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奴隷のしつけ方

20240723

奴隷ごときが、そもそも言葉を話す道具にすぎない奴隷が、主の失態を笑うとは何たることか!

奴隷がいない?
そんなばかな!
奴隷なしでどうやって社会が機能するのだ?
奴隷がいないとしたら、最下層の自由人でも嫌がるような仕事をいったい誰がやる?
戦争で捕虜にした連中をどうするのだ?
富を誇示するのに何を使うのだ?
などと疑問が次々と浮かんできた。

今や低俗な平等主義に毒された人間が巷にあふれている。

他の誰かに所属することができる人間は本質的に奴隷であり、だからこそ誰かに所属するのだ。

ギリシャ
奴隷は体が丈夫で、肉体労働に向いているが、その精神は、筋道を立てて物事を考えることに向いていない。反対に、自由人の体はまっすぐ立つようにできていて、屈んでする仕事には向いていないが、その精神は堅固で、知力に富む。

ローマ
人間が他の人間を自由にできるというのは自然に反する。
人間が別の人間を奴隷として所有するようになったのは一つの社会慣習にすぎない。自由人と奴隷のあいだに生まれながらの違いなどない。そこにあるのは力の行使に基づいた不公平でしかない。

家は社会の基盤であり、ひいては人類の基盤である。家が生活の基礎を支えてくれなければ、文明的な暮らしなど成り立たない。だが奴隷がいなければ家はただの建物になってしまう。ファミリアのなかには妻や子供たちもいて、彼らも家を支えているが、ほとんどの仕事をこなしているのは奴隷である。奴隷なら、どんな仕事でもこちらの望み通りの仕上がりになる。つまり奴隷は家という単位を有意義なものにするのであり、そうなったものが即ちファミリアなのだ。
ファミリアは国の縮図のようなもので、そこにはその家ならではの構造、序列、指導者、共同体意識がある。夫と妻、父と息子、主人と奴隷は社会生活の基本要素であり、奴隷制度は社会を支える基本原理の一つである。市民が国の命令に従うように、奴隷はファミリアの長である主人に従う。ただし市民と奴隷には違いがあり、奴隷は最初から絶対服従を強いられている。奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。その意味では奴隷状態とは「社会的死」であり、だからこそ主人への絶対服従が当然とされる。だがそれを理解しない奴隷も多いので、時には力ずくで服従させるしかない。

父は、奴隷を所有するのは“見栄を張る”ためでもあると教えてくれた。奴隷が道徳的に無価値で、単なる道具、あるいは資産の一部でしかないとしても、奴隷がいることで主人の格が上がるという側面があることは否めない。立派な馬が乗り手の格を上げるように、しつけの行き届いた奴隷は主人の格を上げる。そういう奴隷が家に何百人もいるとしたら、主人の栄光はどれほど輝かしいものになるだろうか!それほど多くの従者をかしずかせ、しかも正しく使いこなすことができるのは、社会で最も高い地位にいる人々だけではないだろうか?
奴隷は使いようであって、どれほど頭の鈍い奴隷でも、優れた主人なら使いこなすことができる。

古代ローマ人が奴隷制の廃止を論じた例はない。奴隷所有は社会生活の一部であり、現代でいえば車をもったり猫を飼ったりすることと大差ない。またローマの富裕層にとって奴隷は生活水準の指標でもあったが、それも現代に例えれば家電製品のようなものである。主人が自分でやりたくないことをすべて奴隷にやらせた。洗濯、掃除、背中を流すことまで。また、都市の家内奴隷は効率のためである以上にステータスのためであったが、これも現代の賛沢品と似ている。

奴隷の本性については、古代ギリシャ人の方が古代ローマ人よりも厳しい見方をしてた。アリストテレスは奴隷は自然によって奴隷なのであり、優れているギリシャ人が奴隷を所有するのは正しいことだと述べている。
アテネ社会では市民と奴隷の線引きが厳格に維持され、奴隷はたとえ解放されても社会に溶け込むことができなかった。しかし、ローマはその逆で、絶えず多くの外国人がローマの市民社会に吸収されていった。奴隷は一時的な状態で、何らかの条件が整えばローマ市民になれた。ローマの奴隷制は「構造的硬直性」ではなく「社会的流動性」だった。

奴隷とはなにか。奴隷とは主人に絶対服従を強いられ、社会的に死んでいる状態のことだ。戦争捕虜にされて、殺されないかわりに家族や友人、いっさいの社会関係からは切り離される。主人に生殺与奪の権を握られて、否応なく命令をきかされる。 

現代の労働は奴隷制か?
現代の労働は、サラリーマンは奴隷制と同じことだ。
この資本主義では、カネがないと生きていけないと言われている。それで会社で働いていたら、資本家と労働者の間に主人と奴隷の関係が生まれてしまうだろう。だって、クビになったら死ぬと思わされているのだから。主人なしでは生きていけない。生殺与奪の権を握られて、どんなにブラックなことでもやらされてしまう。絶対服従だ。

いい仕事をしようと思う彫刻家は、目的にかなう理想の石を探すことから始める。奴隷所有者も同じことで、主人たるもの、素材がよくなければ理想の奴隷に育て上げることもできないと心得るべきである。快活で、働き者で、忠実な奴隷をそろえるのは、適切な人材を得て初めて望みうることだ。したがって奴隷市場では品定め、すなわち肉体、知能、精神のいずれにも欠陥のない奴隷を見つけられるかどうかが鍵になる。

奴隷とは戦争捕虜か、さもなければ女奴隷が産んだ子であるはずだ。しかし、実際には他にもさまざまな事情で奴隷に身を落とす例がある。例えば貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、子供たちをどうにか食べさせていくためにそのうちの一人を売ることもある。このローマでは望まれずに生まれてきた子供を街はずれのごみ捨て場に遺棄するのはよくあることで、中にはそうした赤ん坊を拾ってきて奴隷として育てる人もいる。また人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。人買いは遠方の沿岸地域で行われている海賊行為に乗じ、大人だろうが子供だろうがかっさらってきて奴隷商人に売りつける。

これに対し、ローマ軍が対外戦争で獲得した捕虜を奴隷とすることについては、法律上全く問題がない。そもそも捕虜たちはローマ軍の情けがなければ命を落としていたはずなのだから。つまり奴隷とは、勝利を喜ぶ兵士たちが敵をあえて虐殺せず、軍事的抵抗の代償をローマ人への奉仕という形で払わせることにした結果である。家が裕福であれば、捕虜になっても多額の身代金を払って解放される可能性があるが、そうでなければ奴隷となり、命の代金を労働で支払うしかない。

奴隷を買う客にとって必要な情報がすべて事前に開示される。例えば、疾病その他の瑕疵がないか、逃走癖がないか、だらだらする癖がないか、どこかで問題を起こして訴訟沙汰になっていないかなど。なかでも大事なのは出身地で、売り手は奴隷一人ひとりがどこから連れてこられたのか明らかにしなければならないが、買い手もこれには十分注意を払う必要がある。どこから来たかでいい奴隷になるかどうかが決まるといってもいいほどで、評判のいい部族もあれば、悪い部族もあるからだ。

奴隷として一番いいのは、奴隷から生まれた奴隷だ。そのような奴隷は他の暮らしを知らないから、過去を振り返って思い悩むこともない。彼らは他の奴隷よりはるかに忠実で、主人を父親のように敬い、奴隷に生まれたことで主人を恨むこともない。
また、新たに奴隷になった者たちは、主人の意のままに成形できると考える人は少なくない。そういう人々は、なりたての奴隷でも小犬のように短期間のしつけで一応仕事をこなせるようになるのだから、何年もかけて育て上げる必要はないという。
とはいえ、捕虜になって連れてこられたばかりの野蛮人ともなれば、まずは奴隷という身分に慣れさせなければならず、ある種の調教が必要である。なりたての奴隷がそれまでよりはるかに低い身分の暮らしに慣れるにはそれなりの時間が必要で、購入の際にはその点を念頭に置かなければならない。買ってからしばらくのあいだはある程度の配慮をするべきであり、場合によっては若干の同情さえ示してやってもいいだろう。

奴隷の出身地に関してもう一つ注意が必要なのは、同じ出身地ないし同じ部族の奴隷を多く買いすぎてはいけないということである。出身地が同じなら言葉も通じるし、仲よく協力して働くからいいではないかと思うかもしれないが、実はそこに危険がある。まず、奴隷たちが示し合わせて仕事の手を抜いたり、おしゃべりに夢中になったり、盗みを働いたりといったことが考えられる。さらに深刻なのは、奴隷同士のもめ事やけんかが起きたり、口裏を合わせて逃亡したりすることで、最悪の場合は主人の殺害さえ企てかねない。それに引き替え、さまざまな国の出身者を少しずつ集めるやり方には多くの利点がある。まず、互いに話ができない。したがって示し合わせて仕事を怠けることはできない。また嫌でもラテン語を覚えざるをえなくなり、そうすれば主人としては命令がしやすくなるばかりでなく、奴隷同士の会話や噂話を聞き取ることもできるようになる。

ディオゲネスは一人しか奴隷を持たなかった。しかも、その奴隷に逃げられたとき、居場所がわかっても連れ戻そうとせず、「私の奴隷が私なしでも生きていけるというのに、私が私はの奴隷なしで生きていけないとしたら、それは恥ずべきことだ」と言った。
結局のところ、奴隷とは出費である。腹を満たしてやらねばならず、服を買ってやらねばならない。隙があれば盗もうとする彼らの手を始終見張っていなければならない。しかも奴隷を置くということは、こちらを憎んでいるかもしれない人間を使うということだから、重荷でもある。

奴隷を買った後は、どう働かせるか、どうすれば奴隷が自分のために懸命に働くようになるかである。初めて奴隷を買う人は鞭があれば足りると思いがちだが、代々奴隷を所有してきた家の者は鞭に頼れば奴隷が疲弊するだけだと知っている。使役にも妥当な範囲というものがあり、それを無視して酷使すれば、不機嫌で御しがたい奴隷がまた一人増えるだけだ。
主人となるからには、例え奴隷に対してでも適正な扱いが求められる。しっかり仕事をさせると同時に、その見返りとし彼らを正当に扱う。
自由身分の使用人はあくまでも人間だが、奴隷は耕作その他の働きのために用いられる道具とされている。たまたま言葉を話すことができるので、その能力ゆえに蓄牛その他の家畜よりも上に位置づけられるにすぎない。

次の段階は教育である。子供の養育が人格形成に影響を及ぼすことは周知の事実だが、奴隷の場合も指導と訓練が重要で、その内容は任せる仕事に応じた適切なものでなければならない。だからこそ、多くの場合、すでに奴隷だった者より新たに連れてこられたばかりの奴隷を買うほうがやりやすく、うまくいくといわれるのである。

新しい奴隷はまず奴隷という身分に慣れさせなければならないとうのは、言葉で言って聞かせるという意味ではない。
奴隷に必要なのは仕込むことであって、野生動物を手なずけるのと同じだ。
ただし、それは鞭を振りまわせばいいというものではない。
むしろ初めは好きなだけ食べさせてやったほうがいい結果が出る。
また気前よく褒めてやること。特に仕事に意欲を見せている奴隷は、褒められることでますますやる気を出す。
また、奴隷にはそれまで崇めていた神々を無理にでも忘れさせ、自分の家の守護神を拝むようにさせることだ。ローマの神々を知り、その神々がローマ人を偉大にしたのだと知れば、自分が奴隷なのは仕方がないことだと悟り、惨めな境遇も少しは受け入れやすくなるだろう。

奴隷がいったん仕事を覚えたら、そこからは仕事に応じて必要な量の食事を与えればいい。必要以上に与えると怠け癖がつくだけだ。
私は所領を見て回るたびに、必ず奴隷たちへの食事の割当量を自分の目で確認している。料理係が食材の一部をくすねるようなことを防ぐためである。また、主人が自分たちの食事に気を配っているとわかれば、奴隷もやる気を出し、いっそう仕事に励むようになる。

奴隷の頭のなかには食事、仕事、罰の三つしかない。食事を与えて仕事を与えなければ、奴隷は怠け、態度も横柄になる。だが仕事と罰を与えて食事を与えなければ、暴力を振るうのと同じで、奴隷はたちまち衰弱する。なすべき仕事と十分な食事を与えるのがもっともいい結果を生む。

食料と同様に、衣服も働きに応じて与える。
よく働いた者には褒美として質のいい靴や服を与えるといい。仕事を怠けた者には、生活のあらゆる面においてそれがどういう結果をもたらすか理解させなければならない。 

奴隷一人ひとりに長期目標をもたせることも重要である。一生懸命働けばいずれ自由になれるという希望をもたせてやるのもいい。長年の労働に解放という報酬で報いることは理にかなっているし、やる気を出させる手段としても効果がある。目標が達成可能なものだと思えれば、奴隷はそれに向かって邁進する。子供をもたせるのもいい方法だ。懸命に働けば家族がもてるというのは喜びであり、いい刺激になる。逆にもし期待を裏切ったら、罰として子供を別の主人に売ってしまうこともできる。とりわけ働きがよかった者たちに特別の休暇を与えるというのも効果的である。

役割分担を明確にするといい。分担が明確になれば責任の所在も明らかになる。何かがうまくいかないとき、誰が咎められるかを奴隷たちも承知していることになる。逆に仕事が分担されず、誰もが同じことをやるとしたら、誰も責任を感じないだろう。

なお、奴隷はグループで働かせると仕事が早くなり、集中するようになり、出来もよくなる。監視しやすい人数ということで、10人程度を一グループにするといい。それ以上多くなると監督者の目が行き届かなくなる。そしてグループごとに農場の異なる場所に配置する。グループ内の仕事の分担は、単独ないし二人組でグループから離れる者が出ないように気をつけることだ。分散してしまうとこれまた監視がおろそかになる。

グループの人数が多すぎると個々の奴隷の責任感が薄れる。 大集団の中では何事もわけがわからなくなってしまう。しかし適当な人数のグループなら互いに競い合うことになるし、誰が怠けたかもすぐにわかる。若干の競争は仕事をおもしろくするし、手を抜いたのが誰かはっきりしていれば、その奴隷が罰せられても誰も文句を言わない。

奴隷所有者は自分に従属する者に責任を負うべきだ。病気の奴隷を手元に置くのは金銭的な負担になるが、それでも健康を取り戻す機会くらいは与えてやり、元気になるまで仕事を軽くしてやるべきではないだろうか。年老いた奴隷には何か軽い仕事を任せればいいし、そうすれば彼らも家に貢献しつづけられる。私は門番や子供の学校の送り迎えなどをやらせている。奴隷が負う運命は厳しく、老年期まで生き延びる例はあまり多くないのだから、慈悲をもって接するべきだ。

管理人は、やや完璧主義で、知らないことをそのまま放っておけず、自ら学ぼうとする者を選ぶのがいい。基本的に管理人はすべてを知っていなければならないから、知識に不足があればすぐに補う姿勢が求められる。さらに共感というものを知っているべきで、それを知っていれば優しすぎず、厳しすぎず、うまくバランスをとれるだろう。管理人は働きのいい奴隷たちに調子を合わせて盛り上げてやる一方で、出来の悪い奴隷たちに忍耐を見せる必要もある。管理人自身が手抜きをしないことが肝心で、自ら下の者たちの手本となるべきだ。全員に目を配ること、仕事ぶりを始終見て回ること、すべてが順調に運んでいるかどうか確認すること、これが基本である。

管理人や作業長など、奴隷のなかでも上に立つ者たちには特別な報酬を与えて士気を高め、いっそう仕事に精を出すよう後押しするといい。彼ら自身が金や物を所有することを認めてやり、好みの女奴隷と一緒に住まわせてやるがいい。妻子をもてば腰を据えて仕事に取り組むようになる。仕事のことで彼らの意見を訊くのも悪くない。例えば今優先すべき仕事は何かとか、それを誰にやらせるかといったことを相談するのである。そうすれば彼らは自分が見下されていない、対等に扱ってもらえていると感じ、やる気を出すだろう。もちろん食料や衣服の割り当てを増やすのも有効である。

主人の家や地所の仕事以外に奴隷を使わないよう、釘を刺しておかないと、管理人が自分のために奴隷を走りまわらせるようになってしまう。次に、食事は下の者たちと一緒にとり、同じものを食べること。働き疲れた奴隷たちにとって、上に立つ者が自分より贅沢な食事をしていることほど腹立たしいものはない。また同じものを食べろというのは、下の者たちにも滋養のある食べ物が行き渡っているかを確認させるためであり、それも管理人の仕事だと自覚させる意味もある。
さらに、主人が許可した場合を除き、奴隷たちを領地の外に出さないこと。主人が不在のとき、火急の用事でもないかぎり、ほかの者に権限を委譲しないこと。

管理人の不正行為を未然に防ぐには、自分自身が定期的に領地を視察することだ。主人の目が届かないと奴隷が堕落するのは疑いようのない事実である。私は予告なしに視察に行くことにしている。主人のために整えられた状態ではなく、普段のあるがままの状態を見るためだ。到着したらすぐ管理人を呼び、そのまま一緒に視察を始める。あらゆるところを回り、各部門の奴隷たちとも直接顔を合わせる。そして不在のあいだ規律に緩みはなかったか注意深く見極める。ブドウ畑の中にも入り、手入れに抜かりはないか、実が盗まれていないか自分の目で確かめる。家畜の頭数、奴隷の人数、農機具の数を数え、管理人の台帳と突き合わせる。こうしたことを毎年続けていれば、領地の規律と秩序は保たれる。

私は罰として牢屋に入れられた奴隷にも公正な目を向ける。様子を見にいき、きちんと鎖につながれているか確認するとともに、いくつか質問をして不当な罰を受けた者がいないか確かめる。
奴隷の間にも複数の階層があり、一番下にいる者たちが罪を押しつけられて不当に罰せられることもある。だから時には発散が必要で、私などは彼らに管理人や現場監督への苦情をいう機会を与え、たまにはその苦情を認めて対処することさえある。 欲求不満を解消させることで面倒事が起きるのをある程度未然に防ぐことができるし、最下層の奴隷でもたまには意見がいえるという状況を作っておけば、管理人その他の監督者たちも行動に気をつけるからだ。

奴隷が自分にとって大きな投資であり、その資産価値を維持する必要があるということだ。

いくら奴隷が生まれながらに卑しく、価値がないように見えても、解放されて自由人となり、その子供たちが普通の自由人となることはありうる。同様に、自由人が不運にも捕虜となり、奴隷として売られただけだとしても、人からはどう見ても奴隷であり、ほかの奴隷と区別はつかない。つまり、奴隷という身分は本性によるものではない。

本来「奴隷」という言葉は品性の卑しい人間を指していただけだろう。自由人でも品性の卑しい人間はいるし、奴隷でも高潔な人間はいる。自由人がすべていい人間とは限らないように、奴隷もすべて悪い人間とは限らない。
「奴隷」という言葉は「noble (気高い)」と同じで、本来は人の徳やふるまいについて使われたのであって、血筋のことではなかった。だが「noble」はやがて「貴族」の意味にも使われるようになった。人々は言葉の本来の意味を忘れ、間違った使い方をするようになった。本当は、道徳に背くふるまいをする者が奴隷であり、それはその者が奴隷身分にあるかどうか、あるいは自由身分に生まれたかどうかとは関係がない。

あなたの奴隷はあなたと同じように生まれ、あなたと同じように呼吸し、あなたと同じように死ぬ。この事実についてよく考えてみてほしい。奴隷の外見ではなく内面を見て、そこに自由人がいればそれを認めるべきではないのか。同様に奴隷のほうも、あなたの外見ではなく内面を見て、そこに奴隷がいることに気づきうるのだから。運命に翻弄され、高貴な生まれでありながら奴隷に身を落とし、はいつくばるはめになった人は数えきれない。つまり奴隷とは、運命次第で自分が身を置くかもしれない身分なのに、それでも奴隷を軽蔑できるだろうか?

私はただ、あなたのために働く人々を、地位の低い仕事をしているという理由だけで無視するなといいたいだけだ。大事なのはその人の品性なのだから。どんな仕事を課せられるかは運にもよるが、品性は自分自身で養うものであり、その人固有のものといえる。したがって、食事をともにするのに値する者がいたら招くがいい。

人を服装や社会的地位だけで判断するのは愚かなことだ。姿は奴隷でも、心は自由人かもしれないのだから。
考えてみれば、誰の心の中にも奴隷がいる。ある人は情欲の奴隷であり、またある人は金銭の奴隷だ。名声や地位の奴隷も大勢いる。そしてわれわれ全員が希望と恐怖の奴隷である。貴族と呼ばれる人々にも卑しい行為が見られるではないか。

奴隷から恐れられるのではなく、尊敬されるような主人にならなければいけない。

奴隷が生まれながらにして卑しいわけではないように、あなた方も生まれながらにして主人なわけではない。 主人という立場だけでは意味がなく、その立場を行動によって示さなければならない。奴隷も同じことで、自分は卑しくないというのなら、それを立派な行いによって示さなければならない。
不品行を繰り返すばかりの奴隷は、生まれながらの奴隷といわれても仕方がないし、もともと道徳的に劣っていて、そこから脱することなどできないと思われても仕方がない。
奴隷も立派にふるまうことがあるのだと知ってもらいたい。すべての奴隷が生意気でずる賢いわけではなく、なかには忠実で、高潔な者がいる。驚くほどの美徳を備えた者もいる。とはいえ奴隷も精神は自由なのだから、驚くことではないのかもしれない。

われわれは皆同じ祖先をもつ。身分が高かろうが低かろうが、誰でも先祖をたどれば一組の親に行き着く。だから誰も軽蔑してはならない。出自もわからず、運命に見放されたと思える人間でも、見下してはならない。あなたの先祖に奴隷や解放奴隷がいるなら、そこから階段を上がってきたことを誇りに思うがいい。だが今の地位を誇りに思う奴隷の長所が見えなくなってしまってはいけない。今奴隷の身分にいる者もすべて、たとえ数世代かかるにしても、いずれローマ市民になる可能性をもっているのだ。

一般論として奴隷に期待できるのはせいぜい主人を手本とすることくらいである。手本が悪ければ徳を学ぶのは難しい。主人が何事にもいい加減なら、奴隷も注意深くはなれない。はっきりいって、人格に問題のある主人にいい奴隷が仕えているところなど見たことがない。逆の組み合わせはいくらでもある。
いい行いに積極的に報いると同時に、悪い行いを罰することをためらってはいけない。奴隷の態度がよくなるかどうかは、あなたの手本と指導にかかっているのだから。

反抗的な奴隷に理屈は通じないし、動物と同じで鞭を使わなければ態度を変えさせることはできない。一方、奴隷のほうもいつも体罰を恐れている。しかし、奴隷が体罰を恐れていることを、主人のあなたが気に病むことはない。むしろ主人の存在感を高める助けになると思えばいい。仕事の内容とは関わりなく、主人の存在を常に意識している奴隷は、そうでない奴隷に比べて注意深く、勤勉で、有能なものだ。
ただし、時に奴隷を罰するのは仕方のないことだとしても、理不尽であってはならない。奴隷の行動が規律や権威を危うくするものでない限り、鞭打たせるようなことは控えるべきだ。奴隷はあなたの資産の一部であり、それを傷つければ資産が損なわれることになる。

奴隷は一般的に言って道徳的価値をもたないから、拷問しなければ奴隷は真実を言わないとされるため、拷問が行われた。

多くの奴隷は解放を待ち焦がれている。彼らには社会的価値などないが、それでも奴隷として扱われることを屈辱と感じているし、一般的にいって道徳的価値もないが、それでも自由を得る資格があると信じている。法的見地から奴隷であることに疑問の余地がない場合でさえ、自分が奴隷なのは不当だと思っている。
しかし、奴隷がいつか解放されるかもしれないと思っていることは、実は主人にとっても幸いなことだ。馬にとってのニンジンと同じで、奴隷はそれを目指して懸命に働く。また処罰のための鞭ともなり、奴隷が期待を裏切ったら解放の可能性を棚上げすればいい。人は希望があればどんな苦しみにも耐えられるが、絶望すれば自暴自棄になり、何をしでかすかわからない。

奴隷を解放する方法
①遺言による解放(もっとも一般的)
②主人が生きているうちの解放
③奴隷が自ら自由を買い取る解放

②奴隷とのあいだに築かれた信頼関係などの情緒的結びつきによる解放といっていい。

ただし、奴隷の解放はただではない。奴隷の価値の5%を税として納めなければならないのだ。ただし、解放できる人数に制限がある。それは、大量の奴隷が解放されることによって異邦人や意志の弱い者がローマ市民に加わり、国の人的土台が揺らぐことを案じたからである。

③主人の側から見れば奴隷に自由を売ることになり、一見不都合な話に思えるが、実は主人にとっても有益な仕組みである。
奴隷を集合体として考えるなら、自分のファミリアを構成する奴隷は常に変化していく生物のようなものである。古い血が新しい血に入れ替えられてこそ、奴隷たちは生き生きとした集合体であり続けられる。だとすれば、奴隷に自由を売り、その対価で新しい奴隷を買えるのなら、それにこしたことはない。
こうした仕組みがあることによって、奴隷は希望を抱くことができるし、主人は奴隷のその希望をいい意味で利用することができる。奴隷がいい仕事をすれば、褒美として金品を与えるのが慣習になっているが、これは一種の投資でもある。 奴隷がその金を貯めて、ある金額に達したらそれで自由を買い戻すからだ。主人にとっては奴隷に与えてきた金が戻ってくることになり、しかも奴隷は自由のためなら気前よく払うので、悪い投資ではない。 

さて、奴隷の解放といっても、文字通りその場で自由になるわけではない。 私は正式に解放する前にいくつかの条件を出すことにしている。まず、解放後も一定期間の労働を義務づけるのが通例で、普通は数年である。その期間、奴隷は名目上解放されて寺院が祭る神の所有となるが、実質的には奴隷に留まる。奴隷にはそのあいだもよい働きをし、主人の命に従うと約束させる。これまで通り主人が与える罰を受けることも承諾させる。女奴隷に対しては、子供の一人を代わりに置いていくことを条件にする場合もある。彼女たちは何しろ自分が自由になれるのだし、子供も将来買い戻せる可能性があるので、この条件もたいていは喜んで受け入れる。子供のほうも家に馴染んでいるので、一人残されても問題はない。また、私にとって極めて重要な仕事をしていて、その奴隷がいなければ困るという場合には、"一定期間”を私の生存中とすることもある。

奴隷は解放されたあとも、主人であるあなたと緊密な関係に置かれることになる。これまで主人だったあなたは、今度はパトロヌス(保護者)となり、解放奴隷との間に庇護関係を築く。これまで絶対の服従を示してきた奴隷の側も、今後はあなたのクリエンテス(被護者)として、息子が父にそうするように敬意と服従を示さなければならない。解放奴隷にとってのパトロヌスは、まさに息子にとっての父親のようなものである。その意味で、解放奴隷はたとえ家を出たとしても、ファミリアの一員であり続ける。

解放奴隷がとりわけ役に立つのは事業の代理人としてである。私が何人もの解放奴隷を銀行業や金貸し、あるいは貿易などの世界に送り込んでいるのはそのためだ。これらは儲かることがわかっていても、社会的地位の高い人間が直接手を出すのははばかられる事業であり、それを彼らに任せるのである。

キリスト教徒は自分たちを「しもべ」だというが、その理屈が不可解である。 彼らは自分をキリストの「しもべ」であるといい、彼らの神を「主」と呼ぶ。しかしながら、彼らが慈悲や施しを説いているからといって、奴隷の扱いがわれわれと違っているかというと、そんなことはない。








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