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【本要約】意識はいつ生まれるのか


2022/6/1

意識

脳は意識を生み出すが、コンピュータは意識を生み出さない。

地球の姿を見ることで、実際の大きさやその価値に気付く。モノゴトそ神秘をありのままに見て、具体的に体験し、感覚的に触れなければ、わからないことがある。「 地球が丸い 」という知識と、実際に体感するのでは、雲泥の差がある。

地球を見た人が「 人生観が変わった 」と言っても、地球を自分のこの目で見るまでは、その体験のことは、理解できない。
地球を見たら「 人はすべて、地球の民であり、人類は平等だ 」と理解できる。
地球を見たら「 私の悩みなんか、ほんのちっぽけなものだ 」と気付く。
地球を見たら「 この美しい星を大切にしなければ 」と感じる。

私たちは、寝ているとき、意識がない状態を意識的に知覚できない。同じ理由から、私たちは、死を恐れることもない。

死が訪れるとき、その死を体感できる意識はもうない。

地球にしても、意識にしても、私たちとの位置関係のせいで、本当の姿を見ることはできない。私たちは、地球や意識の中に完全に入り込んでいる。

  • 意識
    道徳的な自覚

  • 自意識
    外部からの刺激に反応できる状態

意識というのは魅力的な現象ではあるが、捉えどころがない。意識が何なのかを、定義することは不可能で、どのような働きをするのか、なぜ、発達したのかもわらない。
スチュアート・サザーランド

「 意識の科学的説明 」の名に値するものは、データや数字で証明しうるのみならず、感覚的に納得でき、腑に落ちるものでなければならない。意識を宿す物体の真の重みを理解できれば、必ずや開放感を得られる。そして、私たちという存在に、新たな価値と意義が加わる。

デカルトは「 精神と物理的な世界のあいだには断じてなんの関係もない 」と論じる。人間が自分自身を明確に「 考える主体である 」と捉えているという事実がすでに、意識が肉体という物体から完全に切り離されている、確かな証拠であるのだ。

一方で、自分自身の肉体を、空間的広がりを持つモノとして見なす考え方がある。測定可能で、物理的な説明をすることができる。

精神の特性は、意識がある状態や、思考することである。 非物質的なものであり、決して測定できない。したがって、精神と肉体は存在としては分かれていて、一体のものではありえない。

「 精神的なもの ( 思惟実体 ) と物質的なもの ( 延長実体 ) のあいだには埋めがたい溝がある 」という考え方が、二元論の肝である。

数世紀前に生まれたこの概念は、今日に至るまで広く受容されている。シンプルでわかりやすいように見えるからだ。自分自身を「 この世のほかのモノと同一視したくない 」という人間の欲求も満たしてくれる。

二元論にも矛盾や問題がある。

しかし、実際問題、存在論的には分離していることになっている精神と肉体が、どこでどのように相互作用を及ぼすのかは、未だに解明されていない。

意識は科学的に説明されていない。

今のところ、睡眠中には、意識がないことくらいしか、ハッキリしていない。 ( 夢を見ていないときである )そして、睡眠中にも、脳は休止していない。それどころか、睡眠時も、覚醒時と同じくらい活発である。

夢は、意識についての教訓を与える。意識が「 いまここで 」生まれるためには、外部世界との交渉を必要としない。意識は脳の産物である。

科学的な法則はすべて、物体の客観的な観察をもとに生みだされる。観察者の主観によるものではないと思われるデータを集める。

意識の研究となると話は別だ。

科学的に説明できるほかの事象と異なり、意識の生成過程は、自分自身と切っても切れない関係にある。意識を持つ観察者である私たちが、研究の対象と切り離せないのだ。

デカルトは『 省察 』のなかで、自らの哲学の礎として、かの有名な「 コギト・エルゴ・スム ( 我思う、ゆえに我あり ) 」を据えた。つまり、存在論 ( 存在するもの ) や認識論 ( 存在するものをどのように認識しうるか ) を差し置いて、意識を出発点としている。

われわれに意識がある、ということは確かなのだ。われわれの主観的な経験は、われわれが何よりも先に、そして最も直接的に知っているものである。

統合情報理論

統合情報理論の基本的な命題
ある身体システムは、情報を統合する能力があれば、意識がある。

意識には、2つの基本的特性がある。

・情報の豊富さ
・情報の統合

情報の定義は、不確実性を減らすことと結び付けられる。

情報量は、ある事象が起きたとき、その事象に代わって「 起こりえたのに、起こりえなかった 」ことの数が、大きければ大きいほど多いとされる。

「 情報量が豊富である 」ということ、つまり「 無限といっていいほどの可能性の中から、ある状態を見極められる 」ということは、意識の経験にとって欠かせない要素だ。ゆえに、ある物体が意識を宿すには、この要件を満たしていなければならない。

第一の公理
意識の経験は、豊富な情報量に支えられている。つまり、ある意識の経験というのは、無数の他の可能性を、独特の方法で排除した上で、成り立っている。いいかえれば、意識は、無数の可能性のレパートリーに支えられている、ということだ。

意識経験のどんな瞬間においても、顔や花瓶、青い壁、赤い壁、暗闇が見えるどの瞬間においても、われわれの脳は、何十億の何十億倍もの可能な選択肢から、ひとつを選んでいる。そしてその選択を、ひとつにまとまった単体として行う。

脳全体で偶発的な相互作用が起こり、それによって生みだされる選択肢の幅が果てしなく広い。そのとき、脳は切り分けることのできないひとつのものであり、同時に統合されたものでもある。

第二の公理
意識の経験は、統合されたものである。意識のどの状態も、単一のものとして感じられる、ということだ。ゆえに、意識の基盤も、統合された単一のものでなければならない。

第一の公理と第二の公理を組み合わせた命題
意識を生みだす基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある。

意識は、差異と統合が同時に存在する。

差異と統合が同時に成り立つのは難しい、それは、相反する性質だからだ。

実際、あるシステムの構成要素のそれぞれが専門化し、差異が生まれれば生まれるほど、相互作用が難しくなり、それゆえ統合も困難になる。一方で、要素間の相互作用が活発であればあるほど、それぞれの要素は均一的なふるまいをする。

統合情報理論の考え方では、意識が生まれるには、複雑な脳の活動が必要となる。だから、意識が発生するには時間がかかる。しかし、脳は、時間をかけずに、状況に相応しい反応ができる。その反応は、無意識である。

動物

この世界に存在するもの、例えば、動物に意識があるのかどうか、はっきりとわかっていない。動物は、言葉を話さない。私たちは普段から、話したりコミュニケーションをとったりする者に意識がある、と考える。だから、その言語が欠落している場合、判断に困る。

デカルトは 「 人間以外のすべての動物の行動は、意識の存在を前提としなくても説明できる 」と主張した。

  • 動物は自分の考えを伝えない。
    だから「 動物がどんな行動をとろうとも、その動きはただ単に機械的なものと解釈される 」という論だ。

  • 人間が機械をつくるように、自然も機械をつくる。
    それが、人間以外の動物なのだ、という考え方である。

  • 動物は、自分の行っていることの意味を知らない、機械的に動く存在で、なんの感覚も持ちえない。

行動の複雑さと脳の大きさを観察することで、意識を捉える。複雑に行動する能力と意識レベルはリンクしている。周囲の環境に応じた反応をする力は、意識レベルが低下するにつれて下がる。睡眠中である。

複雑な行動を見せる多くの動物について、行動は遺伝要因によって規定されている。その行動自体は、意識がある十分な証拠とはならない。

私たちは、人間の大脳において大部分のニューロンがだめになったら、意識が低下したり失われたりし、回復の望みがない。脳内のニューロンが死んだら、人の死、脳死と考えている。

意識と無意識のあいだに、はっきりした境界があるとは考えにくい。例えば、進化の過程で意識が突然宿るようになったとは思いがたいのだ。意識が、言葉の発生と同時に無から出現したとは考えにくいし、子どもが鏡の自分を認識できるようになったら突然意識が生まれるとも思えない。複雑性の獲得は、母親のお腹のなかにいるときから始まる長いプロセスなのだろう。

意識は情報

it from bit ( すべては情報から生まれる )
あらゆるもの ( it ):粒子やベクトル場、空間や時間の機能、意味、存在は、二択 ( bit ) の繰り返し、つまり情報から生まれる。
ジョン・ウィーラー

かくも物質的で、同時にかくも非物質的なる情報こそが、物質的なもの ( 延長実体 ) と精神的なもの ( 思惟実体 ) の溝を埋めうる。また、物質の世界からいかにして意識が生じるかも、情報によって説明できる。
デイビッド・チャーマーズ

意識体験

意識体験は他人からアクセスできず、測定することもできない。

進化と個体発生の過程が進むにつれて、また、人が人生経験を積むにつれて、脳は、周囲の環境から影響を受けながら形成される。

われわれが知っていると思っている世界は、われわれの特異な脳が見せてくれるものにすぎない。

脳と意識は一人一人のもので他人の意識は分かち合えない。

自然現象の大半は、どんなに難解な事象であっても、単純化して解釈し、説明することができる。 還元的に解釈できる。

仮に、科学的な説明によって、意識を還元できるとしよう。
例えば、意識は、こぶしひとつ分のニューロンとその構成原子の動きにすぎないものに還元されるとする。

われわれの意識も、ただの付帯現象ということになってしまう。われわれの意志や自由、選択は、ただの幻想ということになる。すべてが、因果関係によって、あらかじめ決められていることになる。

ニューロンに基づく意識の科学的仮説は特定のニューロンの活動レベルに基づこうが、特定の回路の活動レベルに基づこうが、当然の帰結として、われわれに自由な意志がないことを示してしまう。

自由意志について議論するとき、重要になるのは因果関係だ。結局のところ、われわれ自身が、われわれの行動の最初の原因となるとき、われわれは自由だといえる。

因果関係は情報と等号で結ばれる。
・情報の密度が薄まると、因果関係も弱くなる。
・情報の密度が濃ければ、因果関係も強くなる。

統合情報理論によれば、意識は、情報量が最大レベルまで高まったときに発生する。 ある脳内において、各構成要素の上部のレベルで、情報が生みだされるとしよう。その量が最大レベルまで高まれば、意識が生まれるということだ。

この情報の中核によって、われわれの選択が決まる。われわれの行動を規定するのは、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。意識が生まれるには、物理的世界に見いだせる限りの、最大量の情報が集中しなければならない。意識は、じつに多くの因果関係のうえに成り立っていることになる。


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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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