【本要約】ぼくたちの洗脳社会
2022/4/3
技術進歩
技術の進歩は社会常識を変える。
技術の進歩は、人々の価値観を変え、社会システムをも変化させる。
科学に対して「 科学や、合理主義は、私たちを幸せにする 」という価値観が崩れたから、科学は信頼を失った。
経済も、その内部に「 一生懸命働くことが、みんなの幸せにつながる 」という価値観を含んでないと、信頼を失ってしまう。
「 お金は私たちを幸福にしてくれない 」 かもしれない。
人々の価値観変化が社会変化に追いつけない。
社会変化がパラダイムシフトに追いつけない。
●進化論
歴史を振り返るとパラダイムシフトのお手本がある。
私たちは、いつのまにか、この生物学上の仮説の上に、自分たちに都合がいい社会論を乗っけている。
例えば、
・私たち自身、弱肉強食を「 仕方がない 」ではなく「 正しい 」と思っている。
・企業は「 どんな立派な商品を作っていても、経済競争に負けたら倒産は仕方がない 」と考えている。
私たちは、貧乏な人たちが、ただ単に経済援助を受けて生活していることでは満足しない。
それだけでは、何か間違っているような気がする。
「 このままじゃ、人間としてダメになる 」とか思ったりしてしまう。そこで彼らが自分自身で生活できる手段なり能力を得ると、やっと安心する。
弱いことは仕方がないことではなく、いけないことなのだ。
「 弱い者は助けられるだけではダメで、強くならなければならない 」と心に刷り込まれている。
ところが、キリスト教会が幅を利かせていた中世では、こんな考えはメジャーではなかった。恵まれない者に与えることは最も尊敬される行いだった。
また、私たちは「 最新のモノはそれだけ優れている 」と心の底で信じている。現代社会は、古代社会や中世より「 進化 」している。なんていう考え方はその典型です。「 昔の人は頭が悪く、無知だったから、変な宗教やファシズムに入れ込んだりした 」と考えている。
これらの考え、世界観はすべて「 進化論 」のあとでメジャーになったものだ。
「 進化論 」が知れわたることによって、人々の価値観・世界観が変わり ( パラダイムシフト )、それによって近代の幕が開いた。
しかし、私たちは今 「 進化論 」程度とは比較にならないほど巨大なパラダイムシフトの時代を生きている。
社会システムの変換は、人々の価値観の変化をいざない、お互いを加速し合いながら、社会を変化させる。パラダイムシフトである。
みんなが「 そうするものだ 」と考えている事柄の集大成こそが、パラダイムである。社会システムとパラダイムは、表裏一体である。
●中世の世界
中世の人々にとって、勤勉は泥棒と同義の犯罪だった。
一人がたくさん働けば、結果的に他の人の土地や資源を奪うことになるからだ。
中世の人々は、いくら働いても貧乏な可哀想な人々ではなく「 貪欲は悪 」という価値観 に生きていた。村単位・職業単位で労働時間を厳格に決め、抜け駆けの働きは、厳しく罰せられていた。中世においては「 働くべき時に働かない 」よりも「 働くべきではない時に働く 」方が、ずっと重い罪だった。
王族や貴族など、ほとんど働かない人も大勢いた。「 働かずに済む 」と言っても、余った時間で遊べるわけではない。遊ぶというのは、食べたり飲んだり、着飾ったり旅行したり、とにかく、消費を伴うからだ。そんな余裕は、中世にはない。中世は、極端な「 モノ不足・時間余り 」の時代だったのだ。「 不足するモノを節約し、有り余る時間をたくさん使う 」生き方が、中世の人々が尊敬された。
「 いかによく働いて生産性を上げたか 」ということは、マイナス評価にこそなれ、プラスに評価されることはなかった。例え、生産性を上げても、それは「 神の思し召し 」と捉えられた。
中世の文化の特色は、具体的な言葉や数字を否定して、抽象的・印象的な総合芸術へ移行した。中世の宗教は、どれも、光・音・色々など、感覚的な要素をうまく融和させたトータルメディアとして見事に設計されている。「 モノ不足・時間余り 」の中世におけるパラダイムシフトを最もよく表現している。
中世ヨーロッパはキリスト教に支配された「 暗黒の時代 」と言われている。しかしそれは、産業革命という「 引き返せない楔 」を経て、私たち現代人が中世の人たちの価値観を理解しにくくなっているからだ。その当時そこに住んでいた人にとっては「 キリスト教 」も「 暗黒 」も、そんな客観的な基準ではなかった、あるのは教会と神父だけだ。
みんな暇さえあれば祈った。時間がなくても、無理矢理時間を作って祈った。また、少しでも経済的に余裕があれば教会に寄付したり、自分より貧しい人に施しをした。余裕がない家も、少し食べるものを我慢してでも、施しをした。施しをしたために貧しくなるのは、立派なことだった。
みんなの関心事は、天国へ行けるかどうかだった。キリスト教が、ヨーロッパの人々の生活基盤であった。
18世紀、産業革命によって「 モノ余り・時間不足 」の時代がやってきた。
そもそもの契機は、キリスト教から生まれた科学の発展による成果であった。
「 そんな秩序など見つけなくてと、神様はスゴイのはわかっている。そんなことする暇があったら、真面目に祈れ 」という主流派の迫害を受けながらも、熱心に研究を続けた。
「 神様を信じ、神様の御業を見よう 」という敬虔な信者によって、メンデルの遺伝の法則・万有引力・ケプラーの法則は、発見された。
科学の成果によって、人々の生活は、徐々に変わり始める。科学や発明の力で人々は幸せになれることに気付き始める。その結果、キリスト教は、絶対的権威を保てなくなる。
キリスト教から生まれた科学が、キリスト教自身を、否定することとなった。
神様の素晴らしさを証明するためのものだったはずの科学は、あっという間に、神様に代わるヒーローになった。
身分制度が崩れ、教会の力も弱まる。
人々は、祈る時間を削って働くようになる。
人々の考え方も大きく変わる。
従来までは、悲しいことも嬉しいことも生まれや育ちも、すべて「 神様の思し召し 」という考え方だった。それが「 なぜ 」という科学的な合理的思考法に変化した。原因と結果の間に法則を見出すようになった。従来は、世の中のことに「 なぜ?」と疑問を感じたり、質問したりすることは、ネガティブなこととして捉えられていた。
合理的思考法は、科学技術の発展にめざましい効果があった。しかし、「 世の中の出来事には、すべて原因があり、観察し、思考し、実験すれば、必ず原因が特定できる 」という考え方は、科学万能主義へと傾倒した。
科学で証明できるのは、限定された世界の一部でしかないのに。
科学が生み出した合理的思考法は、民主主義や経済主義を登場させた。
民主主義も経済主義も「 人間や利益を一律に定量的に捉える 」という発想から生まれた。
民主主義は、経済の利益から生じた納税額に関わらず、一人一票である。
その一票で、自分たちの税金を使う代表を選んで政治をさせる。経済主義の定量化は、すべての「 モノ 」を円やドルというお金の単位に換算した。
「 労働はお金に換算できて交換可能である 」という考え方が広まった。
タダ働きをしている農奴という封建的身分制が崩壊することとなる。
誰もが豊かになる権利が与えられた。どんなモノでも、お金の問題として解決できる社会になった。中世の身分制度の社会を生きてきた人にとって、魅力のある価値観であった。自由経済競争社会では、自分次第で自分の人生を決めることができる。
中世において、自分とは「 神様の思し召し 」がすべてで、自分ではどうにもならないものだった。
パラダイムシフトは、自我を確立させた。自我の確立は、自由を生んだが、一方で「 自由は難しいから神様が決めた通りに生きる方がいい 」という考えの人も少なからずいた。
●近代・現代社会
今、近代社会のパラダイムはシフトしつつある。
物欲や金に惑わされるのをみっともないと感じる。
モノに関心を示さないのを立派と感じる。
精神世界を大切にし、科学よりも抽象的芸術を愛する。
中世とよく似たパラダイムを持つ新しい時代を迎えつつある。
これまでとは、根本的に次元を異にした、全く新しい政治制度と社会構造、新しい産業と資本の論理、労働と生産の概念、そして、新しい価値体系、新しい倫理と信仰が、準備されつつある。
デジタル技術によって到来するマルチメディア中世と呼ぶべき新しい世界は、双方向に開かれたデジタルネットワークの成立によって始まる世界である。その世界では、人々は、自己実現・自己表現のために、目まぐるしく動きながらも、現実の世界では、モノを消費せず、動いて資源を消費しないように努める。
産業革命によって、人々の生活とその価値観は、互いにフィードバックしながら大きく変化した。
現在の悩みを聞いてくれるのは、科学から生まれたマスメディアである。
■情報余り
情報が価値観変化を加速させていく。
情報は、科学的な分野や経済的な分野が中心ではない。もっと抽象的で、総合的な芸術の分野において、情報化が進む。ゲーム、映画のCG、ディズニーである。若者は、ミュージシャンやプログラマーや映画監督になりたがる。
■自分の捉え方
中世において、私とは、神様の思し召しで生まれてきた存在だった。
現代において、私とは、唯一無二の自分であり、何者にも替え難い大切な存在である。
一方で、私は、他人にとっては大勢の中の1人でしかないことも知っている。
だからこそ、自分らしさを大切にする。
この自己認識は、近代の特徴である「 自我の確立 」や「 人間はみんな平等である 」といった考え方を大きく反映している。
近代において初めて
「 農奴 」や「 市民 」や「 王 」といった身分に関係なく「 人間はみんな平等である 」という考え方が普及した。
同時に「 自我の確立 」=「 あるべき自分の姿 」を、持つように求められた。神様が「 こう生きろ 」と言ってくれなくなったので、自分自身で生き方を決めなければいけなくなった。
「 私はこう生きよう 」というイメージが必要になった。
みんなと同じ人間の私だからこそ、私自身で生き方を決めなくちゃいけない。
それがみんなとの違いであり、生きてきた意味である。現代では「 人間はみんな同じである 」という客観的な考え方は「 自分は他の人にとって大勢の中の一人に過ぎない。でも、いいや。」という主観的な認識に転換された。
「 あるべき自分の姿を確立する 」という現実的な考え方は「 自分らしさを大切にする 」という精神的・内面的な問題になった。
この変化は社会現象として観察される。
アマチュア活動のような非営利活動に熱心である。
活動内容は、ボランティアとは違うが、お金儲けを度外視しているところは共通である。
ドラッカーは『 非営利組織の経営 』で、このような組織が未来企業としての主流とした。活動は相手にとってなんの腹の足しにもならない。ここがボランティア活動と異なる。
現代は創作も研究も内面世界に閉じてしまう。活動の一番の動機が、自分の「 おもしろい 」という気持ちを大切にしたいからである。
自分の好きな気持ちを再確認するために作り、その気持ちに同調してくれる人の存在を確認するために売る。
お金を儲けるためでも、有名になるためでもない。
■教育
工業化社会の教育は常に「 大人になってから参加する経済競争の前哨戦 」という位置付けで捉えられていた。労働や生産という活動の重要性が小さくなってきているが、教育システムは近代のままである。
学校で教えてくれるのは科学である。現代はモノそのものに関心がいかず、科学よりも精神世界や抽象的な総合芸術に興味がいく世界である。
洗脳社会とは何か
●洗脳されている私たち
私たちは、今の世界のパラダイム、社会共通の価値観や世界観をどうやって獲得してきたのか?
案外、私たちは、今の自分の価値観を意識していない。
「 戦争はいけない 」「 環境は大事 」という価値観が、私たちの心の中にしっかり刷り込まれている。そう考えるように洗脳されている。洗脳活動を「 多くの人々の価値観をある一定方向へ導こうとする行為すべて 」として広義の意味として用いる。
私たちは、自分の意見ではなく、マスメディアの意見、判断基準に沿って生活している。
高度情報社会化の本質とは、情報の数が増えるのではなく、一つの情報に対する解釈が無限に流通する社会である。
マスメディアは「 大量の人間を効率の良く洗脳できる」という数の問題だけではない。
メディアは、洗脳のために発達してきたもので、本質的に洗脳装置である。
メディアは、意味を伝達する働きがあるが、メディアの本質は、意味の伝達ではなく、意図の強制だと捉えるべきだ。
ニュースを「 客観的事実だ 」と考えているが、事実を報道されている場合、私たちは、意図を強制されていることに気付かない。
ジャーナリズムとは、報道主義という意味である。
主義なのだから、暗黙の前提を内に含んでいる。
報道という行為は「 正しい 」という前提である。
ジャーナリズムは、一見、事件などの情報を流し「 意味を伝達しているか 」に見える。
しかし、実際は「 この事件は、みんなにとって大事なことだと思え 」という意図の強制を行っている。
その結果、ニュースを見るのが常識になった。
ジャーナリズムの必要性を洗脳された。
映画は、ストーリーを見ているつもりが、いつのまにか、ライフスタイル・価値観を刷り込まれている。独裁者たちが必ず映画好きなのも、そこに起因する。映画はプロパガンダとなる。
●洗脳解放
自由経済競争の原理とは、みんなが自分の利益ばかり考えたら、結果的に社会は安定する。近代の経済成長は、自由経済競争の原理の上に成り立っている。これは近代独特の考え方である。
中世では、自分の利益を追求するなんて罰当たりなことが、正しい、社会のためになるなんて、誰も思い付かなかった。貧しい人に施しを与えることの方が、立派だった。それどころか、働かず貧しく清らかな生活をしている人の方が、現世の欲に溺れている人より、ずっと尊敬に値すると考えられていた。
自然界においては、弱いものは早く死に、強いものが長生きし、たくさんの子孫を残す。これが結果的に、その種族全体を存続し繁栄させることにつながる。それと同様に、人間社会も、自然淘汰してこそ社会が正常に発達する。「 常に新しい強いものが社会のピラミッドを登れる世界が良い社会だ 」と考えられるようになった。
メディアの力が、権力者の特権「 洗脳 」が、市民に開放された。
洗脳社会
★「 洗脳社会 」「 自由洗脳競争 」の定義
マルチメディアの発達によって、歴史上初めて、すべての人々が被洗脳者から洗脳者になるチャンスを与えられるようになる。
それによって自由洗脳競争が始まる。
人々のニーズをつかみ、最も効率よくそれを生産して販売することによって、多くの富を得られるのが、自由経済競争社会である。
それに対し、人々の不安や不満をつかみ、最も効率よくそれを解消する方法を提案することによって、多くの尊敬と賞賛を得られるのが、自由洗脳競争社会である。
得られる利益は経済利潤ではなく、洗脳利潤、つまりイメージである。
人々が求める価値観や世界観は一定ではなく、常に社会の変化と共に移ろう。
人々の不安や不満を解消するためには、単一の価値観やパラダイムでは不十分である。
みんなテレビを見て社会から遅れないように、また、はみ出さないように気を使っていたのが、自分なりの世界観で、世の中を動かそうとシノギを削る社会になる。
これからの社会では、品質の高いより良いものを提供する経済活動は、どんどん縮小され軽視されるようになる。同時に、イメージの差が大きく影響する。プラスのイメージが資産になるのが洗脳社会である。
巨大な資本で人やモノをお金で買収する代わりに、強力な洗脳力で人やモノを動かす。お金よりもイメージ、洗脳力によって物事が動いていく。
経済資本に対して、幻想資本 ( イメージキャピタル ) と呼ぶことにする。
これからの会社は幻想資本が力を発揮する。企業がお金を投資して、より多くのお金を獲得するように、洗脳企業はイメージキャピタルを、投資して、より多くの、より良質のイメージを獲得する。
価値観を選択する社会
●考える
現代人は「 考える 」という重い病気に罹っている。
その「 考える 」という病気の中でも、最悪のものが「 私とは何だろう?」という答えのない悩みである。
●近代的自我
私たちの世界でも、他人の言うことに影響されたり、自分で物事を決められなかったりする人々は、「 自我が確立していない 」と見なされる。自我とは、他人からの拝借ではない価値観をハッキリ持っていることだ。
民主主義とは、自分の利益が何か、自分自身が一番知っている。
だから、自分の利益の代表を一人選んで投票することができるが前提である。資本主義や自由主義も、みんなが自分の利益が何かをちゃんと分かっていて、それに向かって邁進することを前提としている。
自分のやりたいことが、はっきりわかっている、自分の価値観が確立している。
近代社会が「 一人一人の自我の確立を前提にしている 」という意味である。
近代的自我が「 考える 」という重い病気の病原菌を担う。
●近代的自我の喪失
価値観が溢れている社会では自我の確立を試みると大変なことになる。
自分がどうあるべきか決めなくちゃいけない。
自分の意見を持たなきゃいけない。
袋小路に迷い込んでしまう。
「 自分の意見を持たなければならない 」という考え方から解放されさえしたら、悩みはなくなる。
悩みは「 自分らしさ 」という幻想に囚われることから、生まれている。
様々な価値観が溢れる中で、自分の状況や気分によって、いくつかの価値観を選択すること、そうすることで、自分の中に新しい人格をつくって、いくつかの人格を使い分けて楽しむ。
近代的自我の喪失によって、自分独自の意見・見解は持てなくなる。
好みはあるが、信念はなくなる。
●新しい社会
近代人の行動力の源泉は、ハングリー精神である「 もっと金持ちになりたい 」という、欲が大切であった。
これからの自由洗脳社会での行動力の源泉は、自分の気持ち、わがままである。
いかにして「 合法的に欲しいモノを手に入れるか 」と同様、いかにして「 社会の中で平和にわがままを通すか 」が勝負とも言える。そのためには「 自分のわがままを通す代わりに、他人のわがままを認める 」という姿勢が必要になる。
自分の意見・自分の価値観を全部自分でつくり出すことは、情報があふれた社会では不可能である。モノがあふれた現代で、衣食住すべてに関して自分でまかなうことが不可能であることと同じだ。
「 大切にしたい 」と考えている自分の気持ちは、喜怒哀楽の総体である。自分の気持ちの奥には、すべての人間の行動原理となる不安が隠されている。孤独感・疎外感・劣等感である。
近代人が、肉体の求める食欲と関係なく、自分の好みで朝昼晩の食事を決めるように、洗脳社会の人々は、毎日の生活を、自分の気持ち、不安を満たすために、彩る。
かつての自由を取り戻す為に農業を捨てて飢えに怯える生き方に戻ることはできない。
安定を取り戻すために、豊かさを捨てて、祈るだけの毎日に戻ることはできない。
農業時代の人は、狩猟自体を振り返って、いつ餓死するかもわからない、野蛮な世界と語った。
産業時代の人は、農業時代を振り返って、身分制度に囚われ、貧乏生活を強いられた暗黒の中世と恐れた。
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