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【本要約】ビジネスの未来


2022/2/3

ビジネスの使命

ビジネスは、その歴史的使命をすでに終えているのではないか?
答えは「 イエス 」
ビジネスは、その歴史的使命を終えつつある。

「 経済と技術の力によって、物質的貧困を社会から失くす 」というミッションが終了した。

古代以来、私たち人類は常に「 生存を脅かされることのない物資的社会基盤の整備 」という宿題を抱えていた。現在は、その念願が達成された。

21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「 経済成長 」というゲームに延命措置を施すことではない。この世界を「 安全で便利で快適な世界 」から「 真に豊かで生きるに値する社会 」へと変性させていくことだ。

この転換を乗り越えるための3つのポイント

① 終焉の受容

転機をうまく乗り切れずに苦しんでいるのは、過去を終わらせていないからだ。
転機というのは何かが始まる時期ではなく、何かが終わる時期である。

② 現在の状況をポジティブに受容

低成長は文明化の終了の合図である。
・文明化が終了してしまえば、文明化の推進を担っていたビジネスが停滞するのは当然である。コレを「 文明化の完成 = ゴール 」として捉える。
・「 低成長 」という言葉を用いて社会を表現するとき、そこには、社会には「 高成長 」と「 低成長 」しかないという前提が盛り込まれている。それならば「 高成長 」となる。例えば「 未熟者 」と「 成熟 」ならばどうか?「 成熟 」となる。「 成熟 = 低成長 」であり「 未熟 = 高成長 」となる。
・私たちのモノゴトに対する評価は、用いる二項対立の枠組みによって定められる。
・成長率は、社会の状態を表す指標ではなく、変化率を表す指標だ。量的状態に関する変化率で捉えているに過ぎない。

③ 新しいゲームのはじまり

現在の社会は「 物的不満の解消 」についてはゲームを終了した状態であるが、「 生きがい 」や「 やりがい 」といった「 意味的価値の喪失 」といった問題を抱えている。

仕組みのハック

制度疲労が指摘されている資本主義への対処としては、資本主義・市場原理の仕組みをハックすることで、乗っ取る。

経済合理性にハックされた思考・行動様式を「 喜怒哀楽に基づく衝動 」によって再びハック仕返すことで、経済合理性だけに頼っていては解けない問題の解決、実現できない構想の実現を図る。

その際「 未来のために今を犠牲にする 」という手段主義的な思考・行動様式から「 永遠に循環する『 いま 』を豊かに生きる 」という自己充足的な思考・行動様式への転換が必要である。

ハッカーたれ

この世界には2種類の人間がいる。

・一人は、この世界を「 何かおかしい 」「 何か理不尽だ 」と感じ、「 それを変えたい 」と思っている人。
・もう一人が、この世界を「 そういうものだろう 」「 仕方ない 」と受け入れ、「 その中でうまく立ちまわっていきたい 」と思っている人。

資本主義のハッカーを目指す
社会システムを外側からハンマーで壊すのではなく、静かにシステム内部に侵入しながらシステムそのものの振る舞いをやがて変えてしまうような働きをする革命家である。

不可逆な世界

世界はもう元の通りにはならない、現在は不可逆な変化の最中である。

例えば、世界中で、否応なく在宅勤務を強いられた人々の多くが、再び「 毎日オフィスに向かう 」という、誰もが「 当たり前だ 」と考え、疑うことなく実行していたライフスタイルを回復させることに、非常にネガティブな反応を示している。これは、私たちが「 当たり前だ 」と考え、疑うことなく実行していた習慣や行動には「 実は何の必然性も合理性もなかったのだ 」ということを示すわかりやすい例の一つである。

もし「 これまでの私たちの常識や習慣に、何の必然性も合理性もなかったのだ 」とすれば、そのような常識や習慣が充満していた日常を回復することには何の価値もない。そして、すでに多くの人は、この恐ろしい事実に気づいてしまっている。このような状態に至った世界を、単に「 元に戻す 」ことはもうできない。

GDP

物的不満は解決され、その必然的結果として、消費の非物質化という変化が起きている。

経済成長と所得上昇が何よりも優先された「 近代社会 」から、生活の質や幸福実感がより優先される「 ポスト近代社会 」へとシフトしている。私たちは、文明社会が終了した時代を生きている。

一方で、物質的欲求に関する不満の解消は、そのまま、市場における需要の縮小を意味するから、ビジネスは不調となる。現在の社会システムは、無限の成長を前提に構築されているので、物質的需要が伸長しない社会は、矛盾が生じる。

無限の成長を求めるビジネスというゲームには、本質的な破綻、ゲーム終了時に爆発する時限爆弾が内蔵されている。

「 物的不満が解決された 」にも関わらず、それがまだ終わってないかのように、延命措置を行なっているのが、マーケティングである。

ここに、終焉の受容の問題が潜んでいる。

物的不満がなく、物的欲求が満たされた社会では「 物的豊かさを提供する 」というビジネスは、意味を喪失しつつある。

GDPは非物質的な無形資産を計量していない。経済が非物質的な価値を生み出すことに大きくシフトしている現在「 GDPに非物質的な産出を参入すれば結果は異なるはずだ 」という主張がある。

一方で、GDPには、政治的恣意性が含まれるので、そもそも実態はない。

GDPは、世界恐慌時に「 アメリカはどれくらい多くのモノを作ることができるのか 」という測りたい問題が先にあって、測るための指標が後に導入された。

昨今のGDPに関する議論は「 指標が先、問題が後 」になっている。「 測れるモノを測って、そこで出てきた問題を叩く 」という思考プロセスになっている。そもそも、問題とは「 ありたい姿 」と「 現状の姿 」とのギャップとして定義されるモノだ。ありたい姿もなく、問題の定義も曖昧なままでは、議論のしようがない。

物質的不足という問題を抱えていた時代には「 どれだけモノを作り出したのか?」を測るGDPという指標は意味があった。GDPという指標の賞味期限は過ぎている。

トマピケティの21世紀の資本では「 私たちが未来に対して持つ成長のイメージは幻想に過ぎない 」と主張している。

成長神話は一種の宗教で、無限の成長は非科学的なファンタジーかもしれない。

「 人は信念を否定する事実を目にしたとき、信念を改めるのではなく、事実の解釈を変えようとする 」という認知的不協和がないとは言い切れない。

資本主義の制度疲労

第二次世界大戦後から続くシステムは、持続性が乏しく、時代遅れである、世界の社会経済システムを再構築しなければならない。

ここで、第二次世界大戦後から続くシステムとは、無限の成長を前提とするシステムである。

資本主義という表現はもはや適切ではない。資本主義というのは「 資本は無限に増殖する 」ということを前提としている。資本が過剰になり増殖できなくなった以上は、資本の意味は薄れた。それは、金利が証左である。

利子とは、信用または資本の価格として支払われるものである。
利子とは、資本の価格なので、利子がほぼ0ということは、「 資本の価値がなくなった 」ということだ。

私たちの社会システムは「 時間によって資本の価値が増殖する 」ということを前提にして構築されている。

・「 未来における資本の価格が利子になる 」ということは「 利子と時間が不可分の関係である 」ということが前提となる。
・「 時間によって利子が生まれる 」ということは「 利子 = 資本の価値が0 」になると「 時間の価値も0になる 」ということだ。

実社会に照らし合わせると、時間に価値がなくなったから、金利の価値が下がっている。

時間が持つ無限成長は、神話なのかもしれない。

時間の価値の喪失という状況は、私たちが人類史的な転換点に差し掛かっていることを示している。人類史に登場したイデオロギーには「 より良い未来のために、今を手段化する 」という考え方が含まれる。

① 私たちが判断の拠り所としている多くの道徳や規範は「 未来のために今を手段化する 」という思考様式を前提としている。
② この思考様式は「 未来の完成に向けて歴史が進歩していく 」「 明日は今日よりきっと良くなる 」という確信があって初めて合理化される。
③ 時間の価値がなくなってしまえば、このような規範や価値観は瓦解してしまう。
④ 進歩の歴史が終焉し時間が無価値になった現代では「 未来の実現のために現在を手段化せよ 」という社会的な規範や価値観に対して「 人々が虚無感を覚える 」のは、当然である。

経済性に根ざして動く社会から人間性に根ざして動く社会へと転換させる。

【 経済性から人間性のための3つの脱却 】
文明主義
文明のために自然を奇跡にしても仕方ない
未来主義
未来のためにいまを犠牲にしても仕方ない
成長主義
成長のために人間性を犠牲にしても仕方ない

イノベーションとマーケティングの限界
① イノベーションによって経済成長の限界は打破できる
② マーケティングによって需要の飽和は延期できる
という主張に対しての反論

「① イノベーションによって経済成長の限界は打破できる」への反論

ここ30年の間に私たちの生活を劇的に変化させたインターネット関連のイノベーションですら、経済成長の限界を突破できていない。インターネット・スマホ・人工知能の普及が進んだにも関わらずGDP成長率は低下トレンドである。

イノベーションは「 本質的な意味で新しい市場を生み出しておらず、既存の市場の内部でお金を移転させている 」に過ぎない。

既存の儲かっている市場にイノベーションを導入することで、ごく一部の人がさらに儲かる市場に変えただけだ。社会が抱える問題を解決するどころか、格差の拡大という社会問題を生み出している。

資本主義の社会では金銭的報酬こそがモチベーションの源泉である。しかし、現在の世界に残存する希少だが解決の難しい問題は「 経済合理性とは別のモチベーションを発動する 」ことによってしか解決できない、それは、人間性に根ざした衝動である。衝動とは「 そうせずにはいられない 」という強い気持ちである。

経済合理性によって、経済活動が駆動されているのではない
ケインズ
「 経済合理性だけを追求して、人間性に根ざした衝動を失うことで、資本主義は滅びるだろう 」
シュンペーター
ハンナアーレント著『 人間の条件 』
【 働くことの種類 】
・労働
 生存するための食糧や日用品を得る
・仕事
 快適に生きるためのインフラをつくる
・活動
 健全な社会の建設・運営に携わる

私たちの社会は、労働と仕事から解放されつつある。私たちの役割は活動であり、活動は「 できれば避けたい、辛く苦しい労役 」ではなく、活動自体が大きな楽しみになる、スポーツやレクリエーションに近いモノである。

知識・技能・創造性を存分に発揮できる活動自体が、一種の商品のように、労働市場で取引される社会となる。楽しい仕事が一種の商品となって買われる。

資本主義の行き着く先として、労働が愉悦になって回収される社会をマルクスは予言していた。

資本主義によって文明化が一定の水準に達した社会においては、もはや、労働は苦役ではなくなる。それぞれの個人が自由意志に基づいて「 労働 = 活動 」が自発的に行われるようになり、理想的な社会を作り出す。

マルクスは、労働による人間生活の疎外を論じているが、労働とは「 本来、食うために働く以上の豊かな意義を持った、人間にとって本質的な営みである 」と考えていた。

「②マーケティングによって需要の飽和は延期できる」への反論

物質的欲求の不満が解消されたのは、人類全体にとって喜ばしい事態であるが、別の事態を引き起こす。ビジネスとは、問題の発見と問題の解消の組合せによって成立するから、問題がなくなってしまうと、問題の解消をしていた人の仕事がなくなる。

そこで、「 人為的に問題を生み出せないか? 」というアイデアが生まれる。

満足している人に対して「 まだこれが足りないと豊かではない 」と欠乏の感覚を持たせることができれば、新たな問題を生み出すことができる。これが、マーケティングの本質である。

マーケティングによって、ゲーム終了を延期する。

企業の目的は1つしかない、顧客の創造である。
それは、マーケティングとイノベーションの2つの活動によって支えられる。
ドラッカー
・問題の開発 = マーケティング
・問題の解消 = イノベーション
と捉えることができる。

コトラーのマーケティングの著書が出版されたのは、1967年であり、経済や人口の成長率が鈍化し始めたのは、同時期であった。

人為的に社会の欲求を生み出す技術であるマーケティングが、ビジネスの延命措置として、産業社会から求められた。

大規模な災害や戦争の後には、GDPが増大する。大きな破壊を埋め合わせるための大規模な生産が発生する。

経済成長は、その前提として、破壊という営みを必要としている。

破壊を別の言葉で置き換えて、促進させることで、経済を活性化させようとした。

破壊の別の言葉が「 消費 」である。

「 消費 」と呼ばれる破壊を促進するための知識で技術の体系がマーケティングである。

絶えず新しい欲望を刺激し続けるしかない。実際に、この不道徳な方法を実践しなければ、不況を延期できない。

一方で、必要最低限のモノさえあればいいのか?それだと、人生は味気なくはないか?

過剰・贅沢ことが、経済を動かす。
ある人の支出は、ある人の収入である。

ゾンバルト著『 恋愛と贅沢と資本主義 』
資本主義という経済システムを生み出し牽引したのは贅沢であり、その贅沢を推進したのが恋愛である。

近代以降の身分制が曖昧になった社会において、社会的な優劣・上下の関係を可視化するために、見栄の消費活動が求められるようになった。人々は、他者に優越するために経済的な力を獲得しようと努力し、そして、獲得した経済的な力を誇示するために、様々な消費活動をする。

・ニーズには他人に関係なく必要な絶対的なニーズと他人に優越するために必要な相対的ニーズの2つがある。
・絶対的ニーズは近い将来解決するが、相対的ニーズは限りがない。
ケインズ

現代においては、絶対的ニーズは満たされた。経済を駆動するのは、限りがない相対的ニーズ = 見栄でしかない。これは資本主義と相性がいい。

絶対的ニーズと、相対的ニーズ以外にも、消費活動がある。消費活動それ自体が、主体的にもたらす愉悦が効用となって、その時点で回収される消費活動である。生活必需品でもなく、見栄のためのブランド品でもなく「 ただ、( 見返りなく) 誰かのために何かをあげたい 」という消費である。その消費は、形をなすモノではなく、ただ、友人と酒を呑む時間のための居酒屋の飲食代であり、家族と旅行へ行くための旅費である。そのような消費自体に、意義がある消費活動があって、それが、人間性に根ざした衝動である。

私たちの経済活動を「 未来のために今を手段化するモノ 」から「 今この瞬間の愉悦と充実を追求して生きること 」へと転換する。

遊びと労働

社会を変化させるときのアプローチ
・自分の外側にあるシステムを変える
・システムの内部にある自分を変える

システムに対する姿勢
・システムを無批判に受け入れる姿勢
・問題の起因をすべてシステムに帰着させる姿勢
・システムを他のものに代替すれば問題は解決するという姿勢

現在、私たちが直面している状況を、システムの問題として処理することはできない。

「 システムが主で、人間が従 」という枠組みが世界観の基底となっている。

「 システムをどのように変えるのか 」という問題ではなく「 私たち自身の思考や行動様式をどのように変えるのか 」という問題である。

歴史において、人間 ( 諸階級 ) は認知を求めて互いに戦い、また労働によって自然と戦っている。
ヘーゲル ( 1770-1831 )
貴族は人々の認知を求めて戦い、農民は農業で自然と戦う。

イノベーションを起こそうとして起こした人はいない。彼らは、イノベーションを起こそうというモチベーションによって、仕事に取り組んだのではなく、「 これを実現したい 」という衝動に駆られて、仕事に取り組んだ。

イノベーターたちは「 こうすれば儲かる 」といった経済合理性だけではなく「 これをやらずには生きられない 」という強い衝動にによって、イノベーションを実現している。

本来は主であるはずの人間性に根ざした衝動が、本来は従であるはずの合理性を検証するスキルにハックされ、主従関係が逆転してしまっている。「 衝動という主人が、スキルという家来を使いこなすことで人類は進化してきたが、スキルが主人となって衝動を圧殺する状態になってしまっている 」というのが、今の経済システムの問題である。

私たちの活動が、経済的利得のための手段から、その活動自体によって喜びが得られる活動に転換することによって、私たちの社会における「 生産と消費 」「 労働と報酬 」の関係も変化する。私たちは「 生産があって消費がある、労働があって報酬がある 」と考える。手段と目的の関係が成立し、時間的にも前後の制約がある。行為そのものが報酬になると「 生産と消費 」「 労働と報酬 」をはっきり区分できなくなる。私たちは、労働と遊びを逆の行為として捉えている。

「 畑仕事 」と言えば労働で「 ガーデニング 」と言えば遊びになる。「 釣り 」や「 狩猟 」も同じで、過去の社会において、ど真ん中の労働であったものが、今日の社会において優雅な遊びに転じている。

貴族の余暇の過ごし方であった、研究・創作・執筆・スポーツといった活動は、今日の社会において、経済的価値を生み出す労働として認められるようになっている。

・遊びと労働が一体化する経済は既に社会の一部に現れている。
・今日の社会において、最前線で活躍している人ほど、遊びと仕事の境界が曖昧になっている。
・遊びがお金を生んでいる以上に、仕事そのものが報酬となってその場で効用として回収されている。
・労働と報酬が一体化すれば、労働自体の概念が変わることになる。

テクノロジーによって、ありとあらゆる仕事が自動化され、多くの人の仕事は「 機械の監視をするだけの単調な作業 」となり、創造的な仕事に携わることができるのは、ごく一部のエリートだけになる。

私たちの余暇に対する認識は、労働に対する認識との相対的な位置関係によって規定される。余暇という言葉には実体がない。余暇は労働でない時間としか表現できない活動である。労働が望ましくないものならば労働でない時間は、望ましい時間となる。

「 労働とは辛く苦しいモノだ 」という認識の裏返しとして、余暇に贅沢さを感じている。

余暇は労働以外の時間だから、労働がなければ余暇はない。余暇だけの社会は存在しない。「 私たちの活動を、労働と余暇という2つの枠組みで整理する 」という考え方は「 労働とは辛く苦しいモノであり、労働しなくてもよい時間 = 余暇を手に入れるための手段でしかない 」という前提の考え方である。

労働自体が報酬として主体に回収されるならば「 労働と報酬 」「 生産と消費 」が一体のモノとして溶け合う。「 未来のために苦しい今を頑張る 」という思考から「 この瞬間の充実のために今を生きる 」と転換する。

今までやったことのないモノについて「 自分が夢中になれるかどうか 」を自然に察知することはできない。どのようにすれば、自分が夢中になれる仕事を見つけることができるのか?

答えはひとつしかない。

とにかくなんでもやってみる。

「 今を未来のために手段化する 」という思考に囚われていると「 寄り道をせずに、最短距離でゴールを目指すのが、正しい人生の在り方だ 」と考えてしまう。しかし、そのような人生設計のもとに、無駄だと考える営みをすべて退けて日々を積み重ねていけば、偶然の可能性を失ってしまう。自分が本当に夢中になれる活動に触れる偶然の機会を失ってしまう。

人生を見つけるためには、人生を浪費しなけければならない。
アンモローリンドバーグ

夢中になれることは、心の状態なので、予測不可能である。夢中になれることは、いくら頭で考えてもわからない、いろいろなことに取り組んでみた後で、事後的に身体感覚として把握することでしか掴むことができない。私たちがイメージする知性とは異なる、身体的な知性が求められる。

労働から得られる最も純度の高い報酬は、自分の労働によって生み出されたモノ・コトによって喜ぶ人を見ることだ。
人々は、労働によって得られる対価の筆頭として、なぜ、金銭的報酬を考えるようになってしまったのか?
自分の生み出した価値を受け取って喜ぶ人を直接見ることができない社会構造になってしまったからだ。

感情

人間が長い進化の過程の中で感情という機能を獲得した。

感情が、個体の生存・繁殖に有利に機能しないならば、私たちの脳は、感情を生み出さなかったであろう。

生み出したとしても、機能として役立たなければ、排除されているはずだ。

感情は有用な機能なのだ。

感情を押し殺して生きることは、人間としての生命活動を毀損することになる。

私たちが自分の感情に根ざした仕事をすることで、私たちの幸福に貢献しない仕事は社会から消滅していく。社会には市場原理が働くからだ。それが「 資本主義をハックする 」という意味である。


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