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【本要約】ただしい人類滅亡計画反出生主義をめぐる物語
2022/4/18
「 使命を負っている 」「 定めがある 」「 道理である 」という考えは「 僕 ( しもべ ) である 」ということだ。
幸福とスープ
幸福と不幸は言葉としては対称にみえるが、不幸と同じ量の幸福をプラスすれば、チャラになるという問題でもない。
幸福と不幸は、スープとハエの関係である。
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レストランで出てきた前菜のスープを飲んでいたら、ハエが浮いているのに気がついた。
そのときどう思う?
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「 スープはうまいから、ハエが入ってもチャラだ 」とは考えないだろう。
「 ハエが入っちゃったから、うまい具材を追加してバランスをとろう 」なんて奴がいたらバカだ。
「 ハエがいることそのものが、スープのうまさを台無しにしてしまう 」からだ。
この場合の解決法は、スープからハエを取り除くことだけだ。
幸福と不幸は対称じゃない。
だから、幸福と不幸がごった煮になっているこの世界は「 ハエがたくさん浮いている1杯のスープ 」みたいなものだ。
ハエが浮いている ( 不幸が存在する ) という理由で、
スープごと捨てる ( = 人類を滅ぼす ) のは、理にかなっている。「 スープ自体はうまい ( 幸福が存在する ) から 」という理由で、
ハエ入りスープを飲み続ける ( = 人類を存続させる ) のは、理にかなっていない。
人類全体の幸福と不幸の比喩を悪用した詭弁だ。ある不幸 ( ハエ ) が、すべての幸福 ( スープ ) に影響するかのような錯覚を与えている。人類という一人の個人がいるわけではない。
「 他人の飢えも悲しみも、しょせん他人のもの 」なんだから、この比喩は不適切だ。
より正確に例え直すなら、
世界中の人に、一人1杯ずつスープが配られる。スープの内容はランダムで、おいしいスープを飲める人もいれば、ハエが大量に浮いているスープを渡される人もいる。
こういう状況で、人類滅亡派は「 ハエが浮いたスープを飲まないといけない人もいるんだから、全員がスープを捨てるべきだ 」と言っていることになる。
悲観論 VS 楽観論の対称性が疑わしい
「 世界に不幸がある 」という事実は「 世界に幸福がある 」という事実よりも重い。
それだけで両者を「 おあいこ 」にすることは、できない。
幸福と不幸は対称ではない。ハエの浮かんだスープが、スープ全体を台無しにしてしまうように、不幸の存在が幸福を損なう事もある。
反出生主義
反出生主義
人間は生まれない方がいいとする思想虚無主義
すべての価値観の価値を認めない思想
「 だから何?」を繰り返すような考え
虚無主義者は、前提となっている価値観を根こそぎ否定することで、議論を非建設的にする。
反出生主義 ≠ 虚無主義
反出生主義は、価値を否定しているわけじゃない。
幸福の実現と不幸の回避は、生き物としての根源的な欲求だけど、その実現を他人のために対して行うのが道徳である。
未来は、単なる「 無 」である。
生まれなかった子どもから失われるものはない。
子どもはそもそも存在していない。
意味の違う「 非存在 」を混同している。
・これまで存在していたものがなくなる「 喪失としての非存在 」
・初めから存在しない「 想像上の非存在 」
反出生主義の立場
・人類の不在は、不幸ではなく、これから実現するかもしれない不幸が回避できる ( 想像上の非存在 )。
・人類の滅亡は「 喪失としての非存在 」となる。
「 出生 = 意識あるものがこの世に存在を始める 」ことは、他の事象に例えられない、特別な現象である。
人権国家といわれる国で「 出産が法的に義務付けられている国 」は存在しない。
国家は体制を維持するために人口を増やそうとするが、人権を保証する国家である限り、個人に生殖を義務付けられない。
国家は個人の幸福を実現するための装置として構築されている。個人の尊重を無視して子どもを生ませる国なら、滅亡した方がいい。
少なくとも100年後に人類は当然生きているだろうと考えている。人々にとって、人類の存続はあらかじめ 未来に書き込まれた歴史 である。
野良猫の不妊化
世界には野良猫の保護活動をしている団体が存在する。すべての猫に里親が見つかるわけではない。そこで、ある地域では「TNR活動」を行っている。
Trap ( 捕獲 )
Neuter ( 不妊・去勢手術 )
Return ( 元の場所に戻す )
野良猫を捕まえて不妊去勢手術を施し、そのあとは元の場所に戻す。
手術を受けた猫は、これ以上子どもを増やすことはない。
野良猫が子どもを増やせなくなれば、猫が減る、不幸になるかもしれない野良猫の数も減る。
猫嫌いの人にとっては、猫が減ることはよいことで、
猫好きの人にとっては、不幸になるかもしれない野良猫が減ることはよいことである。猫嫌いも猫好きも「 野良猫はいないほうがいい 」という点で価値観が一致しているから、不妊にする。
野良猫の保護の場合は、条件付きの反出生主義に過ぎない。
その条件とは、( 不幸な生涯を歩むくらいなら ) 生まれてこない方がいい。
知能が発達しているほど、その生き物が感じ取れる苦痛も大きくなる。
反出生主義は「 条件で決める 」という恣意的な思想ではない。
出生前診断は、不幸になるかもしれない個体の出現を制限し、より幸福になりそうな個体の出現への願望である。「 かわいそう 」を動力源にして駆動する新たな優生思想と捉えられる。
バイク
リスクのある賭けをする生き物が人間である。
バイクに乗る人生、バイクに乗らない人生、比べてみたら、バイクに乗る人生の方がよりリスクの多い選択をしている。
それでも「 バイクに乗るべきだった 」と思う。
だって、もう風を切りながら走る感覚を知ってしまったから。
その幸福感がない人生は考えられない。
何もやっていないうちには、本来、その価値観を判断できない。
人生の選択の価値は、選ぶたびに、作り変えられるものだ。
幸福にしろ、不幸にしろ、実際にやってみることで、初めて身に付く価値観がある。そんな自己変革を繰り返した結果に今の自分がいる。だから「 自然に選択肢を吟味して、より幸福 ( 不幸の回避 ) が期待できそうな方を選ぶべきだ 」という考えは視野が狭い。
新たに何かをすることそれ自体に「 価値を生み出す " 価値 " 」がある。
人生って、やってみなければわからないことだらけだ。だけど、膨大な選択肢からひとつを選ぶには「 やってみなくてもわかる気がする 」という、" 現時点 " の価値観に基づく判断が必要になる。
リスクのある賭けに勝って「 バイクに乗る喜び 」という新しい幸福を手に入れたが「 バイクに乗ったら楽しそう 」という価値観なしに、バイクに乗ることはない。
教訓は、未知に挑戦し変革することではなく、現状を分析し期待値の高そうな方を選択する。
「 価値観が変わる 」としても「 どう変わるか 」が予測できないなら、その時々の価値観で、損得勘定をして選択するしかない。
出生
自分がどう生きようと、それは、何かしらの行為を伴う。他人に苦痛を与えることは可能な限り避けるべきだが、場合によってはそういうリスクを伴う行為も許容される。
それがいいことだと思うのであれば、人に迷惑をかけてもいい。
嫌がる子どもを無理矢理学校に行かせる親は、必ずしも、悪いことではない。
子どもは「 無理矢理学校に行かされて迷惑に思う」が、長い目で見たら「 社会的にいいだろう 」という判断である。
出生は、人生の内部の出来事ではない。
生まれてこない人生など存在しない。
「 子どもを生まない人生 」は人生の中で起こる出来事だが
「 親から生まれてこない人生 」は人生の中で起きる出来事じゃない。
出産とは、子どもの人生のレールを分岐させる出来事ではなく、
レール自体を生じさせる出来事であり、その点で、特別な行為である。
出生は無から有を実在を生み出す。
善悪が相対的なものである以上、この世界で絶対的な悪を行うことは、不可能なのだ。
善悪の内容は時代や地域によって変化するから、その判断基準も変化する。しかし、善悪の内容がどうであれ、生きている主体が存在しない限りは、善悪も生じない。
相対化するためには実在が必要であり、実在を生み出す行為が、出生である。
一方で、出生によって不幸な思いをする人が増えるリスクは確かにあるだろう。しかし、子どもが幸せになれる見込みが高いなら生むべきだ。その方が、世界全体の幸福量が増える。社会は、なるべく多くの人が幸福になれるように設計するべきで、社会の構成要員は、幸福という目的に合うように行動する。
・子どもを生むべきではない。
・生まれてこない方がよかった。
両者は同一ではない。
「 子どもを生むべきではない 」としても「 自分自身が生まれてこなかった方がいい 」とは言い切れない。
善悪
善悪は対称ではない。
モラルとか道徳とかマナーという言葉で、規則を表現している。私たちは普段いろんな規則を守ったり守らなかったりして生きている。
道徳な規則を3つに分ける。
1
義務:やらなければいけないこと
納税:やることが善ではない
2
禁忌:やってはいけないこと
窃盗:やらないことが善ではない
3
慈善:必ずしもやる必要はないが、やったこと自体は賛美されるようなこと
寄付:やらないことは悪ではないが、やることは善である
現実には、やって当たり前の義務でさえ、完全に果たせるような人は少ない。だから、実際は、社会は「 ほどほどにルールを破っても構わない 」という風に成り立っている。その観点からすると、ただただ義務を果たし続けるような人は「 すべての義務を地道に守る 」という「 守らなくていい義務 」を守っている。だから、その人は、慈善を果たしている。
私たちは、みんなの幸福の実現を義務として課されているのではなく「 みんなを不幸にしない 」という義務を負っている。他人に苦痛を与えることを回避する義務を負っている。
苦痛と幸福の構造
・苦痛は、万人に共通の要素である。
空腹・怪我・病気・ストレス・孤独。
何かが欠落していれば、苦痛となる。
・幸福は、万人に共通の概念ではない。
苦痛を取り除いただけで、幸福になるとは限らない。
幸福とは、欲求が満たされたとき、一時的に感じられる精神状態であり、
苦痛とは根本的に異なる。
反出生主義の疑問と回答
子ども作ることは人間の本能では?
本能的であることは、その行為を正当化しない。
人間は本能をコントロールすることで倫理を確立した。子どもを作ることは自由では?
殺人をする自由がないように、生殖する自由もない。
子どもが生まれてこなければ人類が滅亡してしまう!
人類は滅亡することなく続いてきたが「 これまで続いてきた 」ということは「 これからも続けていくべきだ 」という結論を導かない。
反出生主義
自殺は関係ない。
反出生主義が否定するのは、この世界に生まれてくることであって、生まれた後に生き続けることではない。「 世界に不幸が多いから生まれない方がいい 」ということではない。
「 世界に生まれることが不幸を生み出しうる 」という点が問題である。
道徳のルールの多くが、押し付けなければ意味がない。
暴力反対として、自分が暴力を奮わなくても、社会が暴力を否認しなければ、道徳たり得ない。
虚無主義でないのは、世界に価値を見出し、価値判断に基づいて、出生を否定している。
反出生主義は、扱う不幸の内容までは規定しないし、規定しなくても、主張そのものは成り立つ。ある主体と無を比較している。存在しないものは比較できない。
価値判断の主体そのものが存在しない世界の価値は「 判断できる 」とは限らない。
個人尊重
国家、社会、宗教、コミュニティ、、、様々な価値観が存在する中で「 現在、たまたま、力を持っている価値観を常識だ 」と決め付けている。
宗教や思想には、本質的に分かり合えない断絶がある。
「 すべての人が、個人個人で考え、言葉を発し、行動する主体性である 」というものの見方は、意識的に作り出された思想である。
個人が顧みられて尊重される時代は、ごくごく最近だけである。
近代ヨーロッパは、人々が信じてきたキリスト教の神秘性がはぎ取られて説得力を失い道徳的根拠を宗教に求めることが難しくなってきた時代でもある。「 どう生きるべきか 」という目的がなくなったとき、代わりに個人なるものが、人類共通の思想と力を持っていった。
世界人権宣言
すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、互いに同胞の精神を持って行動しなければならない。
国際連合 ( 1948年 )
あなたが自由であることを、みんなが認めている。あなたも、他の人が自由でいられるように努めなければならない。世界人権宣言は、個人の概念の象徴である。
個人の自由は、宗教とは関係ない道徳である。
個人尊重の価値観は、宗教や国家の枠を超えた多くの人々の間で内面化できる。
真理
・三平方の定理は発見
・蓄音機は発明
新しい真理が発見されたとき「 これまで真理と信じていたものは " 正しくなかった" 」のではなく、「 " 正しい " と勘違いしていた 」ことになる。
新しい真理は「 最初からそうだったという概念 」になる。
新しい真理は、発明ではなく、発見される概念である。
後悔とは「 " 次は " こんな風にしないぞ 」っていう未来への決意を、少し洒落た言い回しで表現しているに過ぎない。
善悪は発明されるものではなく「 発見される 」という性質がある。
自由の概念
自由の捉え方
未来は何が起こるか全くわからない。だからこそ「 自由だ 」と考える人と「 不自由だ 」と考える人がいる。
これからの行動について、人は自分の意志で自由に選ぶことができる。しかし「 行動の結果が何をもたらすか 」という点において全くの未知で、どこまでも不自由である。「 自由に選ぶ 」という表現は実はまやかしである。
今、何を考え、どんな行動をしようと、未来は、等しく未知の結果をよこしてくる。
過去は、自分の解釈次第でどのようにも捉えられる点で、自由がある。
一種の人間には、自らの存在自体が苦しみである。望んでもいないのに、いつのまにか、世界の中に投げ出され、生きることを強制される理不尽さ。未来に何が起こるかわからない不安。そこが「 生まれてこなければ 」という思想の原点である。
世界のはじまり
宇宙の創造
自分自身が生まれることも、一種の世界のはじまりである。
道徳
道徳は、個々人の利己心を互いに了解した上で、それぞれの利益が最大化するような仕組みを考える過程で生まれたもののはずだ。だから、どんなに道徳的な仕組みが発達しても、結局は、自分にとって損か得かがゴールになっている。私たちは、自分にとって得であれば道徳に反した行動を取れる。
善人とは、言ってしまえば「 ルールを破れば得する状況でも、ルールをしっかり守ること 」自体が気持ちいい人のことである。
善人とは「 ルール順守の行為自体が気持ちいい 」という精神構造を持っている。
子ども向けの道徳教育とは、道徳的行為を「 気持ちよがる 」精神構造を植え付けることが目的である。
子どもはルールを教わることで
「 ルールを守ること 」( 目的 ) を学ぶんじゃなくて
「 ルールの守り方 」( 手段 )を学んでいる。子どもは教育によって、道徳を刷り込まれる存在である。
道徳の運用とは、実際に守っているのは「 道徳 」そのものではなくて「 道徳の守り方 」である。
歴史を見ればわかるように、人の価値観というものは、常に移り変わる。
「 真実だ 」と思われた考え方が、時代・場所・状況・境遇・思想を変えれば、全くの間違いになるうる。
有史以来の人類は、ある意味では、無知と欠乏に支えられて発展してきた。未知の領域を埋めるため、様々な神話・物語・思想をよりどころとして、社会が運用されてきた。
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