地元の学校を手本にしようとしないでほしい件 - Ep.1: 社会階層の再生産編 -
このシリーズは教育面でイメージの良い私の地元の学校制度の課題を指摘するものである。
前回書いた通り2000年度のPISA調査により、実際は世界とズレていることが発覚したわけであるが…
個人的には能力格差については特に「いや、そりゃそうだよね。なるべくしてなってるよね」と今でも憂いてしまう。
学業成績で何歳から働くかが決まるのはどういう世界感なのか?
以下動画チャンネルはドイツARDとZDFというテレビ局によるfunkというネットワークが運営するもので、ドイツの教育システムの問題点を指摘したものである。
既にで過去の投稿で、地元の学校の基本的なシステムについては解説しているので、参考にしてほしい。
ドイツの学校システムの歴史
そもそも現在の仕組みが始まったのは第一次大戦後まで時代は遡る。政治的、そして経済的需要により、かの有名なアレクサンダー・フォン・フンボルトは以下3種類の学校に振り分ける制度を導入した。
フォルクスホッホシューレ(現在のハウプトシューレ):一般人が通う、農業や工業労働者を養成する学校
レアルシューレ:中間層が通う、役人や軍人を養成する学校
ギムナジウム:エリートが通う、政治や経済関係の仕事に就く者を養成する学校
当然時代が時代なので、階級社会を前提に作られた制度であった。当時は「なるほどー。社会主義だねー。生産的だねー。」となるところなのだろうが、これがいつまでもは続かないとは全く想像できなかったわけである。
結果として、同じ社会階級が再生産されるだけという労働者工場が完成した。みんな向上心なく我慢してくれれば、超生産的ではあるのだが。
現在の姿
時の流れとともに(3種の学校が一緒になったゲザムトシューレが出来たり、試験に受かれば上の種別の学校に移れる制度などが出来たりと多くのことが変化したものの、この基本的な仕組み自体は現在も続いている。
2015年のPISA調査を見ると、Gini-Index(国内の貧富の差)がドイツよりも大きなロシア、タイ、チュニジアなどの国家以上に、教育面では格差が大きいらしいことがわかる。怖い言い方をすると、家庭の懐事情以上に学校制度が若者の頭を悪くしてしまっていることになる。ドイツは16の州に分かれておりそれぞれに自治権があるため当然ながら地方格差もあるが、これについては後日別の投稿で補足したい。
おそらく日本以上にお金と教育の関係が深い
当然、家庭が裕福か貧困かでも教育格差が発生する。しかし、学習塾は一般的でないので「お金をかけられる」とか、そういうレベルの話ではない。
富裕層は、小学校4年生時点で高等教育への進学が推薦されるチャンスが専門職家庭の4倍とする研究もあるという話だ。18歳の学生うちアビトゥーアをとる学生は1965年は15%で、2015年には50%まで上昇したが、収入が低い家庭出身の学生はその中には入れていないという。
つまり学校種別間の移動が"現実問題"難しいため"成り上がる"チャンスがない。
キャッチアップはできないのか
小学校4年生程度の能力によって生徒を分ける方が成長するのか?と聞かれれば、むしろ能力差を広げていると言わざるをえない状況である。学校種別間で学力の差に開きが出るのは、教えてる内容やそのレベルが違うが違うのだから、当然の結果である。学校種別が分岐した時点で教育レベルは段違いになる。小学校の延長をやっている生徒が、学者を養成する教育過程に行くのは不可能に近い。以前の投稿でも書いたように、問題の出題方法からして違うためレベルの差は大きくなる。「小学校の延長」は悪意で言っているのではなく、現実:過去にそこで教えてた先生によると「生徒が教室の窓から机を投げてた」と話していたから言ってるのである。もちろん荒れているかどうかの差はあるとは信じたい。
結局のところ、高等教育を目指そうにも目指しようがないので差が埋まらないのだ。(https://www.oecd.org/pisa/publications/PISA2018_CN_DEU_German.pdf)勉強のできない生徒にレベルの低い教育を与えたところで、レベルの高い教育を受けた同学年の生徒に追いつくのは至難の技である。
近年になって目立ってきた課題も
出身階級が学歴と相関するということはつまり、
パソコンもスマホもない、下手すればインターネット環境もない家の生徒が地方によってはたくさん存在しており、そこに急遽デジタル教材導入するともなれば教員は大混乱である。
狭い部屋に大人数で住んでいて自宅学習が難しい生徒もいる
移民で親がドイツ語ができないため子供の勉強の面倒を見れない、しかもコロナになってからはソーシャルワーカーがおいそれと訪問できない現実もある
デジタル化についてはもっと広い意味でいろいろあるので別の投稿で補足したい。
分ける意味はあるのか、諸外国はどうなっているのか。
早く学校種別を分けるほどに能力の差が広がっていくという研究は多いようだ。ちなみに4年生で分けてしまうという早さはドイツとオーストリアだけである。
"問題"ある生徒を全員ハウプトシューレへ「ぶち込んでしまう」ことは、学ぶことをより難しく、後の能力開花を阻害する環境に押し込むことになっている。近年ではレアルシューレと合体させてシュタットタイルシューレ(Stadtteilschule)やオーバーシューレ(Oberschule)を作る取り組みもあるにはあるらしい。
世間一般では「早い段階でGymnasiumに入れないと成長できない」と信じられているが、そうでもないという。ドイツよりPISAで成績の良い国では、生徒が能力別で分かれるのはもっと年齢を重ねてからであり、レベル間の行き来も難しくない。そもそもドイツには「受験という節目」が存在していない。学校を変わるにしても偏差値がないので「自分に合うレベルの学校」を受けることはできない。
もっと言うと成績を基準にした法律に基づく落第や退学があるので、編入試験後も苦労は続くし、ギムナジウムに行ったからと行って大学に行ける保証はない。詳細は私もわからないのだが、18歳を超えると編入できないと聞いている。
教育=投資という考え方
この教育制度は現在となっては「教育は投資である」と言う考え方に基づいていると言えるかもしれない。全ての学校が基本的に公立校であることにも原因はあるかもしれない。
勉強できそうにない人は教育にお金をかける意味がないので、早く労働してお金を生み出す側になってもらう。一方で学問できそうな人にはより"高級"な人材になってもらえるように社会がお金をかけて育てる価値がある、という考え方の上に成り立っている制度なんだと思われる。
これは日本で言うところの就職するためだけに存在してるような大学や、上位校含むAO、または推薦入試の存在意義の議論に通づるものがあるかもしれない。
個人的な経験談を話すと帰国子女枠で入学した自分と推薦入学した友人は学力で大学に入ってはいない。その一方で勉強できる人に混じったことでそれなりに優秀な成績で卒業することができた。私たち2人は卒業研究で学年内上位1位と2位を取って卒業した。結果として「社会に投資してもらった価値があった!感謝!」となったのは間違いない。
一方でそれに対して「それで全員の能力が上がるわけじゃないんだから無駄なお金じゃん」という人がいてもあまり不思議ではないとも思っている。世知辛いが、それなりに金銭的に豊かじゃないと(文字通り)"みんな"に平等なチャンスを与えることはできないのかもしれない。