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三日間の幸福

20240727

寿命を買い取ってもらえるという話を聞いたとき、俺が真っ先に思い出したのは、小学生の頃に受けた道徳の授業のことだった。

学級担任は、こうに問いかけた。
「では皆さんは、そういうふうにかけがえのないものだといわれたり、何よりも価値のあるものだといわれたりしている『人間の命』は、実際の金額にすると、いくらいのものだと思っていますか?」

学級担任はこのとき、「正解はない」といった。しかし、正解らしきものは存在した。10年後、20歳になった俺は実際に寿命を売って、その対価を得ることになる。

子どもの頃は、自分が偉い人間になると思っていた。同世代の人間と比べて、自分は並外れて優秀な人間だと思っていた。

もっと根本的なところで、決定的にずれていた。 咲く季節を間違えた花のように。

俺たちが待っていたのは、自分たちの存在を肯定してくれる、すべてを納得させてくれる、「何か」だった。

「そう、その『何か』はきっと、夏に起こるの。10年後の夏、私たちにとってもいいことが起きて、そのとき私たちは、ようやく『生きててよかった』って心の底から思えるの。私たちは、偉くなって、お金持ちになるの」

20歳になっても、未だ俺は、「自分だけは特別である」という意識から逃れられずにいた。そうした自信は、何かに支えられていたわけではない。ただ過去の栄光を引きずっていただけだ。 何一つ好転する気配のない現状から目を逸らし、「俺はいつかきっと、これまでの無意味な人生をすべて帳消しにしてくれるような大成功を収めるのだ」といつも自分にいい聞かせていた。誰もがその名前を知る人物となること、いつまで経っても色褪せないような伝説的な成功を収めることでしか、自分を救うことはできないと思った。

勢いで寿命の大半を売り払ってしまったことを後悔する、ということもなかった。失って初めてその大切さに気付くということもない。むしろ、肩の荷が下りてせいせいしたという感が強かった。
これまで俺を生に繋ぎとめていたのは、「ひょっとしたら、いつかいいことがあるかもしれない」という浅はかな期待だった。いくら無根拠な期待とはいえ、それを捨てきるのは至難の業だった。 どんな無価値な人間だろうと、すべての不運を帳消しにするくらいの幸運に恵まれないという保証は、どこにもないのだ。
それは救いであり、同時に罠でもあった。だからこそ、今回、「今後、お前の人生にいいことは起こらない」と断言してもらえたことは、見方によってはありがたいことだった。
これで、安心して死ぬことができる。
こうなってしまったからには、せめて残りの3か月だけは、楽しく過ごしたいものだ。 「冴えない人生だったが、死を覚悟してからの3か月だけは、それなりに幸福だった」、最後にそう思えるような余生を過ごしたい。

人が規則を守るのは、生き続ける上で、信用というものが大きな鍵を握っているからだ。だが、人生が間もなく終わるということが確定しているのであれば、話は変わってくる。 信用はあの世までは持っていけるものではない。

余命が残り3日となったとき、監視員が外されるらしい。
最後の3日間だけは、一人になれるのだ。

「なあ、あんたは今、俺が傷ついたり失望したりすることを未然に防いだ気になっているのかもしれない。だがその行為は、『傷ついたり失望したりする自由』を俺から奪ったともいえるんじゃないのか?そう……例えば、俺が仮に、あんたの口から間接的にではなくて、彼女の口から直接にその事実を聞いて傷つけられたかったと思っていたとしたら、あんたのしたことはお節介だ」

ここにきて、突然、寂しさが込み上げてきたのだ。人生の終わりが明確になって、真っ先に感じた変化は、これまでの俺では考えられないほどの人恋しさだった。とにかく猛烈に誰かと話がしたくなった。

「たとえ身にならないように見えても、すぐに忘れるように見えても、一度読んだものは絶対に脳のどこかに残っていて、本人も気付かないところで役に立っているものだと私は思ってるんですけど」
「そういうこともあるかもしれないな。ただ、少なくとも俺は自分がそうだからこそいうんだが
――若者のうちに読書漬けになるなんて、不健康なことだと思う。読書なんて、他にすることのない人間がやることさ」

楽しげに騒いでいる連中を見ても、「一体何がそんなに楽しいんだろう?」くらいの感想しか抱かなかった。
だが、死を意識するようになったことによって、これまで俺が必死に歪めてきた価値観は見事に正常化されてしまったようだ。
人並みに、人恋しかった。

こういうとき、大抵の人間は、家族という存在に救いを見いだそうとするのかもしれないな、と俺は思った。どんな状況になろうと家族だけは味方でいてくれるのだから、最終的にはそこに帰るべきなんだ
――そういう考え方があることは、知っている。しかし、家族というものが誰にとっても心温まる存在であるとは限らない。

「皆、死期が近づくにつれ、発想がどんどん極端になっていくんですよ。特に、あまり満たされていたとはいえない人生を送ってきた人は、その傾向が強いんです。賭け事に負け続けてきた人が、より非現実的な一発逆転ばかりを狙うようになるのと同じ理屈で、人生に負け続けてきた人は、非現実的な幸せを望むようになるんでしょうね。多くの人が、死を前にして相対化された生の輝きを目の当たりにして、ようやく活力らしいものを取り戻し、『これまでの自分はどうしようもない人間だったが、過ちに気付いた今の自分になら、何だってできる』という思考に陥ってしまうんですが、思うに、そうした人たちは致命的な勘違いを犯してしまっています。彼らは、ようやくスタート地点に立ったというだけなんです。負け続けのギャンブルで、ようやく冷静さを取り戻したというだけなんです。それを一発逆転のチャンスだと勘違いすると、ろくなことになりませんよ。
よく考えてみてください。あなたの寿命の価値があそこまで低かったのは、あなたが残りの30年で、何一つ成し遂げられないからです。それはわかっているんでしょう?」

「勝とうなんて思うから負けるんですよ。負けの中に勝ちを見いだす生き方の方が、失望は少なくて済みます」

「代わり映えのない空っぽな毎日は、段々と、一日一日を区別することさえ困難にさせていきます。そうなってしまうと、日々は、飛ぶように早く過ぎるものです」 

俺は世界に馴染めずまた馴染もうとしない自分を赦し過ぎた。そのツケを、今、払わされているのかもしれない。

死ぬというのは、死に続ける以外のことすべて、二度とできなくなるということなのだ。

俺は、彼という人物を気に入っていたのではなくて、自分の考えを肯定してくれる彼を通して、俺自身を愛していたというだけなのかもしれない。

いくら死期が近いからといって、世界が急に優しくなるなどということはないのだ。世界が優しいのは、おそらく、既に死んでしまった人に対してのみだ。そんなことはわかりきっていたはずなのに、甘えた考えが抜けきらない俺は、心のどこかで、 世界が急に優しくなることを期待していたらしい。

いざ遺書を書こうとした俺は、どんなことを書くにもまず、読者が想定されていないことには書き始められないということに気付いた。

そもそも俺は、この遺書が誰に読まれることを期待しているのだろう?言葉というのは伝達手段だ。俺が書く言葉は、俺の中にある不可視の何かを、誰かに伝えるために書かれなければならない。
俺は誰に何を伝えたいのだろう。

俺がいいたいのはこんなことではない。そして、いいたいことを正確に書き記すのは不可能だ。言葉にすると、それはかえって死んでしまうだろう。

歩いている大学生たちは、皆自分とは全く違う世界に属する、幸せな生き物に見えた。稀にすれ違う、うつむいて歩く不幸せそうな人でさえ、不幸せを満喫しているように見えた。

「結局は、私が子供だったんだと思う。色んなことをありのままに受け入れて前に進むっていうことが、どうしても私にはできなかったんだ。ちょっとの不完全さにも耐えきれずに、物事を根本から駄目にしちゃうっていうのかな」

俺はいつものように、眠りにつく前の習慣を始めた。瞼の裏に、いちばんいい景色を映す。俺が本来住みたかった世界について、一から考える。ありもしない思い出を、いったこともない「どこか」を、過去か未来かも知れない「いつか」を、自由に思い描く。5歳くらいから、欠かさず続けている習慣だった。ひょっとしたら、この習慣が原因で、俺はこの世界に馴染めなくなったのかもしれない。しかし、こうすることでしか、俺が世界に折りあいを付けられなかったのも確かだ。

「音楽鑑賞と、読書が趣味だった。しかし、今考えると、この2つは俺にとって、『生きていくため』の手段だったんだ。どうしようもない人生と折りあいを付けるために、音楽と本を用いていたんだよ。無理に生きていく必要がなくなった今、その2つは俺にとって、以前ほど重要ではなくなってきてる」
「どうしても引っかかっちまうんだよな。何を見聞きしても、『ああ、これは俺とは関係のない話なんだ』って疎外感を覚えるだ。…思うに、世の中の大抵のものは、「今後も生き続ける人」向きに作られているんだよ。当然といえば当然だが。これから死ぬ人のためには作られていない」

「自販機って、いつでもそこにいてくれますから。お金さえ払えば、いつでも温かいものをくれますしね。割り切った関係とか、不変性とか、永遠性とか、なんかそういうものを感じさせてくれるんです」

昔のことは、ずいぶん色々と忘れてしまいました。どんなに幸せなことも、どんなに辛いことも、思い出す機会がなければ、そのうち忘れてしまうものです。そのことに人が気付かないのは、忘れたことさえ忘れてしまうからなんだと思います。

ものが存在するのは、知っている。けれどもある段階を超えた美しさというものは、いくらそれがどんなものであるか具体的に知っていようと、実際に見てみるまでは何も知らないのと似たようなものなのだ。

街を歩きながら、俺はひたすら思案した。決まりきった答えのない考え事をするには歩き続けるのが一番だということは、これまでの経験から感覚的にわかっていた。次の日もその次の日も、歩き続けた。どこかに、自分にぴったりの答えが転がっていると期待して。
そうして考え続けている間、口にはほとんど物をいれなかった。これもまた経験からいえることだが、空腹がある一定のラインを越えると、直感は冴えわたるものだ。俺はそれを頼りにしていた。

ある種の自信に裏打ちされた、余裕のある表情は、誰かを愛し、誰かに愛されているという確信のある者にしかできない表情なのだろう。

相手にされない真実より、楽しまれる虚構の方が、ずっといい。

「不幸な自分」がアイデンティティになった者にとって、不幸でなくなることは、自分でなくなることだ。不幸に耐えるために行っていた自己憐憫はいつしか唯一の楽しみとなり、そのための不幸を積極的に探しにいくようにさえなる。








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湯浅淳一
あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。

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