもつことが大切だと私は思います。

縁に恵まれている人は、流れてくる縁をつかめる人です。
まず目の前にいる人を大切にする。
そしてあとは運にお任せすればいいのです。
すべての人間関係は、「縁」という不思議な力によって結ばれています。同じ町に生まれたり、同じ学校に通ったり、同じ職場で仕事をすることになったり。映画館や何かのセミナーで隣りになったということまで、すべてがご縁です。
社会の中で生きている限り、私たちは実にたくさんの縁に包まれて生きているのです。

つらい思い出は、早く記憶の中から追い出してしまうことです。
人を許すのは、相手のためではありません。
自分の人生を幸福に満たすためです。
人間関係とはいい部分だけではありません。その裏側には必ず負の部分も抱えているものです。誰かから傷つけられた経験もあると同時に、あなた自身も、知らず知らずのうちに誰かのことを傷つけていることもあります。
その人を許すということは、何もその人に対して「許してあげる」ということではありません。その思い出を自分の心の中から追い出してしまうことです。
許すのはその人のためではなく、自分自身のためであることに気づいてほしいと思います。

世の中のほとんどの出来事は、「中道」で成り立っています。
自分の考えを受け入れてもらいたいなら、まず相手の意見に耳を傾けることです。
同じ社会に暮らし、同じ出来事を目の前にしながらも、その受け取り方は千差万別です。物の見方や考え方は十人十色。100人いれば100通りの考え方があるものです。
そんなことはわかっていても、人はつい自分の考え方が正しいのだと、相手にそれを押しつけようとすることがあります。人間関係のぶつかり合いは、このような考え方の押しつけ合いから生まれると私は考えています。
相手と意見が食い違ったとき、自分のほうが正しいと主張し合うのは、欧米的な価値観で、いわゆる二者択一の考え方です。善か悪か。正しいか間違っているか。好きか嫌いか。ともかくどちらか一方に決めたがります。
仏教の基本的な考えは「中道」です。どちらか一方に決めつけるのではなく、どちらにも極端に偏ることはしない、という考え方です。ですから、どちらの考えも共存していけるのです。禅では「二元的」には考えないのです。
相手と意見が食い違ったとき、「その意見は間違っている。自分の意見が正しい」と言うのではなく、「なるほど、あなたの意見もいいですね。でも、私は別の意見をもっているのですよ」と言う。この考え方こそが、日本人がもつ心根の優しさだと私は思っています。
私は、この世の中で、はっきりと黒白をつけなくてはならないことなど、ほんの一握りに過ぎないのではないかと思うのです。ほとんどのことは、曖昧にしておいたほうがいいのではないかと思います。つまり世の中のほとんどは中道で成り立っているということです。

自分にはいくらのお金があれば十分か、考えてみましょう。
身に余るお金をもてばもつほど、心の欲望は大きくなります。
贅沢などいっさいすることなく、不必要なお金に執着しない。少ないもので満足することで、どんどん心はすっきりとしてくるものです。
これが禅でいうところの「知足」なのです。「足るを知ること」。今あるもの贅沢などいっさいすることなく、不必要なお金に執着しない。少ないもので満足することで、どんどん心はすっきりとしてくるものです。
これが禅でいうところの「知足」なのです。「足るを知ること」。今あるものに心から満足すること。それこそが幸せに生きる最高の術であると、私は思って日々を暮らしています。

お金は巡らせていくものです。
人のために使うことで流れが作られ、巡っていきます。
金額の多い少ないではありません。自分のもっているお金を自分のためだけに使うのではなく、誰かのために使うということです。そんな心がけが、人と人をつなぎ、そしてお金が巡っていくのだと私は信じています。貯めているお金が、人と人との絆を生むことなどないのですから。

お金の使い方は、生き方です。
自分とお金の使い方が、あまりに違う人は、生き方が違うということです。
お金に対する考え方や使い方は、学校の授業のように誰かから明確に教えられることではありません。幼い頃からの家庭環境や両親の考え方によって自然と身についていくものだと私は思っています。
ということはつまり、お金に対する考え方は、その人の生き方とリンクしてくるものなのです。
お金に対する価値観は人それぞれです。この違いやズレは、友人や恋人ならば笑って許せるかもしれませんが、結婚相手となればそうはいきません。
お金に関する価値観とは、その人の生き方そのものです。
それが食い違うということは、すなわち生き方も違ってくるということです。
互いに歩み寄れる程度ならいいのですが、それができないと感じたのであれば、やはり結婚はやめたほうがいいと私は思います。

社会で与えられた役割を、仕事といいます。
それが収入にならなくても、立派な人生のキャリアです。
自分はいったい何のために仕事をしているのだろう。こんなにもつらい思いをしてまで仕事をする意味はあるのかしら.......。そう自問自答したとき、やはりお金を稼ぐためだという答えに辿り着く人が多いのではないでしょうか。
もちろんそれは厳然たる事実ですが、真実ではないと私は考えます。
長い人生の中で仕事が占める割合はとても大きいものです。おそらく人生の7割や8割は仕事をしている時間になるかもしれません。そんな大きな存在であるからこそ、仕事を単に金を稼ぐためだけと思ってしまうのは、非常に寂しい発想のように思います。であるならば、仕事をする意味とはどこにあるのでしょうか。
それはきっと、社会の中で自分に与えられた役割こそが、仕事なのではないでしょうか。

考える前に、まず手をつけ始めることです。
先延ばしにしていると行動量が減り、豊かな人生を創造することはできません。
仕事の早さに違いが出るのは、仕事への着手に対するスピード感にこそあるのです。
仕事が早い人を見ていると、とにかく仕事に手をつけることが早いのです。
あれこれと考えるのではなく、まずは動き始めています。0からの仕事を、まずは1にしています。
一方で遅い人というのは、なかなか仕事に手をつけようとしません。あれこれと考え過ぎたり、あるいは言い訳を考えたりするばかりで、なかなか最初の一歩を踏み出そうとしません。失敗することが怖いのか、それとも自信がないのか、いつまで経っても0のままです。
仕事の到達点が10とするなら、もっとも難しいのは、0から1に行く過程です。ともかく1までもっていきさえすれば、それはすぐに2や3にまで進んでいきます。
この最初の一歩こそが、いかに早く10に辿り着くかを決定しているのです。
失敗が怖くて動き出せないと言う人がいますが、何も始めていないのであれば失敗することはありません。動き始めるからこそ、そこに失敗が生まれるのです。要するに一歩を踏み出せない人には、失敗することさえ叶わないということです。

問題にばかり目を向けてはいけません。
大切なのは、全体です。
自分の人生全体で、それはどんな意味をもつのかを考えることです。

どんな仕事にも、向き不向きなどないと思います。もちろん得手不得手はあるでしょうが、不得手なことは努力改第で得意に変えることはできます。
大切なことは、仕事と向き合う心持ちです。自分はこの仕事には向いていない。そう思った瞬間に、その仕事はあなたに向かなくなります。
自分を仕事に合わそうと考えるのではなく、その仕事を自分に合わそうと考えることです。
仕事に自分の人生を合わせる必要はない、ということです。
自分の人生を物にして、それに仕事を合わせていくことなのです。
そして、すぐに諦めることなく、続ける努力を惜しまないことです。

人生にはいろいろな選択がありますが、どれを選んでも同じです。
大切なのは、どれを選んだかではなく、選んだ自分を倍じて、その道を歩き続けることです。
人生は選択の連続です。歩いている道はけっしてまっすぐな一本道ではありません。ときに二股に分かれ、ときに横道が現れたりするものです。
その時々に私たちは立ち止まり、どの道を歩むべきかを考えなければなりません。それが悩みにもなります。
しかし、二つに道が分かれたとき、どちらの道を選んでも「どちらも同じようなもの」であると私は考えています。
自分の思いを付じ、自分が選択した道を借じ、ひたすらに努力を重ねてきた結果、その先に成功があったのだと思います。

頑張ってきた自分を否定してはいけません。
かつての自分の思いに対して後悔してはいけません。
生きていれば後悔はつきものですが、しかし、かつての自分の思いに後悔してはいけないと思います。
自分が選んだその道に少しの後悔はあっても、それを選んだ自分自身の思いに後悔をしてはいけない。

つらいときにも、苦しいときにも、そのときにしか味わえない幸せがあります。
人生に「悪い日」など一日もありません。
楽しかった日々を思い出すことは悪いことではありません。そんな日々があればこそ、苦しいときに立ち向かうこともできるですから。
しかし、思い出ばかりに心を寄せてはいけないと思います。二度と返ってこない日々を追い求めても仕方がありませんし、ましてその行為は、今の自分に失礼なように思うのです。
「あの頃の幸せ」と「今の幸せ」はまったく別のものだと知ることが大事なのです。
人生は刻々と変化を遂げています。その変化の中では、まったく同じ幸福感が生まれることなどはありません。人生の変化とともに、そして年を重ねるとともに、幸福感もまた移り変わっていくものなのです。
「日々是好日」という禅語があります。人生には晴れの日も雨の日もあります。楽しい日もあればつらいと思う日もあります。では、晴れの日がよくて雨の日は悪いのでしょうか。楽しい日がよくて、苦しい日は悪いのでしょうか。
ついそう考えてしまいますが、実はどちらもが「好日」であるのです。
幸福とは楽しい日々の中にだけあるのではありません。苦しいときやつらい日々の中にもたしかに幸福は宿っているのです。苦しいときにしか見ることのできない風景もあります。つらい日々があってこそ、それを乗り越える力がついていくのです。
もっと言えば、人生の中に「悪い日」など一日たりともないということです。
幸せだったあの頃の陰にも、必ず苦しかったあのときが存在しているはず。
楽しいだけの日々など幻想に過ぎないのです。そうであれば、今この瞬間を含めて、すべてが幸福であるのです。

思い通りにするために、他者を引きすり込んではいけません。
思いは人に押しつけるものではなく、伝えるものです。
人はみんな、自分自身の思いがあります。そしてその思いを大切にするあまり、自分の思い通りにことが運ぶことが最善だと考えます。そして自分が描いた通りの人生を送りたいと誰しもが願うのです。
しかし、どんなに思い描いたところで、その通りに実現することはありません。なぜならば、その「思い通り」の中には、あなた以外の、あなたの力が及ばない他者の人生が関わっているからです。
いくらあなたが強い意志を抱いていたとしても、それがそのまま他者に受け入れられるはずはありません。
人生はけっして思い通りに運ぶものではない、ということをしっかりと心に留めておくことです。
思い通りにならないからこそ、そこに面白さがあるのです。思い通りに運ばないことで悩むからこそ、生きる力も知恵もついていくのです。

挑戦することを、大げさに考える必要はありません。
大海を作ろうとするのではなく、小さな池を、たくさん作ればいいのです。
小さな池は、小さな一歩から生まれます。
「大海も一滴の水から。大山も一つまみの砂から」という言葉があります。どんなに大きな川も、その始まりは一滴の湧水から始まります。その一滴が積み重なって川となり、やがては大海へと育っていく。大きな山も、一つまみの砂や小石が積み重なってできるものです。何かに挑戦して一歩を踏み出すことは、それと同じことなのです。
先のことなど思い浮かべることなく、まずは最初の一滴から始めることです。
一滴や一つまみくらいならば、すぐにでも始めることができるはずです。もしかしたら、その一滴が川とはならないかもしれません。小さな水たまりで終わってしまうかもしれません。それでもいいのです。
やりたいことに挑戦することなく後悔を残すよりも、小さな水たまりをたくさん人生に残すことです。もしかしたらそれは、小さな池くらいにはなるかもしれません。人生の中に作ってきた小さな池。その数こそが、生きてきた証でもあり、満足感につながっていくのです。
「而今」という禅語がありますが、今という瞬間を生きるという意味です。思い立ったら、あれこれ考えることなくまずは行動に移すことです。
やりたいことがあるのであれば、まずは小さな一歩を踏み出してみる。その場に立ちすくんで一歩を踏み出さないことが、やがては後悔になっていくのだと思います。

「自分はたしかに生きていた」
という証は、形に残るものではありません。
自分の人生を語ることが証となり、その魂は受け継がれていくのです。
この世に生を受けた限り、私たちはこの世に自分が生きた証を残したいと願うものです。「たしかに自分という存在がこの世にいた」という証です。これは人間がもつ本能的な欲望なのかもしれません。

「本来無一物」という有名な禅語があります。私たち人間は、この世に生まれてくるとき、何ももってはいません。まさに無一物の状態で生を受けます。
そして死を迎えるときにも、何ももっていくことはできません。
しかし、成長するとともにいろんな物をもつようになります。大人になれば家や車をもつようになるでしょう。あるいは預貯金も増えていくことでしょう。
それは社会で生活するために必要な物ではありますが、果たしてあなたが手に入れたすべての物が、本当にあなたを幸せにしてくれるのでしょうか。

東北地方の青森から宮城辺りにかけて、100を超える石塔が昔からあります。その石塔は何のために建てられたのか。それは、ここまで津波が襲ってくる危険があるという目印です。家を建てるのなら、この石塔よりも上に建てなくてはいけないという目印なのです。それは先人たちが後世の時代に残してくれたものなのです。
そして2011年に東北地方を襲った大きな津波がありました。多くの家と人が海に流されていきました。災害のあとに調べてみると、先人が作った石塔を津波が超えることはなかったといいます。
もしもこの石塔に、現代の人たちが目を向けていたなら.......。先人の教えを守り、石塔よりも下に家を建てなかったら.......。
それを考えても仕方がないことはわかっています。それでも私は、忘れ去られていた石塔の存在をつい考えてしまうのです。






















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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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