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心はこうして創られる(1/2)

20240425

人間の行為というのは、傍観者であれ当人であれ、行為の前であれ最中であれ後からであれ、誰がどう説明しても偏っている説明にしかならない。意識という「表面」の下に潜む感情や動機や信念を見つけ出そうとするが、人間の真の感情や動機や信念を見つけ出すことはできない。見つけるのが難しいからではなく、見つけるべきものが何もないからだ。

心の内側の世界も、そこに納まっていると想定される信念や動機や恐怖も、それ自体が想像の産物なのである。私たちは自分や他人についての解釈を、経験の流れの中で作り出している。どんな解釈に対しても、数限りない別の解釈が突きつけられうる。本人の解釈と他人の解釈は何ら変わらないのだ。

現実の人生の進行も、小説の進行とそこまで変わりはしない。私たちの信念や価値観や言動は、その瞬間のうちに作り出されている。思考というのは、創作作品と同じく、こしらえたときに存在し始めるのであって、その一瞬前にはどこにもない。

内観する力、つまり自分の内側の世界をつぶさに調べる能力を持っているかのように人は話してしまう、外界を知覚する能力と同じであるかのように。だが内観という処理は、何かを知覚しているのではなく、創作している。自分自身の言葉や行動の意味をとるために、リアルタイムで解釈を生成しているのだ。内なる世界、それは蜃気楼にすぎない。

言動というのは表面にすぎず、その水面下では本人すらはっきりとは把握できない内的な動機や信念や欲望といった力が渦巻いているのだ、という感覚は、私たち自身の心が仕組んだ手品にすぎない。深いところには何もないとか、実際には浅いのだと言っているのではない。表面しかない、というのが真実なのだ。人類の歴史上いまだかつて誰も、内なる信念や欲望に導かれたことのある人はいない。

信念やら動機やらは、空想の産物に他ならない。私たちが自分や他人の言動を正当化したり説明したりするために語る筋書きは、細部が間違っているのではない。始めから終わりまで絵空事なのである。

自分や他人の言動についての説明といった意識的な思考の流れというのはその瞬間における創作なのである。心は絶え間なく解釈を行っている。周りの人たちの振る舞い、あるいはフィクション作品のキャラクターの振る舞いについて、意味をとったり理由づけしたりしながら解釈を施しているのと全く同様に、自分自身の振る舞いも解釈しているのだ。

まさにこの創作する力が、人が日常生活のことを自分や他人に向けて、よどみなく説明してみせる力の底にあるのではないか。

心には表面しかない。心の深みという、その発想そのものが幻想だ。心に深さがあるのではなく、心は究極の即興家なのだ。行動を生み出し、その行動を説明するための信念や欲望をも素晴らしく流暢に創作してしまう。心の即興は、できるだけ思考や行動に一貫性を持たせ続ける。そうするためには、絶えず努力していなければならない。つまり、以前の思考や言動とできるだけ食い違わないように、今の瞬間に考えたり行動したりしている。

主張は二つの部分からなる。
①心の仕組みについて広っている根本的な誤解を一掃することを試みる。
②脳は休むことなき即興家であることの積極的な説明をしていく。

①信念・欲望・希望・恐怖は虚構である。それを現実として受け止めているのは、あまりに真に迫ったフィクションであり、自分の脳が淀みなくやすやすと紡ぎ出すせいなのだ。私たちが自分の心について知っていると思っていたことは誤りである。

思考とはそれが全てなのだ。その上、瞬間ごとの経験は愕然とするほどざっくりしている。どの瞬間においても、私たちが認識できる顔は一つだけ、読める単語は一つだけ、見分けられる物体は一つだけなのである。そして自分の気持ちを述べたり自分の言動を説明したりするときも、その瞬間に少しずつ話を創作しているのであって、前もって存在していた思考や感情を内的世界から探し出してきているのではない。

夢の解釈に至っては、心理を深く掘り下げるどころか、創作のうえに創作を重ねているにすぎないのだ。

②もし、心に深部はないというなら、私たちの心の活動は純粋に「心の表面」にあることになる。脳は即興家であり、現在の即興を以前の即興に基づいて作っている。知識や信念や動機からなる隠された内的世界ではなく、それまでの各瞬間の思考や経験の「 記憶の痕跡 」を利用することで、新たな瞬間の思考を創り出しているのだ。

良い解釈とは、今現在のみを理解できる解釈ではなく、過去の言動を、そして過去に行った解釈をも、現在と結びつける解釈なのだ。脳は、瞬間ごとの解釈を創り出すエンジンであり、このエンジンが活用しているのは、隠された内なる深みではない。現在を過去と結びつけることで解釈を作り出している。それはちょうど、小説の執筆は一文一文を整合させているのであって別世界を丸ごと作り出してはいないのと似ている。

意識的経験というのは「思考のサイクル」の出力の連なりである。思考のサイクルとは、感覚世界の一部に着目して意味を押しつける営みである。見えているのはこの単語や顔や物である、聴こえているのはこの声や音楽やサイレンであるといった、脳が作り出した解釈が私たちの意識的経験となる。しかし、心への入力は何だったのか、心の内部動作がいかなるものだったのかは、決して意識されない。 思考のサイクルの一回転ごとに、意識的に経験される解釈がもたらされる。 しかし、その解釈がどこから来たのかは、何の説明もないのだ。

思考のすべては、チェスであろうと、抽象数学の推論であろうと、芸術や文芸の創造であろうと、実は知覚の延長にすぎないからだ。

人間の持つ奇妙な癖や、言動がころころ変わること、思いつきに左右されていることは、脳が比類なき即興家であることを理解すれば、むしろ納得のいくこととなる。 その瞬間ごとに意味を見つけ出し、その瞬間ごとに最も意味をなす行動を選択する。脳がそれを自発的に行うエンジンであることに由来しているのだ。 その際、私たちの思考や行動は、過去の思考や行動に基づいている。今という瞬間の課題に取り組むため、脳は過去を利用し、再加工しているのだ。

それだけでなく、今日の思考が昨日の前例を踏まえるのと同じように、今日の思考は明日のための前例となっていく。そうして私たちの行動や言葉や生活は一貫した形を保っている。したがって、何が人それぞれを特別な存在にしているのかといえば、その大部分は個々人の思考や経験が経てきた歴史である。言い換えれば、人は誰もが、常に創造の最中にある唯一無二の存在感なのだ。私たちは自分自身が創り出すキャラクターなのであって、内なる無意識の流れに弄ばれる存在なんかではない。

そしてまた、新たな知覚や運動や思考はいずれも、過去の知覚や運動や思考の上に築かれる。私たちは素晴らしく自由にかつ創造的に、古い思考から新たな思考を築きうる。確かに、現在の思考は過去の思考パターンをなぞり続けることもある。だがそれは必然ではない。人間の知性には、古い思考から新しい思考を創り出す素晴らしい力があるのだ。

そういった自由と創造性は、脳の基本的な仕組み、即ち、いかにして知覚し、夢を見て、会話しているのかということの根本そのものなのである。自由とはいっても、限度はある。新たな行動や技能や思考は、豊かで深い人生を築くことを必要とする。 専門的な知識や技能の土台となる記憶の痕跡を敷き詰めるには何千時間もかかり、そこに近道はない。誰もが唯一無二のものとして自分の人生を育む中で、それぞれの思考や行動のを敷き詰め、新たな思考や行動はそこから創り出される。ゆえに一人一人が独自の人生となる。

私たちの自由というのは、自分の思考や行動を一度に一歩ずつ作り変えていくことにある。現在の思考や行動は、緩慢にではあれ絶え間なく、私たちの心を再プログラミングしているのだ。

人工知能研究、 認知心理学、 発達心理学、臨床心理学、言語学、行動経済学といった広大な諸領域が、心についての世間一般の発想、心には信念や欲望が蓄えられているという考え方から出発している。しかし、心について私たちが抱いている直観的な捉え方にもそれに基づいている科学理論の多くにも根本的な欠陥がある。心の仕組みについて私たちが知っていると思っていたことのほぼ全て、内観や正当化や説明のさいに抱いている直観は、まるごと捨て去る必要がある。

脳の働きとは、知覚と記憶からきた情報を統合して、世界の状態を理解し、どう行動するかを決定することであるのは間違いない。脳はものすごく複雑な情報処理という課題に取り組んでいて「情報処理」というのは計算の別名でしかない。脳は生物学的な計算機械である。

脳が行っている計算についての理論と、信念や欲求といった通念に基づいて説明する直観的な心理学、この二つは、一致していない。

脳という「計算する内臓」は、経験、感情、信念、欲望、希望の渦巻く海なのではない。心は、それらに人間は動かされているのだという物語を紡ぎ出しているのだ。

私たちが一瞬ごとに「覗き込んでいる」 つもりのぎっしり豊かな精神世界というのは、自分が一瞬ごとに創作している絵空事なのである。

実験データでは、人が識別できるのは一度に一つの対象である、と判明している。自分の心について知っていると私たちが思っていることの全ては自分自身が私たちを担ぐために作ったでっち上げである。

コンピューターに知的な振る舞いをさせたければ、その一番よい方法は、人々がそれに頼っていると自分で言っているような知識や信念を抽出することではない。経験から学ぶ機械を設計するほうがはるかに効果的なのであ。例えば、チェスで世界チャンピオンコンピュータプログラムを書きたければ、プロの技が使っていると主張するようなことを人間の手作業で組み込むのは有用でないことが判明している。自身に莫大な数の対戦からポトムアップで学習させる方がずっとよいのだ。いまや多くのゲームで、機械学習プログラムは人間なみになったどころか、人間の最強の競技者に勝ってしまう。

①小説を読んでいるとき、奥行きと緻密さのある世界に浸っているように実感するけれども、実際には小説の叙述は矛盾だらけ欠落だらけである。そして実は小説に限らず、日常的なものごとに対して自分が抱いている直観も、ちゃんと説明できるという主観的実感とはうらはらに、矛盾だらけ欠落だらけである。深く説明できるという錯覚しているに過ぎない。

②視野いっぱいの物や人がすべて同時に詳細に見えている、という当たり前の実感も錯覚である。感覚世界は矛盾まみれですかすかなのだ。本当のところ人間は、ものすごく少しずつ、有意味なひとかけらを一度に一つのみ、認識している。

③知覚世界の全体像だけでなく、個別の感覚もじつは矛盾まみれですかすかである。一つの顔、一つの物体、一つの単語さえも、人間はひと目で取り込んではいない。 せわしなく 「ひとかじり」を続け、ほんの一部を次々と解釈し続けるからこそ、一つの顔や一つの単語が確固としてそこに見えているという勘違いが維持されているのである。だが実際には、二つの色を同時に見ることさえできていないのだ。

④想像力が描き出すイメージも知覚と同じくらい、いやそれ以上に矛盾まみれですかすかである。想像というのは思考を巡らせたところにいわば一度に一筆だけ描かれるのであって、心の中にしまわれた完成品としての心像といったものは存在しない。とりわけ、寝ているときの夢は、想像の根本的な不完全さのよい見本である。

⑤感情も、高度に多義的かつ極めて乏しい手掛かりからそのときその場で「解釈を経たもの」として構築されている。 胸の奥から湧き上がってくるありのままの感情などというものはない。

⑥知覚や想像や感情だけでなく、自分の行動も、そのときその場で最も意味をなすものを即興で選び出している。行動とは心の中に予めしまわれていた信念や欲望を表に現すことであるという実感もやはり思い込みである。

心というものが存在するかのような言い回しは便宜的に用いるのはよいけれども、本当に存在するのは意識に浮かぶ感覚や感情や思考の流れのみなのであって、それとは別に心そのものとか (自我とか自己意識とか魂とか)といった、矛盾も隙間もない確固たる一つの実体が存在しているわけではない。

脳は、「心の奥 ( 信念・感情・欲望・価値観 ) 」がある錯覚を創り出しているのみならず、「心というものが存在している」という錯覚さえも創り出しているのだ。
しかし、実態は、感覚情報のほんのひとかけらを解釈して意味付けした結果がその瞬間の意識となっているのみであって、それとは別に「心」と呼ばれる何かが確固として存在しているわけではないのだ。

心は、自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望や好みや意見はなく、記憶さえ心の表面にある。脳は、一瞬また一瞬と心を創り出している。
新たな思考、物語は、無から創り出されるわけではない。新たな物語は、過去の物語の断片から組み立てられる。だから、人は誰もが唯一無二の歴史そのものであり、その歴史から新たな知覚や思考や感情を創り出すことのできる創造的な機械である。歴史を積み重ねるうちに、ある思考パターンは自分にとって自然になり、他の思考パターンは苦手になったりする。だが、一方では過去に頼っているとはいえ、私たちは継続的に自分自身を創作し直してもいる。この創作の方向性によって、自分自身を変化させられる。思考とは、過去の思考や言動を変換したものなのだ。今日の思考や言動は明日の前例となるのだから、私たちは一つの思考ごとに、自分を創り変え、創作し直しているのである。

「自分を見つける」ことはできない。見つけるべき自己など存在しないからだ。 心には表面しかないなら、信念や動機が私たちを駆り立てることは実際にはあり得ない。なぜなら内なる信念などというものはなく、動機というのも実在ではなく投影されたものにすぎない。

個々人の心から社会全体へと目を移すと、文化というのは規範として共有された前例とみなせる。何を行い、何をし、何を言い、何を考えるのかという前例が共有されることで、個人だけではなく、社会の中に秩序が創り出される。新たな前例を敷き詰めていくことで、徐々に、集団的に、私たちは文化を創る。そして新たな前例というのは、古い共有された前例に基づいているのだから、文化のほうも私たちを創り出している。
人の「自己」というのは、集団から切り離して考えた場合は、部分的かつ断片的で、ひどくもろい。集団としては、安定し整然とした暮らしや組織や社会を構築している。

私たちがその上に建物を築くことのできる強固な基礎というのは、結局のところ存在しない。 新たな思考や価値や行動を正当化したり吟味したりできるのは、過去の前例の数々という伝統の中だけだ。私たちの生き方と社会を構築するのは、本来的に終わりのない、創造的な過程であることを意味する。何をもって自分の意思決定や行動の基準とするかということ自体も、その同じ創造的過程の一部なのだ。 人生とは自分たちで遊び、自分たちでルールを創作し、点数をつけるのも自分たちであるようなゲームなのだ。
これは、どんな立場も同じくらい正しく同じくらい疑わしいという相対主義ではない。
もし、良い生き方や良い社会がその上に築かれるべき礎がないのなら、人や社会に突きつけられる課題とは、自分自身の、あるいは個人同士の思考である。
社会では、個人は、たんに自分一人の夢を見たり、自分の特定の物語を紡ぐのではなく、個々人の物語を一つの全体としてまとまりうるものにしようと努める。

知覚の仕方が再編成されたりだとか、何かを自然と理解することが、一体どうして起こりうるのか?
①記憶の儚さだ。 記憶が失われやすいゆえに私たちは最初からやり直すはめになり、別の答えを得ることになる。古い物語を忘れ、新しい物語を創り出すのだ。
②物語の一部を変えれば、その影響は広範囲に及びうる。過去を重視しても、解釈が変化することもある。

いづれにしても、今の物語から出発して新しい物語を創るしかない。どんな物語であれ、自分自身で創作したものなのだから、改変したり、捨て去ることもできる。
私たちは、自分の心、自分の生き方、自分の文化を想像力によって創り出しているのなら、私たちは、もっとワクワクする未来を思い描き、現実にする力を持っている。









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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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