論語、孔子の教えとニーチェ
「 日本教の社会学 」からの思考
2022/2/2
論語
「 葉公 孔子に語げて曰く、吾が党に直躬なる者有り。其の父 羊をぬすみて、子 之を証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と 」
葉殿は孔子に言った。
「 私の郷里の中に、とても、正直な者がいます。父親が羊を盗んだとき、その子の父が盗んだと証言しました 」
孔子は言った。
「 私の郷里の正直な者は、それと違います。( 仮に盗みがあったとしても ) 父は子の悪事を隠し、子は父の悪事を隠します。まっすぐの真の意味はそこに在ります。」と
孔子の教えは、論語にまとめられている。孔子は儒教の始祖である。儒教とは、政治をよりよく行うためのハウツーである。君主は、世の中を統治しやすくするために、人々を教育しなければならない。その教科書が論語である。論語に従って、人々が行動すれば、君主が栄える。だから、論語は廃れずに、2,500年の時を超えて、読み継がれている。
孔子の教えは「 法よりも家族を大切にしなさい 」ということだ。儒教は政治の教えなので、政治的に置き換えると「 法よりも君主を絶対とせよ 」という教えである。中国では、儒教の儒家以外にも、法律で政治を行う法家がいたが、法律ではうまく統治できなかったことが歴史的にも証明されている。
儒教と日本
儒教なんて、関係ない?
儒教の教えは、私たち日本人に脈々と受け継がれている。
新一万円札の肖像画は、渋沢栄一である。
渋沢栄一と言えば「論語と算盤」が有名だ。
渋沢栄一は、現代にも続いている、様々な会社を興している、その数は、なんと500社を超え『 日本の資本主義の父 』と言われている。渋沢栄一なしに、今の日本はない。その渋沢栄一は、論語に親しんでいる。日本人に論語の影響がないはずはないだろう。
私たちには「 法より ( すべてにおいて何より ) も君主を優先せよ 」という思想があることは間違いない。意識はしていなくても、無意識下で。そうでなければ、第二次世界大戦の「 天皇万歳 」「 戦争反対は非国民 」「 神風特攻隊 」といった思想は生まれない。
文化と権威
私たちは「 すべてのモノゴトを、自分の自由意志によって判断している 」と信じている。しかし、私たちの自由意志の根底には、日本文化があるのだ、日本文化の影響なしに自由意志はない。
孔子は偉い?
渋沢栄一は偉い?
偉人だからこそ、名が知れているのだ。
時代を超えて、名前が広がっているのだ。
しかし、法よりも家族という考えは、絶対に正しいのだろうか?
私たちは、権威を盲信してしまう。
正しくは、権威に服従するように、教育されてきた。
親・教師・医者といった権威を疑うこともなく、信用する。
一万円札になる人は偉い、権威である。
権威は絶対に正しいのか?
法よりも家族なのか?
家族よりも法なのか?
それは、それぞれの意見があるだろう。
どちらか正しいかという唯一の答えはない。
すべて、個人の解釈でしかない。
正義とは、自分の解釈でしかない。
ニーチェ的結論
それでは、もう少し、斜めから解釈してみよう。
父が盗んだという話のはじまりである。そこから、私は、何となく、息子は成人していて、年老いた父が、生活に困って、盗みをはたらいたんだろうと、想像してしまう。その中で、息子は年老いた父をかばうべきだ、また、逆に、息子が生活に困って盗みをはたらいたら、父はかばうべきだ。そういう風に孔子は言っているように感じている。
これが、逆ならばどうだろうか?
息子が盗んだという話のはじまりであったら?「 息子が盗みをはたらいた、そこで、父親が息子の盗みをかばった 」だったら?私は、息子を子どもに見立ててしまうだろう。そして、息子が盗みをはたらいたのなら、それは悪事なのだから、親が、しっかり、注意して教育すべきだろう。という風に考えてしまい、それ以降の物語が、全然、入ってこない。意味がわからないとなってしまう。孔子は何を言っているんだろうか?孔子は道徳を知らないのか?となるだろう。
ただ、父と子を入れ替えただけである。それなのに、私は、全く違った考えに至ってしまった。すべては私の解釈に過ぎないのだが。
私たちは、モノゴトを捉えるときに、自分の中で、勝手に前提を付け足して、勝手に解釈してしまう。その勝手な前提そのものこそが、日本文化なのである。
私が日本人でなかったなら、異なった前提を付け足して、物語を解釈していたに違いない。
キリスト教徒であれば「 盗みはいけない 」と神が言っているんだから、家族でも、かばってはいけない。と、前提も何もなく、事実をありのまま受け止めて、聖書によって判断するだろう。コレも私の解釈に過ぎないのだが。
私は、私の解釈で、この世界を見ている。
私は、「 権威を盲信せずに、自分で考えなければならない 」と解釈している。
私は、「 視点をずらすだけで、物語は全然違った話しになる、その視点は文化によって多種多様だ 」と解釈している。
私は、「 自由意志の元には、自分の国の文化が関わっている 」と解釈している。
私は、私を知るためには「 日本人を、歴史を学ぶ必要がある 」と解釈している。
事実というモノは存在しない、存在するのは解釈だけである。
ニーチェ
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