フェルメール、レーウェンフック、スピノザ──「光の王国」を生きた同時代人
バロック期を代表する画家の一人であり、「光の魔術師」とも形容されるヨハネス・フェルメール。歴史上はじめて顕微鏡で微生物を観察し、「微生物学の父」と呼ばれるアントニ・ファン・レーウェンフック。そしてアカデミズムからは距離を置き、レンズ磨きの仕事をしながら己の思索を深めていた「近代哲学の巨星」、バールーフ・デ・スピノザ。
この三人は奇しくも同じ1632年生まれ、同じ国ネーデルランド(オランダ)に生を享けた。三人が生きたこの17世紀のネーデルランドは、オランダの黄金時代と呼ばれる。オランダの歴史において、貿易、科学、軍事、芸術が世界中で最も賞賛された期間でもある。
彼らに共通しいているものは「光」、そして「レンズ」という当時最先端であった科学技術である。自然の光=法則を通して、世界をありのままに視る。レンズというテクノロジーを駆使しながらそのスコープを広げ、世界像を拡張させていった人たち。
フェルメール作品を特徴づけるものはなんといっても、この光を巧みに使った細部の描写であろう。例えば『牛乳を注ぐ女』。左の窓から光が入ってきて、画面全体から柔らかな光を感じることができる。ここでは、同時代においてもフェルメールのみが使っていた表現とされる「ポワンティエ」という技法が見られる。
その技法を可能にしたテクノロジーが、カメラ・オブスキュラと呼ばれる光学装置で、暗箱に開けた小さい穴(レンズの役目)を通して、中の鏡面からガラス板に外の景色が映るというもので、このガラス板に映った映像をなぞって、およその輪郭や構成を写し取ったと考えらえている(参照:https://isaosato.net/vermeer-2/)。
レーウェンフックは顕微鏡ではじめて微生物の世界を覗き、観察した人である。本業は織物商人だが、織物の質を鑑定するためのレンズを扱ううちに、レンズを通して見られるミクロの世界に気づいていった。
驚異的倍率の顕微鏡をいくつも自作し、趣味としてさまざまなものを見ていたという。細菌はもとより、赤血球、原生動物、植物細胞などを観察し、スケッチを描き残している。驚くべきことに、彼は精子の存在も発見している! 細胞をCell(セル)と名付けたのはイギリスのロバート・フックだが、生きた「細胞」を世界で初めて観察し記述したのはレーウェンフックである。それゆえに彼は「微生物の父」と呼ばれる。
そして、スピノザは、誰もが知るように哲学者であるが、本職はレンズ磨きの職人であった(趣味程度であったともいわれる)。スピノザのレンズ磨きの技術は相当なものだったようで、当時いろんな人間がスピノザのレンズを求めたという。天文学者のホイヘンスもスピノザと交流があったことがわかっていて、スピノザと望遠鏡のレンズについて議論していたのだという。
フランスの哲学者、ジャン=クレ・マルタンという人が『フェルメールとスピノザ』という本を出しているのだが、じつはフェルメールもカメラ・オブスキュラのレンズ、レーウェンフックも顕微鏡のレンズをスピノザからオーダーしていたのではないかと推測している。
あくまで推測と仮定と思われるため、真偽のほどはわかっていない。交流があったという実際の記録はない。ただ、同じ時代の同じ国、スピノザが名のある哲学者であると同時にレンズ職人でもあり、さまざまな知識人との交流があったことを考えると、可能性は十分ありえるであろう。そしてもしそれが事実であれば、なんとも美しい逸話ではある。
実際にスピノザとレーウェンフックの交流があったかはわからないが、スピノザはレーウェンフックの観察については知っていた。そのことは、スピノザからオルデンブルクという人物にあてられた「顕微鏡で確認された血液について」の書簡からも推測される。
この最後の文章にもあるように、スピノザの『エチカ』における、人間身体の叙述においても、レーウェンフックとのつながりなしには考えられないような、詳細な描写がある。
そのことを、科学ジャーナリストで映像作家でもある大沼鐵郎氏が、自身のサイトでこのように驚いている。
フェルメールとスピノザの実際の交流も微妙ではある。また、フェルメールが、カメラ・オブスキュラを使って絵を描いていたのかも、じつは定かではないようだ。だが、これ自体は十分にありえる話である。『フェルメール (新潮美術文庫 13)』の黒江光彦氏は、次のようなことを述べている。
この解説は、「レンズ」を通して世界、あるいは宇宙を「視る」ということで、光に照らされた真理を発見することがもたらした「科学革命」のダイナミクスさを伝えてくれる。
ガリレオ、ケプラー、ホイヘンス、レーウェンフック、デカルト、スピノザ、そしてフェルメール。
私はここに、地質学者であり、のちに聖職者になったニコラウス・ステノも付け加えたい。彼もスピノザとは同時代人であり、じつはスピノザの『エチカ』写本をめぐっての因縁があるのだが、彼は聖職者になるまえは、解剖学者であり、その解剖学的知識をもとに、化石の研究から地層の生成を考察したりし、先駆的な地質学の著作『プロドロムス―固体論』を残している。
ただし、彼は熱心なカトリックであり、自然の光と、神学的な光との葛藤があったと思われ、ステノの記述には聖書的枠組みにとらわれた限界があったとされる(『ジオコスモスの変容』山田俊弘)。手法として、自然の光のもと「天地創造」を科学的にアプローチした人であったが、聖書の内容と矛盾が起きないよう、調和をはかったのだ。結局は学術を離れ、聖職者にはなったものの、その功績は「科学革命」を起こした一人に数えられるのではないだろうか。
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スピノザとフェルメール、レーウェンフックが本当に交流していたのかどうかは、さして重要なことではない。この時代に、彼らのような天才が同時に出現し、それまでの世界観をひっくり返すような知の発見、思考の転換が同時多発的に起こり、空中戦(伝聞や読書における交流)であれ、地上戦(実際の交流)であれ、中世を支配していた旧世界像を揺るがすような、地殻変動ともいうべき状況を作り上げていたことが重要である。
ガリレオやケプラー、ホイヘンスは望遠鏡で、天上の宇宙という極大の世界を。レーウェンフックは顕微鏡で、生物界やわれわれ自身の身体を構成する極小の世界を。そして、フェルメールは光が「対象」を捉える瞬間=永遠を描き、スピノザは自然の法則の中での人間の自由=永遠の真理を見出した。
マルタンは、これら17世紀の同時代人の試みを「永遠を要約する」という美しい言葉で表現している。
永遠は、フェルメールが切り取った「瞬間」、スピノザが見出した「必然」でもある。そして、レーウェンフックら科学者たちが見出した「無限」の世界。
17世紀の科学革命は、閉じた有限なる人間の知・思考から、開かれた無限の知(自然=世界の知)への転換とも呼ぶべき知的革命であったのだ。
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