人間、ネガティブなのはデフォルトらしいので無理せずいきましょう
昨日、自分の先輩の奥さん(専業主婦)が自分の環境が恵まれていて、これでいいのかという悩みを持ち、精神科にかかってみたという話を書きました。
自分が学生をしていた20年前なんかは、クエスチョンマークがつくような精神論がまかり通っていて、今からみると信じられない時代でした。
周囲からは、やる気がないのは気合いが足りなからだ!という目で見られ、自分も「やる気がでない自分はダメなやつだ」と自責してしまう。
そんな空気があったように思います。
流石に炎天下で兎跳びをやらされ「水呑むな!」みたいな虐待レベルは経験がありませんが・・・。
それに比べると、今は精神系の病気(病気、というのも適切ではないかもしれません)に対する理解も少しずつ広まってきており、鬱は心の風邪のようなもの、誰でもかかりうるし、なってしまった人を責めてはいけないというのが徹底されつつあります。苦しいのに無理に抱え込んでさらに自分を追い詰めるという負のスパイラルは断ち切らねばいけないですからね。
一方、恥ずかしいことに、自分はまだ学生時代、特に運動部で植え付けられた「精神論」から脱却し切れていないような気がします。
特に自分に向けては、ちょっとやる気が起きないような時でも、しっかりせい!を自らに喝を入れて物事にあたることが当然のように習慣化してしまっている。
もちろんプレッシャーや不安を起爆剤として何かを達成するのは、それはそれで素晴らしい経験なのかもしれません。
でもそれが、本当に自分を大事にできているか?というと、別な話な気がします。
自分に向けた言葉は、少なからず周りとのコミュニケーションにも影響してしまう。鬱で休んだ人の仕事が割り振られて負担が増えたとすると、当然、第一には「早く良くなってほしい」とか「苦しいんだろうな、自分も気をつけないとな」ということを思うわけですが、一方で「あ〜あ、やることが増えちゃったなぁ」と捉えている自分もいる。
そんな葛藤があったり、です。
話が行ったりきたしてしまいましたが、ありたい姿としては
・本人も苦しまない
・周りの人も大変な思いをしない
ことですね。
いろんな本を読んだりするにつれて、このありたい姿を達成するために必要なことの第一歩は、
”人間はネガティブに考えるようにできている”
ことを多くの人が認識することなのではないかと思い始めています。
鬱病の人あるあるらしいですが、「ネガティブに考えてしまう」という1つのループで終われればいいものの、反芻して何度も同じネガティブなことを考えてしまったり、ネガティブなことを考えている自分をさらに責めてしまったり、だそう。
この1ループ目は仕方ないにしても、それが2ループ目以降に入り、反芻されることを避けるためにも、人はデフォルトでネガティブなんだということを多くの人が認識することが大事な気がします。
これ、科学的にも概ね証明されつつあるそうです。
簡単にいうと、ジャングルで音がした時
1 気のせいだ
2 もしかしたらライオンが隠れてるかも・・・
と考える人がいて、2の方が生存確率が高くなるでしょう、というシンプルな仮説です。
自分も基本的に内向的でネガティブな方であることを自認してますが、仕方ないんだな〜とある意味の諦めをすることで、少し楽になりました。
悩み、苦しむ人が1人でも少なくなること、特に若い人が苦しんで命を断ったりしないことを願ってやまない今日この頃です。