「ひきこもり 」の問題7 支援機関での状況とイジメが起きている状況。

noteの記事、
『「ひきこもり」の問題4 支援機間での状況が問われていないこと』(https://note.com/masaki_iguchi/n/na89be949f2e5)の中で、

【「最初に「ひきこもり」の問題に関心を持ったのは、
今から約15年前、
2009年の4月から、
初めて社会に参加したいと思い求職活動を始め、様々な支援機関をめぐったのがきっかけです。
それらの支援機間での対応に疑問を持ち、
「ひきこもり」の問題が語られる時、
「どうして支援機間での状況が伝えられていないのだろう?」
と思ったのがきっかけでした。」

と、
何度か書いてきました。

「支援機間での状況が伝えられていない」
とはどういうことか?】

と書きました。

引用した記事でも、
「何度か書いてきました」

と書いているので、

【「ひきこもり」の問題が語られる時、
「どうして支援機間での状況が伝えられていないのだろう?」
と思ったのがきっかけでした。」】

という、
この問題意識は、
1番大切な問題意識なのだと思います。

しかし、
支援機関での状況が問われていないことに疑問を持つのは、
そんなにおかしいことなのだろうか?

と、いつも思います。

「おかしい」

というのは、
「ひきこもり」の問題を語る際に支援機関での状況が問われていないことへの問題意識を語る人は、
僕以外に居ないからです。

少なくとも僕は知りません。

また、
僕は様々なひきこもり関係の集まりや支援機関などを訪れて来ましたが、
支援機関での状況が問われていないことに共感して下さった方はいませんでした。

その状況への疑問もありますが、
支援機関での状況が問われていないことについて、
別のことに例えて説明をしてみたいと思います。

まず前提として、
「ひきこもり」
というのは、
家にひきこもっている人の在り方が問題というだけでなく、
人と人とが接している状況が問題になっているはずだと僕は考えていました。

例えば、
いじめを受けた人が、
その体験により心が傷つけられ、
人と接するのが怖くなり、
家から出ることが困難になってしまったような場合、
問題になっているのは家にこもっているその人の在り方ではなく、
学校や職場などでの、
人と人が接している状況でいじめが起こった、
正にその状況が問題になっているのだと思います。

けれど、
世の中の人々は、
「人と人が接している状況でいじめが起こった、
正にその状況」
ではなく、
「家から出ることが困難になってしまった」、
「家にこもっているその人の在り方」
を問題にしています。

実際にこれまで参加して来た集まりで、
「人と人が接している状況」
を検証するような試みは一度もなかったと思います。

また、
いじめが原因で勉強ができなくなり、
大学へ進学するなどの進路も制限され、
キャリアに大きなマイナスの影響を及ぼしてしまった、
という場合。
それだけの不利益を受けておきながら、
不利益を受けたことに対する損害賠償請求などは、余り検討されていません。

そもそも、
学校時代にイジメを受けた場合、
それに対して何の対応されなかったとしたら、
その時の傷を背負ったままになってしまう場合が多いのではないのでしょうか?

たまに、ひきこもり 当事者の親御さんから、
いじめがきっかけで〜というような話を聴きますが、その時、どんな対応をしたのだろうか、
と詳細についてお聞きしたくなります。

これは、
当たり前のことを言っているだけではないか、
と思う人がいるかもしれません。

でも、
これらの当たり前のことについて、
ほとんど検討されていないのが現状だと思います。

僕はいじめが起きた場合、
いじめ裁判のようなものや修復的対話など、
方法は色々とあると思いますが、
いじめが起きている正にその状況を検証し、いじめが起きている状況そのものに取り組めるような試みが、
あった方が良いと思います。

それにより、
「いじめが起こった、正にその状況」
を問うことができます。

いじめというのは、
いじめられている状況そのものも辛く、惨めで、悔しい気持ちになると思いますが、
「いじめが起こった、正にその状況」を問うことができないことも、
同じくらい辛く、惨めで、悔しい気持ちになるような気がします。

支援機関での状況が問われていない、
というのは、
学校でいじめが起きているその状況が問われないことと全く同じ現象とは言えませんが、
人と人が接している状況が問われていない、
然るべき人に対応を求めても対応してもらえない、周りの人々に助けを求めても協力してもらえない、あるいは協力を求めることができない、
という点では似ている気がします。

また、
「また、
いじめが原因で勉強ができなくなり、
大学へ進学するなどの進路も制限され、
キャリアに大きなマイナスの影響を及ぼしてしまった、
という場合。
それだけの不利益を受けておきながら、
不利益を受けたことに対する損害賠償請求などは、余り検討されていない。

と書きましたが、
支援機関で不適切な対応を受けなかったら得られたであろう利益(=逸失利益)を請求する権利についての検討がされない点も、
似ています。

そこで、僕は、
ひきこもりの問題において、支援機関での状況を問うこと=検証することを提案したいと思います。

いじめの問題でいえば、
いじめられた人がカウンセリングを受けて心のケアを行う、
という方法だけでなく、
いじめが起こった、正にその状況自体を問うことを提案したいと思います。

ひきこもり の問題において、
支援機関で不適切な対応を受け、
それにより社会参加、例えば具体的に仕事に就くことが遅くなった、
求職活動が嫌になって結局引きこもりがちの生活に戻ってしまった、
という当事者の場合、
支援機関での状況を問うことは、
当事者にとって主体性が生まれる契機(きっかけ)になります。

いじめの問題でも、
いじめられて傷つけられて、
嫌な想いをした人が、
いじめが起こった、正にその状況自体を問うことで、いじめられた人に主体性が生まれる契機となり、その時の傷や憤りがいくらか解消される可能性があるかもしれません。

ひきこもり支援の一つの形として、
当事者が主体性を育むことをサポートすること、
は、
とても必要だと思います。

ひきこもりの問題以外でも、
主体的な市民を生み出すにはどうすれば良いか?
という問題意識はあると思います。

(実際にどれくらい真剣に問われているかは分かりませんが...)

この記事で提案した、
支援機間での状況を問うこと、は、
その問いの答えのヒントにもなり、
具体的な解決策の1つにもなると思います。

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