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森田療法/「あるがまま」は言葉ではない
森田療法を開発した森田正馬先生は「あるがまま」を提唱しました。しかし弟子の鈴木知準先生は自著で「あまり使わなかった」と証言しています。現在の主流である考え方では、「あるがまま」は一種の大名詞、キャッチフレーズのように使われています。しかし私は疑問を呈します。なぜなら昔神経症だった時の私はその言葉にしっくりなじめなかったからです。鈴木先生によれば「あるがまま」は言葉ではなく、「心の態度、状態」だと言われました。私たち患者にもそう力説していました。どうすれば「あるがまま」になるか?それは内発的に展開します。自分の意志の力ではありません。症状が心をがんじがらめにしている状態を、「とらわれ」と言います。そのような状態から、鈴木先生は「どのように君たちの心に心の態度を打ち出すのか!」と毎回の日誌指導などで激を飛ばしていました。先生は当時とても高齢でしたがものすごい迫力がありました。
「他の先生方は「あるがまま」をあまりよく説明してくれないんだよ」と私たちには正直に本音を語っていました。当時他の先生の書物では「あるがままに受け入れなさい」「目的本位の生活をしなさい」とそういうことばかり書いてありました。鈴木先生はそれを「森田の核心ではないよ、究極は事実唯真だよ」と言われていました。「事実唯真」とは「あるがまま」と同じ意味です。人間の本質、心を動かす時「そのものになり切る」と......。人の心は本来は流動します。神経症の時の流れのよどんだ固まってしまった状態ではなく、「自由な心の状態」を指します。それが「あるがまま」であり「事実唯真」です。何度も申し上げますが言葉ではなく、心の実態、状態です。
繰り返しますが今は「あるがまま」と言うと言葉だと思う人がいる。理論的に考えることも重要ですが、実際の現象を見てほしい。人は理屈では動いてないことが多い。矛盾しているようでそれは整合されています。それが心です。心は自分の意志ではなく、無意識性を帯びて私たちのよりどころとなります。ではなぜ言葉的に「あるがまま」を使う人たちがいるのか?
申し上げにくいのですがはっきり言います。「心の探求の浅い人たち」です。神経症の闇の中にいるのでしょうか?強迫観念などは、すっきりと治り完治した人は「カラッとした気持ちになる。朗らかでさっぱりしている」と鈴木先生は述べていました。とても先生は明るい方で、少し茶目っ気があり、とても真面目な人でした。心の状態がスカッとしていました
。雰囲気が違うのです。仏教的ですが先生は「達人」でした。神経症を克服して内的に成熟すると人は修練され、ある意味「達観」に呈します。それは森田の言葉では「悟り」であり、「全治」です。
結論を述べますが私は他の先生方の本などを読みまして色々思うところがあります。究極である「あるがまま」の説明を読むことで、「この先生はどのくらいの程度に達しているのかな?」と考えてしまいます。何も意地悪ではなく、私も苦労したのです。死ぬような思いをして身につけた体得的技術です。お金もかかりませんから品評してしまいます。もちろん立ち読みです笑。すみませんね。今は精神分析のユングとかの方が興味があります。向こうの理論の方がある意味魅力も感じます。森田療法は、「継承的体験的理解に生じる、不問療法」です。本来言葉である理論説明など無意味なはずなのですがそれを行う人がいる。あれは違うものです。世間で行われてることは本筋から外れている場合があります。今でしたら認知行動療法の方がいいのかもしれません。