将棋士の孫も唯の孫。
禿げ上がった頭と眼鏡。目の前に運ばれてきたのは、お世辞にも美味しそうだなんて思えない真っ黒な液体から揺ら揺らと湯気。
喫茶店。
おじいちゃんは、その傍らにある小さなミルクピッチャーを小学生の僕に渡す。僕はその小さな小さな白い世界に、飲めもしないブラックコーヒーを一滴、落とす。それを度々と飲むのが幼い頃の密かな楽しみだった。
おじいちゃんのお葬式。僕は大学生になっていた。
金髪でいーかげんな長男の僕に「あんた、その頭何とかならへんの」口煩く母親は言う。
母親にありがちな小言だと思っていたが、今なら分かる。僕のおじいちゃんのお葬式は決して、家族だけで慎ましく行うなんて出来ないものだったからだ。
星田啓三、八段。Wikipediaにも出てくる僕のおじいちゃんの代名詞は「阪田三吉の唯一の内弟子」だ。葬式には新聞社が取材に来た。
僕の前では無口で気前のいい唯のおじいちゃんだった。
プロ棋士の世界は厳しい。
常に勝敗が付きまとい、負ける時は自分から「参りました」と敗北宣言しなければならない。浮き沈みの激しい世界。試合前になると家の中はヒリヒリと焼けるような空気を纏い、負けるとその重力は地球のものとは思えなかった、らしい。
僕はそんな事も知らずに、星田八段の孫をのほほんと過ごして生きていた。唯の孫だった。
祖父に育てられた僕の父に言わせれば、昔は棋士なんて職業は博打打ちのようなイメージを持たれ「父親は棋士です」と言うのが躊躇われたこともあったという。
つまり、恥ずかしいような職業だったのだ。
勝てばいいが、負ければ最悪。家族の雰囲気は悪く、母親(おばあちゃん)は本当に苦労して支えていたそうだ。
そんな父は真面目を絵にかいたような地方公務員となった。「仏の星田係長」と呼ばれていて、母が「ほっとけの星田係長やろ」と突っ込むところまでが、僕の家のしきたりだった。
「会社辞めてん。カフェするわ。」公務員の父、専業主婦の母がひっくり返った。9年間サラリーマンだった長男が、平日の昼、突然帰省して報告してきたのだ。
僕の両親は勤め人であることに誇りを持ち、独立するなんて人の道に外れる一歩だと認識している節があった。そりゃ、ひっくり返るのも仕方がない。
紆余曲折を経て、今では応援してくれているが「あんたにはおじいちゃんの血が流れてるわ」と名言みたいな当たり前の事実を言っている。
堺市の阪田三吉邸に住み込みで弟子入りしていたおじいちゃん。家内業であった草履の製造内職をよく手伝っていたのだと、最近になって父から聞かされた。
昨年、阪田三吉の資料展示に家族で招かれた時に、当時の草履製造の資料に触れる事もできた。
コーヒーと草履。
いつまでたっても僕は、おじいちゃんの後ろをついて回る幼い子どものようだ。
そしてそれが、なんとも心地いい。
自分の選択によって進んできた人生が、時折ふと何かに導かれていたかのように偶然の一致に繋がったりする夜は、なんとも心地いい。
おじいちゃんみたいにいづれ僕もWikipediaに載ったりしちゃったりするのだろうか。
いやいや、別にそんな事には興味もないけど。
プロ棋士だった祖父と、公務員の父と、僕。それぞれの人生がただそこにあるだけの話だ。