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【本要約】悪魔とのおしゃべり〜スピンオフ
2021/8/6
権力者の正しさ
戦前までは、大麻草は、日本中で栽培されていた。大麻草は、服・燃料・食品など多様な用途があり、栽培も簡単である。大麻草は、低コストでいろんな素材になり、石油製品と競合するため、戦後にGHQの方針で禁止された。石油でできることはすべて大麻草でできる、より安く、より簡単に。石油製品が売れなくて困るから、表向きは「麻薬だから」として禁止にした。
正しさの裏には権力者の都合がある。
世界の正しさ
世界中のすべての人の目の前に、今「せかい」というゲーム画面が映っている。そして、そのすべての「せかい」が例外なくその人の望み通りである。
量子力学における「観測者」と「対象物」の実現結果は、目の前で起こることは、すべてが、観測者の観測通りとなる。
「わたし」と「せかい」は常に鏡の関係にある。
私が観たなら、世界は観られた
私が欲したなら、世界は欲された
宇宙は、4%しか人間には感知されず、残り96%は見ることも触ることも聞くことも考えることも言葉にすることも想像することも許されない未知のモノである。
誰かに教えてもらったことには、何の価値もない。
誰かの正しさは、自分に関係ない。
他人の正しさを押し付けられても息苦しいだけだ。自分で気づくことに意味がある。
カタチの正しさ
幸せになりたい人の数だけ、不幸が必要になる。不幸な人以外は幸せになれないのだから。
自分の外側の世界というモノはない。自分の外側の世界があるのなら、世界に対する意見の違いなんて、ひとつもないはずだ。みんなが同じモノを見ているのだから、絶対に違う意見が出るわけがない。
自分がそう観たから、自分にそう見えているのが、世界である。観測者の数だけ、違う世界ができあがる。世界のすべては勘違いである。観測者が意識を向けなければ、そこには何も存在しない。そこすら存在していない。
物質がそう見えているのは、自分だけに見えるカタチだ。
赤ちゃんは海と空の境界線が見えていない。どこからどこまでが「海」で、どこから上が「空」なのかを決めていてないからだ。ある日『ここから上を「空」と呼ぶのよ』と教えられて、正しい「空」というカタチがくり抜かれた。そして、それによって残った部分が正しい「海」というカタチになった。何もない目の前の風景から、カタチを切り抜くのが、勘違いである。
「ここから、ここまでが、〇〇というカタチである」と、観測者が信じたから、そのカタチが見えるようになるだけだ。しかし、それも勘違いである。
勘違いの数だけ、世界ができあがる。
時間の正しさ
時間の逆転は科学的に可能である。
物理学者は「時間」を信じていない。「時間」とは、運動前と、運動後の変化のことだ。ベクトルを逆向きにすれば、運動後から運動前に戻することができる。物理的には可能であるが、時間が「1つの方向」にしか進まないことの方がおかしい。現実世界は、おかしい。
時間は幻想である
アインシュタイン
「過去 → 現在 → 未来」という時間の方向性の「正しさ」を信じていない。
時間は逆に進む。
過去とは?
何かの出来事があって、その場での状況・心境・選択・実行を行う。その時は必死だ。自分で、もがいて、あがいて、そうするしかなかった。
その時は、それがベストの選択だと思っている。いや、それしか選択肢がない時もある。少なくとも自分で決めたことだ。
その時にはわからなかった未来から、過去を振り返っている現在がある。
人生は、ひとつなぎの道だ。
「正しさを1つも持っていない者に、不可能なことは何もない」
食事の正しさ=脳腸相関
人体とは、まず「食べモノ」があってこそだ。
人間が体内に入れるのは、物質的には「空気」「水」「食べモノ」だけである。体内に入ってくるモノの違いが、体の進む方向の違いとなって現れる。もっと言えば「食べモノ」によって、コントロールされている。
食事とは、ひとつの宗教なのだ。
「食べモノ」によって、思考・意思・行動・夢のすべてが変わる。
無我夢中の正しさ=フロー体験
無我夢中 … 目の前の何かに100%集中しているとき「わたし」が消える現象だ。
無「我」が「夢」中なのだから「わたし」がなくなり、夢の中に没入できている状態である。フロー状態である。
「わたし」と「せかい」の境界線が消え、夢そのものになっているときだ。「わたし」も「せかい」もなく、ただ行為だけが発生している状態である。
分離感が消え、私が何者でもなかった頃に戻っている状態だ。
運の正しさ
「運」と「実力」は正反対の性質で、相容れない。
実力とは、自力でがんばったことである。自力とは、私が関わった行動である。運とは、私が関わっていない行動である。
「ありがとう」を多く言う人は、自力を全く使ってない。自力を信じてない。だから「ありがとう」と言う。「ありがとう」は、その自力じゃないパワーへと意識を切り替え、身を委ねて行く呪文である。ポイントは、悪いことへも「ありがとう」と言う。
世界平和の正しさ
人は1人では優しくなれない。
優しさという能力は、優しくされる人と優しくする人がいて、はじめて行使できる。すべての能力が、1人では、行使できない。人間の「能力」とは、すべてが他人のためにある。「わたし」とは、そもそも「他人」のために発生した存在だった。私が持たされている他人よりも優れた「能力」とは、世界のために使うモノだと悟る。
モーツァルト・夏目漱石・エジソンは「わたし」とは「だれか」のためにある道具だと言った。
鏡はすべてが真逆の性質となる。
「せかい」のために「わたし」が何かをすれば「せかい」が「わたし」のために何かをしはじめる。先に与える、するとより多くを受け取る。与える者が、受け取る者だ。
鏡は反射するから「せかい」の一部ではなく、目の前の「せかい」全体に尽くしたら、大きなエネルギーが跳ね返る。
この世で最強のパワー「世界平和への祈り」である。
この世界平和への祈りを捧げる者なら、世界のすべてを動かせる。キリストやブッダがこれを使った。この世界のすべての平和を祈った。だから、世界のすべてから祈られた。
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