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「明日天気になあれ」は、なぜ「晴れになあれ」ではないのか? 

 小学生の頃、家までの帰り道。「あーした てんきに なーれ」と言いながら靴とばしをして明日の天気を占うという遊びをやっていた記憶がある。足で放り投げた靴が地面に着地して、表向きになったら「晴れ」、裏向きになったら「雨」、横向きになったら「くもり」といった具合になる。

 みなで一斉にやり出すので、占いの結果はバラバラだ。しまいには、誰がいちばん遠くに飛ばせるかというゲームにすりかわっていて、調子にのってやっていると、水の張った田圃の中に落ちてしまい、靴が泥まみれになるなんてこともある。

 ところで、この「明日天気になあれ」というフレーズ。よくよく考えるとちょっと不思議だ。

 そもそも「天気」とは、晴れも雲りも雨も含めて、天候の総称としてそう呼ぶのではないのか?

 ところが、辞典でその意味を調べてみるとこうある。

ある場所の、ある時刻の気象状態。気温・湿度・風・雲量などを総合した状態。「天気が変わりやすい」「今日は天気がよい」
晴天。「天気が続く」「明日は天気になるだろう」
天にみなぎる気。「人事全うして―応ず」
天子の機嫌。天機。「―ことに御心よげにうち笑ませ給ひて」

デジタル大辞泉より

 1こそが、私が認識していた「天気」の意味なのだが、2の「晴天」という意味もあるようだ。

 「お天気でなによりです」という使い方がまさにそれだ。これは、天気=晴天を意味するということが前提になっている。
 
 確かにわれわれは、「明日天気になあれ」について、一般的には「晴れになあれ」という意味合いで使っているように思う。しかし、このフレーズにおける天気を「晴れ」とすると、少しだけ違和感を覚えてしまうのは、さすがに気にしすぎなのだろうか。

 これを神経質という。神経質の反対語は、能天気である。能天気は晴れやかな空のように、すっきりとしていて何も考えていない的な意味だが、これはどちらかというとネガティブな意味で使う。天気=晴れの意味で使っているのにネガティブって、日本語って難しい・・

 それはともかく、上記の違和感の理由は、われわれは天気=晴天と無意識には認めつつも、例えば「今日は良い天気ですね」「今日は天気が悪いですね」という使い方もするからである。

 良い天気=晴れ、悪い天気=雨。という使い分けをするならわかる。

 とはいえこれも、あくまで万人にとって「良い天気とは晴れのことである」という共通認識があってのことである。良い天気=雨、という人がいてもおかなしくはないのだから、天気=良い天気=晴天としてしまうのは、晴れ至上主義的なものが働いているのだろうか。

 まあしかし、Common Senseに照らし合わせて、ここはいったん良い天気=晴れ、ということで話は進めよう。

 で、あればだ。であれば、「あーした てんきに なーれ」は、「あーした よいてんきに なーれ」が本来の使い方のはずではないのだろうか? 
 
 しかし、後者の使い方をするのはあまりきいたことがない。もともとはそんな風にして使っていたが、言いづらいからそれを省略する形で、良い天気→天気→晴天という風に変換されていったのだろうか。

 同じようなことに疑問を持っている人はいるもので、ネットを調べたらすぐに出てきた。

 このコラムでも、やはりなぜ良い天気=晴れなのか、ということに疑問を持たれており、「なぜ、天気=晴れ=良い天気(安定した天気)、雨降り=悪い天気(安定してない天気)という善悪が決められているのか。誰がそう決めたのか」と問うている。

 おもしろいのは、英語の「weather(天気)」は、必ずしも晴れを意味するわけではないという指摘である。

前述の新聞のコラムでは、「日本語では天気は晴れを意味するが、英語の weatherはむしろ悪天候を前提にしている」とも指摘されていました。

Weatherを動詞として使うと「風雨にさらす」「(嵐や困難を)切り抜ける」という意味になるとのこと。

映画『天気の子』の英題(≒サブタイトル)も、『Weathering with you』。
直訳「あなたと困難を切り抜けて」でした。(この映画タイトルで、初めてweatherの動詞の意味を知りました)

英語圏では「天気とは、人生に難儀をもたらすもの」という考え方があるようです。

良い天気はなぜ「晴れ」か』より

 英語には、「weather the storm(困難を乗り越える)」というフレーズもあるようだ。「weather」は、天気、天候、気象、荒れ模様、荒天、(人生の)移り変わりを意味するようなので、日本語のように、ただちに「晴天」を表わすわけではなさそうだ。

「明日天気になあれ」を英訳する場合も、英語だと「I hope it will be fine tomorrow」とか、「Rain, rain go away!」とか、「I hope tomorrow will be sunny」とかになるようで、具体的である。

 このあたりは、世界各地で季節ごとの気候の特性というものは違うわけで、天気に対する受け止め方、文化的、宗教的、社会的な考え方、言葉の使い方の背景は異なるのだろう。もっと深く調べれば、いろいろ違いがあって面白いかもしれない。

 日本においては、天気のような自然に対して、乗り越えるべきもの、困難という概念としては捉えていないように思える。自然=じねんという「あるがまま」の考え方にもみられるように、どちらかというと人は自然には従い、調和するものとして見ている。

 その一方で、自然に人間精神を写し鏡のように反映させるという特性も日本の文化にはある。自然や四季(春夏秋冬)を詠んだ和歌などがその一例ともいえる(愛する人に会えない切ない思いを月になぞらえるなど)。

 だから、もしかしたら日本語における「天気」には、「晴れ」に対するわれわれの願望そのものが、すでに<意志>として込められていて、それがそのまま「天気」=「晴天」という意味の方にも転じているのだ、と考えてみるのはどうであろうか。

 日本語は、天気が良い、悪いという使い方もするが、言葉の使用や意識化においては、天気は晴天であることが前提となっており、基本的にはそれが安定したまま継続するものとして捉えられている。だから、雨や、雪や、嵐といった気象変化は、天気が「崩れる」「ぐずつく」「下り坂」といった表現を使う。

 文字通り「天の気分」なのだ。気分だから、それに従うしかないのだが、できれば、こちらの気持ちも察してほしい。天気はそのまま、われわれの気分にも直結するからだ。晴れ晴れしい気分、どんよりした気分というように。

 だから、天気については、「意志を込める」=「祈る」のである。先ほどの天気占いにも「晴れてくれ」という思いが含意されているし、デジタルでも継続されている「てるてる坊主」という風習も、「晴天祈願」である。

 もっとも、この「晴れ」に対する「祈願」や「信仰」に関しては、日本に限ったことではなく、世界各国のあらゆる地域で見られる普遍的な現象、習慣だ。それらはほどんどが、農作物の生育や収穫、豊作に結びついている。

 この晴天への祈願、日本においては太陽信仰と結びついていると思われる。太陽を神聖なるものとして崇めるのは、これも世界各国においてみられることだが、日本においての太陽神とは、天照大神(アマテラスオオミカミ)のことである(参照:https://discoverjapan-web.com/article/41507)。

 映画『天気の子』の聖地にもなった高円寺氷川神社という、国内で唯一の「天気の神様」を祀った神社がある。

 ここで祀られている天気の神様とは、八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)であり、この神様は、「晴」「曇」「雨」「雪」「雷」「風」「霜」「霧」の8つの気象条件を司る「気象の神様」である。

神話によると、太陽神である天照大御神が天の岩戸に隠れて世の中が暗闇になった時、岩戸を開けて天照大御神を外界に戻す知恵を考え出したのが、八意思兼命。再び世界に「太陽」を取り戻し、世の中を救うことに成功しました。このことから「気象の神様」と祀られるようになったとも言われています。

https://koenji-hikawa.com/kisho_jinja/より

 この八意思兼命、気象の神様といいつつも、「晴れの神様」としてのウェイトのほうが高い。『天気の子』の映画もそうであるように、この神社に参拝する方々のほとんどが、「晴れ」を祈願するのである。

 大事なイベント、運動会や結婚式など、まさに「ハレの舞台」の日は、気分も晴れ晴れしく向かいたい。そんなわれわれの願い、祈りを受け止め、晴れを授けてくれるのがこの気象神社である。

 われわれ日本人に根付いた「晴れ信仰」。太陽神、天照大神と、その天照大神を外界に連れ戻し、太陽を取り戻した天気の神こと、八意思兼命。このような古代の神々の神話にもみられるように、古来より日本は、「天気」とはそもそもが「晴天」を含意しているのかもしれない。そしてそれは、の意味、「天子の機嫌」にもつながる・・。

 
 ところで、晴れ祈願もあれば、雨祈願もないのだろうか? もちろんある。晴れ祈願も豊作に直結するが、雨乞いもそうである。雨が降らない地域、乾燥地域、砂漠の地域、雨が貴重な地域においては、雨天こそが望まれる天気である。これら雨乞いの祈願や儀式も世界各地にみられる。

 日本にも、雨乞いの神や、雨の神はいる。雨の神は龍神などとも結びつけられているようだ。しかし、私が面白いと思ったのは、暴風雨を司る神の存在である。

 それが須佐之男(スサノオ)だ。須佐之男は、天照大神の弟で、高天原で暴れて追放されたのち、出雲に降り立った神である。天照大神は大和朝廷、すなわち天皇の祖神とされていて、一方、須佐之男は出雲国の神である。

 大和と出雲。太陽の神、天照大神と暴風雨の神、須佐之男。これは何を意味しているだろうか? このあたりのことをふまえ、日本の神々の神話を読むのも面白いだろう。

 このような神々の表現にも現れているように、自然に対する人間の向き合い方、感じ方はさまざまで、晴れも雨も、人間は祈願するものである。本来であれば、晴れや雨というものは、良い、悪いで形容するものではないように思える。晴れを望む国や地域もあれば、雨を望むところもあるだろう。気候の変動によっても祈願する対象は変わってくるであろう。


「明日天気になあれ」は、なぜ「晴れになあれ」ではないのか? 

 このことをめぐっていろいろ調べてきた。ちょっといいまとめ方ができそうにないので、チャットGPTに訊ねてみたら、なんと、こんな「気」の利いた答えを返してくれた。

「明日天気になあれ」という表現は、直接「晴れ」を求めるのではなく、天気そのものが良くなるように願う言葉です。この言い回しには、「晴れ」という具体的な状態に限定せず、雨であっても、曇りであっても、その日の天気がその人にとって良いものであるようにという、より広い願いが込められているとも考えられます。

 回答としてはパーフェクトな回答ではないだろうか。晴れを望む人間にも雨を望む人間にとっても「その日の天気がその人にとって良いものであるように」なんて、誰も傷つけることのない言葉である!
 
 私のチャットGPT、スピノザの思想について訊くことが多いため、回答がスピノザ的なものに染まっているような気がしてならない(笑)。


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