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俳句から短歌に


小津夜景さんのエッセイや句集に触れたり、フォローしているこんぶさんの短歌に触れたりする中、改めて短歌と俳句という形式の違いを考えさせられた。

こんぶさんも長年、米国に暮らされ、異国語の世界に身を置かれた体験を通して、改めて日本語に含まれる独特の音感、音韻、調べの美しさを感じられているように受け止めた。

規格外の短歌 こぶたのはな|こんぶ (note.com)


いつかたこぶねに|junchan (note.com)


最近、つくった俳句から省略されているものは何だろうかとイメージをしながら、そこから短歌を作ってみた。
短歌は本当に生まれて初めてつくるので出来栄えは、ご勘弁していただき、
俳句と短歌の形式の違いから生まれてくるものを感じるきっかけにしたいなと思う。


紅葉且つ散り足跡に振り返る

紅葉散りたる庭園の玉砂利を踏む足音に友かと振り返る


つゆ草や煙草の匂ひ残る路地

駅までの路地に煙草の匂ひあり人影のなき径のつゆ草


鈴虫や木洩れ日の駅までのみち

木漏れ日の駅からのみち鈴虫の音に導かれ思ひ出すこと

短歌の手法は体言止めなど色々あるようだが何も知らないので自分で作った俳句の余白からイメージできる事柄を並べて体裁を整えたという感じ。

短歌の方が文字数が多いので、当然ながら言葉数が多くなる。
俳句の場合は、省略の文学と言われるが、言いたいことが言えない中、読み手に解釈を委ねていく。
言わないことで情緒的なものは生まれやすいと思うが、反面、読み手に伝わらないという問題が裏腹に存在している。
また、俳句の場合は、有季という季語を必ず入れるという制約もある場合が多いので、その季語との関係性も大きく影響する。

俳句から短歌を導くことを試みたが、単に俳句で省略されている要素を具体的に説明するだけで終わったような感じがする。
そこに詩的な要素を含めるには、切れや飛躍した展開が必要とされるように思う。

奇しくも図書館で俵万智氏の「短歌をよむ」をぱらっと開いたところに
俵万智氏もまさに私と同じように俳句をリメイクして短歌にする試みをされている内容が紹介されており、そのシンクロに驚いてしまった。
もちろん私とは比較にならないが、俵万智氏の俳句とそこからリメイクされた短歌をご紹介したい。

返事せぬ手紙の束や秋扇
返事せぬままに季節は移りゆき机上に手紙の束、秋扇

使用済みテレホンカードの穴冴える
使用済みテレホンカードの穴冴えて思い出せない会話いくつか

零余子という言葉にふりむくエアポート
エアポートのさわめきのなかに「零余子」という言葉聞こえてふりむいており

たまには遊び感覚で、俳句という形式で言えないことをつぶやくような感じで短歌を作ってみたいと思う。
そのことで、また新しい視点で俳句の形式と向き合えるのではないかと思う。




桔梗咲く白磁の口は皹割れて

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