サンダカン八番娼館
20240721
近代日本の社会は、製糸・紡績などの軽工業に多く依存して築き上げられたものであり、そこに働く女性たちの犠牲の上になりたっていた。全国いたるところの農村から、いわゆる口減らしのため東京・大阪・長野などの機業地に年季奉公に出た娘たちが、どれほど苛酷な労働生活を強いられたか。
彼女たちは、長時間労働・低賃金・最低生活を強いられていたとは言うものの、恋をする自由はあったし、結婚しようと思えばできなくはなかった。恋愛という感情が人間の内面の<自由> の領域に属するものだとするならば、彼女たちは少なくとも、その領域が自分のものであるという誇りを持つことだけはできたはずだ。つまり彼女たちは、労働力は売ったけれども、それ以外のものを売りはしなかったのである。
ところが売春婦は、もともと人間の内面の<自由> に属しているはずのセックスを、金銭で売らなければならなかった存在である。労働力をひどい低賃金で売って生きる生活と、セックスまでも売らざるを得ない生活と、どちらがいっそう悲惨であるか。
むろん、ひとくちに売春婦とは言うものの、その在りようや境遇は、かならずしも同一ではない。公娼が無くなった第二次世界大戦後の日本では、売春婦といえばとりもなおさず、街頭で行きずりの男の袖を引く私娼を意味するが、それより前の時代にあっては、売春婦という言葉の内容は複雑であった。俗謡や踊りなどの芸を売物に酒席にはベ芸者を上として、下には東京の吉原・洲崎・新宿などの遊廓に働く公娼や場末の街の私娼があり、さらにその下には、日本の国土をあとにして海外に連れ出され、そこで異国人を客としなければならなかった<からゆきさん>という存在もあったからだ。
そして、これら幾種類かの売春婦たちのどれがもっとも悲惨であったかと問うことは、あまり意味をなさないことかもしれないが、それでもあえて問うならば、おそらく誰もが、それは海外売春婦であると答えるのではなかろうか。
芸者・公娼・私娼など国内の売春婦は、同じ言葉を話し、同じ生活感覚をもっている日本人が客であった。むろん、なかには明治初期の開港地における〈らしゃめん〉や、敗戦後の〈パンパン・ガール〉などのような例外もあるが、しかし彼女らが相手とした外国人はおおむねヨーロッパ人かアメリカ人であって、後進国として西欧追随の道を歩みつつあった日本であってみれば、それらの国の男たちを客とすることは、彼女らの現実の意識においてはそれほど屈辱的なことではなかったと言えよう。けれども<からゆきさん>たちが売られて行った外国は、ヨーロッパやアメリカではなくて、日本よりももっと文明が遅れ、それ故に西欧諸国の植民地とされてしまった東南アジアの国々であり、そこでの客は、主として中国人やさまざまな種族の原住民であった。彼女らに限って当時の日本人一般をひたしていた民族的偏見から解放されていたということはないから、言葉は通ぜず、肌の色は黒く、立居振舞の洗練されていない原住民の男たちを客に迎えることに対しては、おそらく非常な屈辱感を味わったに違いない。そしてこの観方が誤っていないとすれば、近代日本におけるあらゆる売春婦のうち、からゆきさんが、その現実生活において悲惨だったばかりでなく、その心情においてもまた苛酷を極めた存在であった―と言わなくてはならないのである。
近代日本100年の歴史において、資本と男性の従属物として虐げられていたものが民衆女性であり、その民衆女性の中でも最も苛酷な境涯に置かれていたものが売春婦であり、そして売春婦の内でも特に救いのない存在がからゆきさんであるとなれば、ある意味で、彼女らを日本女性の<原点>と見ることも許されるのではなかろうか。
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その夜、私は、体は疲れているというのに、ほとんど一睡もできなかった。私などの知らないボルネオ綿が詰まっているというその敷蒲団は、何となく馴染みにくく、しかも、長い間、誰も使わなかったためにじっとりと湿気を含んでおり、まるで水風呂にでも浸ったような冷え冷えとした感触だったが、しかし、私が眠れなかったのはそのためではない。私の胸には、敷蒲団を叩きながらおサキさんの言った言葉が突き刺さって、疲れ果てているというのにどうしても眠れなかったのだ。
おサキさんが外国から持ち帰ったというからには、この敷蒲団はおそらく、彼女が、そのからゆきさん時代に使っていたものであろう。南十字星の美しくかがやく南国の夜ごと、さまざまな肌の色をした異国の男たちが入れかわり立ちかわりやって来て、金を出して彼女の体を弄んだとき、その褥となっていたものがこれなのだ。そしてそうだとするなら、この敷蒲団の冷え冷えとした感触は、何千人という異国の男にその小柄な体を繋がなければならなかった彼女の、人知れず流したであろう涙が沁みついているからに違いない。いや、ひとり彼女だけのそれでなく、彼女と同じように海外へ流れて行ってその身を売らなければ生きられなかった何万という女性たちの慟哭の涙が、浸みこんでいるからに違いない。
後日、私がおサキさんから聞いたところによると、この敷蒲団は、確かに彼女がからゆきさん時代に常用していたものであった。彼女が東南アジアへ売られて行くとき、すでに再婚して他家へ行っていた母親が、せめて新しい着物の一枚も作ってやりたいと村中、木綿糸を借り歩き、その糸を夜通しかかって縞の布に織り、その布を裁ち縫って袷を仕立ててくれた。それが、貧しく育ったおサキさんが母親から新しい着物をこしらえてもらった最初にしてしかも最後のもので、それを着て彼女は売られて行ったのだが、ボルネオに着くと女郎屋の親方から、 「そげな地味な着物ば着ておって、娼売になると思うとんのか」と罵られた。けれども彼女は、母親の餞別の着物をしまいこんでしまう気がせず、糸をほどいてボルネオ綿を入れ、敷蒲団に作り直してもらったのだが、それが、私の寝た木綿縞の敷蒲団だったのである。
私は、おサキさんとの共同生活を送った3週間余の間、その敷蒲団に寝かせてもらったのだが、その間、その敷蒲団に、もしかすると黴毒菌や淋菌がまだ生き残っているのではないかという不安に襲われたことも、正直に言えばしばしばだった。だが、おサキさんのからゆきさん生活の形見ともいうべきその敷蒲団に寝かせてもらったということは、他ならぬ、からゆきさんの声なき声をこの手に掴もうとする私にとっては、何にもまして意義のある体験であり、記念すべきことであったと言わなくてはならないのだ!
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うちが外国へ行くことになったのはな、ちょうど9つになった年じゃ。
うちら子どみばっかしで借り畑して暮らしておっても、一向にどうもならん。兄さんもだんだん若い衆になったばって、一枚の田畑も持たん男は一人前にあつかわれんし、嫁ごの来手も無か。それじゃあんまり兄さんが可哀そうじゃけん、うちは、心から何とかして兄さんを男にしてやらんばいかんと思うとった。となり近所の姉さんたちが、大金もろうて外国へ行きよるとば見ておって、子どみ心にも、おなごが外国さん行けば、兄さんは田畑ば買うて、太か家ば建てて、良か嫁ごば貰うて立派に男になれると思うてな、じゃけん、うちが外国さん行くことにしたとよ。
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幼女期をようやく終えたばかりのあんな小さな女の子が、からゆきさんの仕事の意味を知らずに外国へ売られて行くのと、その意味を知っていながら肉親のために自ら進んで売られて行くのと、はたしてどちらが残酷であろうか。いずれも残酷だと言ってしまえばたしかにそのとおりなのだが、しかし敢えて比較すれば、私には、後者のほうがはるかに苛酷であると思われてならないのである。
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うちは、せがれのこと、少しも恨みがましゅうなんて思っとらん。うちら年寄りは先に三途の川ばわたって行くもんたい。若い衆が、自分らの思いどおりに暮らしとるとなら、それが何よりの太平で、年寄りはがまんして生きとればよか。お女郎商売やっとったうちのような者が、おっ母さんでございという顔でそばにおらんほうが、嫁との暮らしがうまく行くとじゃけん、うちは、ここへ帰って来て良かったと思うとる。せがれと嫁とのあいだには、孫がふたりおって、顔見たいと思わん日はなかが、いつになったら望みが叶うもんかわからん。 孫の顔も見られんでひとりであるのは淋しいが、そのほうがせがれにも嫁にもよかとじゃけん、うちは誰にも何にも言わんでがまんしとると。そうして毎朝、お大師様とお天道様と仏様とに、せがれの一家じゅうが風邪もひかんで達者でありますように、自動車にひかれたり仕事場で事故に会わんようにと、うちは本気でお願いば申しとるとね。
ん、そうか。おまえ、うちが毎朝おがむの、気ィついとったか。うちは婆さんで早う目がさめるし、おまえは都会者で朝はゆっくりじゃし、眠っとるとば起こしてしまっては気の毒じゃけん、音させんごつして外へ出ておがんどったとじゃが、それでも目ばさめてしもたか。
うちは、おクニさんが死んだあとの頭のわずらいをなおして貰うてこのかた、軍ガ浦お大師様を信心して、どげなことでも、お大師様にお願い申すことにしとると。この村からじゃと、軍ガ浦でははこっちの方角じゃ。いつでもな、うちは朝起きて顔ば洗うと、お大師様に手ば合わせて、「どーぞお大師さま、京都におるせがれの一家じゅうを守ってください。せがれは小まんか折から丈夫な子ではありましたばってん、街ん中の暮らしは天草よりもどげんか辛かろうけん、どーぞ守ってやってください。嫁も孫も、病気せんで、事故に会わんで、達者できょう一日が過ごせますように」と、声に出して拝まんではおれん。それからお天道さまにお願い申して、死んだうちの人やお父さんおっ母さんの魂にもお願い申すと、ようよううちは安堵するとね。
こげんして拝むのは、うちのおつとめたい。村へ戻って来てから、欠かしたことはひと朝もなか。雨が降っても、風が吹いても、また、うちは喘息持ちじゃけん、秋冬になると咳が出て苦しゅうしてならんことがあるが、そげんときでも休んだことは一日もなか。うちはもうすっかり年取ってしもて、よう働きもでけず、せがれから毎月銭を送ってもろて暮らしとって、その代りのことは何ひとつしてやれん。そげん余計者のうちが、うちの血継いでくれるせがれや孫にしてやるることは、信心するお大師様やお天道様に一心にお願い申すことだけじゃもん。朋子、こんどおまえが東京さ帰って行ったら、うち、きっと、おまえの分もお大師様に拝んでやるけんな、からだ気ィつけてがんばれよう
訊きにくいことじゃが、訊いて良いかて?何もかんも、南洋でのお娼売のことまでもすっかり話したおまえじゃもん。どげんことでも訊くがよか。なに、せがれから毎月いくら送って貰うとるんかとか。
毎月、4000円送って貰っとる。現金封筒に入れて送ってくるるで、判コばついて受け取っとる。4年前までは3000円じゃったが、今は4000円じゃ。せがれもたいへんじゃろが、うちも、これを送ってもらわにゃどうにもならんもんね。生活保護のことは、川向こうのおサナさんから、いつか、「おまえみたいに貧乏な者に、役場から銭くるる生活保護いうもんがある。役場へ行って相談してみい」と言われたことがあるけん、うちも知ってはおるが、せがれが「あれば貰うと、おれがおっ母さんのめんどうばみん親不孝者に思わるるけん、受けんでくれ」と頼むもんだけん、一度も貰ったことはなかと。せがれに内緒で役場の銭もろうたらよかがと言う者もおるが、内緒ごとはうちの気性が許さんと。
4000円の銭でひと月暮らすのは、なかなか骨が折れるとよ。米を買うて食うたら、じきに無うなってしまうけん、おまえにも食べてもろうとるような麦のままじゃ。せがれからの銭が遅れて、麦もよう食べきらんときは、唐芋と決まっとる。いま時分、こげんか麦の多か飯ば炊いとるのは、この村でもうちとこだけと違うか。
こげに難儀ばしとるとじゃもん、お猫さんに扶持するのやめなっせという人もおる。うちにおるのだけで、ひい、ふう、三ィ、四ォと、それ五つ。このミイもタマも、それからあそこに長うなっとるポチも、みんな捨てられた猫で、腹へらしてミイミイ啼いとった。腹へってひもじか思いは、誰よりもうちがよう知っとるけん、うちは見棄てることがでけんで、拾ってきてはままやると。
きのう、おまえにまま運びしてもろた下の家のお猫さんな、あれはみんなで4匹おるけん、ここのと合わせると9匹になると。あの家は、うちの妹おっ母さんが伯父さんとこへ嫁に行って生んだ子じゃけん、種ちがいの妹ということになるが、その妹が亭主子どみとみんなして名古屋へ出稼ぎしてしもた家でな、連れて行かれんもんで猫だけが2匹残った。べつに「猫を頼む」と言われたわけではなかが、あれも生きもんじゃけんでな、うちがまま運んで食わせとるうち、ほかからもふたつ来て、4匹にふえてしもうたとじゃ。おまえの言うとおり、ここん家へ連れてきて、9匹一緒にしてもかまわんけど、猫じゃとて住み慣れたとこがよかろ。うちがまま運べば、それで済むけんのう。お猫さん、うちが行く時刻ばよう知っとって、飯どきになると、餌場にちゃんと4つ、首をそろえて待っとるぞ。
うちの口にはいるのが麦なら猫も麦。うちがお芋さんなら猫もお芋さん。うちがこれから幾年生きるかわからんが、仏さんのとこれ行くまでずうっとこのまんまの暮らしじゃろ。ばってなァ、小まんか時分、お父っさんに死なれ、おっ母さんに去られて、兄さんとヨシどんとうちと、兄妹三人、なんにも食べられんで水ばっか飲んでふるえとった日を思うと、今は麦でも芋でも三度三度食べらるるとじゃけん、殿様のごたる暮らしじゃがね。
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この大江の村からおサキさんの村までは、道のりにしておよそ10キロくらいしかないだろう。都会生活をしている人間にとっては、10キロは目と鼻の先の距離でしかなく、よしんば1000キロ離れていたとしても、電話や手紙などでお互いに消息を伝え合うことは容易である。それなのに、かつてのからゆきさんたちの老残の世界―手紙をしたためようにも書く手は持たず、電話で話そうにもそれはなく、乗物に乗って会いに行こうにもその暇も金もないところでは、わずか10キロがそれこそ無限の距離であって、60年来の友情を温めることはおろか、生死の別れすらかわすことができないのだ。私は、今更ながら彼女たちの悲惨さをひしひしと実感せずにはいられなかった。
※
「おまえは、いつか帰って行く者じゃて思うとったが、よく、こげに長うこの家におってくれた。ありがとう、だんだんね。うちは、この半月あまりのあいだ、おまえを、本当にうちの嫁ごじゃと思うとった。おまえのことは、いつまでも忘れはせんぞ」
「おかあさんに、ひとつだけ訊いておきたいんだけど――」と口を切って、どこの馬の骨ともわからないのような者を3週間も滞在させておく間、なぜその身の上について訊かなかったのか、私がどんな身元の人間だか知りたいとは思わなかったのか――と尋ねてみたのである。
するとおサキさんは、「そらあ、訊いてみたかったとも、村の者ば、ああじゃろ、こうじゃろと評判しとったが、そういう村の者より、うちが一番おまえのことを知りたかったじゃろ」と、やはり静かな口調で言った。そしてそのあとへ、「けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」と、これも穏やかな調子で続けたのであった。
この言葉を耳にして、わたしは、おサキさんの小柄なからだが、急に十倍も大きくなったように感じた。ああ、何という円熟した言葉なのだろうか、おサキさんの今の言葉は!
確かに、人間というものは、話して解決の道の見つかりそうな悩みなら他の人に打ち明けることができるが、解決の方法の見つからぬ苦悩や秘密であればあるほど、他人に話せないのが普通である。軽率で思いやりのない人間は、人が誰にも打ち明けようとしない苦悩や秘密を抱いていれば、何とかしてそれを聞き出そうとするようなことが多いが、思慮深く思いやりのある人間は、そういう悩みを抱えた人をその当人の気持のままにそっとしておき、何をしてやることもできず、その人を遠くからただ見守らざるを得ない苦しみを、自らに引き受けるのだ。そしてそのことは、かつて、誰に話しても癒えることのない苦悩を抱いたことのあるこの私が誰よりもよく知っている。
「おまえから貰いたいものがあるとじゃが」と言い出した。それは何かと訊ねると、彼女の答えは、「東京へ帰ればほかにも手拭いば持っとるなら、おまえのいま使うとるその手拭いば、うちにくれんか――」と言うのであった。
胸のあたりが締めつけられるようになるのを辛うじておさえながら、わたしは、ボストン・バッグからタオルを取り出した――天草に暮らしたこの3週間毎日使っていたタオル、昨夜おサキさんが私の涙を優しく拭ってくれたあのタオルを。彼女は両手を差し伸べて受け取ると、「ありがとうよ。この手拭いを使うたびに、おまえのことを思い出せるけん――」と言い、嬉しそうな、しかしどこやら淋しげな微笑みを浮かべたのである。
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「おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」
彼女は学校と名の付くところには一日も通わず、したがって片仮名も数字も読むことのできない文盲であって、書物などとはきれいさっぱりと縁がない。そして、そういう彼女であるにも関わらずなおかつ人間として最高度に円熟した言葉を口にし得たということは、彼女が、他ならぬからゆきさん生活を通してそのような境地に到達したとする以外に、解釈の道はないのである。
おサキさんの思いやりは、人間はもちろんのこと、「あれも、いのちのあるもんじゃけん」と言って、自分の食物を削って9匹の捨猫に分け与えるほど広い。
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からゆきさんは、日本のアジア侵略初期における『肉体資本』として、外貨を獲得するための政策である。
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あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。