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限りなく透明に近いブルー/村上龍

1976年刊行、芥川賞史上いちばん売れた作品だという。こんな本がそんな頃に突然書かれてしまったら、それまでまじめに文学やってきた人たちは怒っただろうなと思う。題材はめちゃくちゃで、暴力とセックスとドラッグのシーンしかない。ストーリーらしきストーリーもないし、あらすじを書いてもなんにもならないような話だが、村上龍の小説は基本的にそういうものだから、デビュー作からそうだったというだけだろう。

僕はドライな暴力の出てくるフィクションがやたら好きで、大江健三郎とか中上健次とか村上龍とか古川日出男とか阿部和重とかコーマック・マッカーシーとかチャック・パラニュークとかを読んで暮らしている。人間には暴力がある。どんな善人でもひとに危害を加えることができて、殴れば相手は痛いし、ナイフを持てば人殺しだ。そういう力を自分は持っていて、それは時として制御できない可能性があり、自分は他人を傷つけることができる、ということに強く自覚的である人のことが好きだ。そういう感じを滲ませる文章のことが好きだし、フィクションの中で暴力を描くことに関して酔っていない、露悪的でない人のことがずっと好きだった。

村上龍は基本的に暴力(テロリズムは頻発する)、セックス、ドラックしか書いてないが、すべてそういう冷静で乾いた暴力だ。その暴力をもつ者たちはみな一様に見棄てられている。世界から棄てられている、ふつうの基準からこぼれ落ちてしまった、この世のみなしごのような者たちが、遊びや退屈しのぎだったり、時には切実に抵抗や叛逆のために暴力をふるう。正常な世界でのうまくやれなさ、折り合いのつかなさが、僕には「わかる」と思う。そのどうしようもない孤独とつらさに共感する。それで村上龍が好きだし、その暴力表現にいちいちぐっときてしまう。

孤独なみなしごの心の中にはいつでもロックンロールが鳴っている。村上龍の独特な比喩表現、リズムと切れ味のよい文章は物語を通してずっと音楽を鳴らす。そういう小説は本当にめったになくて、だから出会ったら大切にしなくてはならない。これはそういう小説のひとつだから、心の宝物の棚にしまって、ときどき手入れをしてやりながら、何度も読み返したりまねしたりすることになるだろう。

補記: ミッシェル・ガン・エレファントのリリィのモデルはこの小説のリリーだそうだ。どおりでなぜか既視感があるなと思った。


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