教育の正常化とは何か
先般、以下のような文章を書きました。
いつものようにnoteは思考の拡張用のツールであり、読んでいただくことを主眼にはしていません。よって書きながら盛り上がってくることもあってそれない程度に話を広げていくことを阻害した書き方をしていません。北方謙三さんが名文を書こうと思って書き始めると1文字も書けなくなるんじゃないかな?と言っていた通りだと思います。せっかくなので自分の文章を元にさらに拡張してみようと思います。これを他人にやってもらえるようになると一人前なのでしょうが・・・
”少なくとも子どもの学力は、学校生活や家庭生活がうまく行っているという前提が必要です。そのためにはさまざまな外部環境が整っていることが重要です。”
→この外部環境を整えるのが大人の側の役割ということになります。親がやってもいいし、教員がやってもいいしということになります。「場の設定」ということなんでしょうか?これを「かくれたカリキュラム」と呼ぶこともあります。
”それが子どもの学びにとって大きな助けになることは疑いないからです。と同時に子ども自身にそうした環境のなかでうまくやっていく力が必要です。それは大きいに越したことはないのですが、少なくともこちらのサポートが届くという最低限というものがあります。”
→先に挙げた大人の配慮と同時にうまくやる力が必要ということになります。たまに友達に非常にめぐまれる子というのがいますが、それはあまり考慮しない方が良いでしょう。もちろんそういうふうに周りをコントロールする恐ろしい人間というのもいるにはいますが、基本的に他者の助けを前提に教育をデザインするというのは現実的ではないと考えます。ヒューマニズム的には非常に美しい話になるのでしょうけれども。特別支援教育の中に子どもを対象児童のお世話係のように使って教員がラクをするという場面によく出合うのです。この人たちはヤングケアラーを批判するのですが、自分がやってることとどこが違うのかを教えて欲しいところです。
子どもに委ねること、信じて待つことと丸投げにすることは明確に違います。そうしていいことの主体が違うということです。結果的に獲得して欲しいことと意図して獲得して欲しいことは道順が違うからです。
遊びの中で乙武ルールが発動する範囲は目で見て乙武さんの状況を理解できる場合のみ発動します。それは明確な区切り線を必要としません。しかし見た目だけでは理解できないしょうがいの場合、この子だけに発動する特別ルールというのはそのコミュニティの中でだけしか通用しません。それは致し方ない。もっとシビアな環境に置かれた子ども集団というものもその周りに多数存在するからです。他の集団とすれ違うときその特別ルールはルールではなくなってしまいます。これは小学校教員なら誰でもわかる話だと思いますが、集団の質というのはかなり予測の難しい話であります。成員が一人変わるだけでガラリと変わることもあるからです。クラス分けをうまくやる方法を考えるのは現実的ではありません。教員の側からも保護者の側からも。クラスは開いたものに合わせるしかない、実はこんな簡単なことも教育現場では共通理解にはなりません。理由は簡単。無能な人間ほどなんとかしたいと願い、なんとかなると信じているからです。ただ信じたいという一方的な思い込みを他者に強要するわけです。無能であればあるほど。
これでもそれましたが、最低限のラインの力というものが大人の側にも子どもの側にもあるようです。これは家庭にも。後述しますが、これさえ担任とマッチすればその一年はうまくいきます。「良い先生」というのは個別の感覚に過ぎません。教員の間口が広ければ子どもの側の多少の困難は拾えます。得手不得手もありますが。やんちゃが合うとか賢い子が合うとかいうことです。この間口の広狭をなんにもやらない教員と見間違うと後々大変なことが待ってることになります。回避タイプの教員は課題があったときにそれこそ責任回避に走るからです。そうならないように防衛するには最低限うまく人間関係を立ち回り、メンドーな関わりを耐え抜く力を子どもと家庭が持っておくということになります。学校に通うだけなのになんかすごい難しいことを要求されていると思うかもしれませんが、元々子どもはレジリエンスの化物なのでフツーにしとけばよいということです。保護者はドンと構えておけばよいということです。
”これはサポーターの能力次第とのトレードオフになるのですが、それに最大限甘えるのは得策ではありません。これは明確に働き方改革に逆行するからです。子どもの政策にカネがかかるというならそれは少なくとも費用負担者が考えるべきハナシで労働者に押し付けることではありません。これが教員ブラック化の犯人なのです。もちろん子どもをサポートのらち外においたのは国民です。
それは国親という思想のもとでもその国民が正当化される部分は非常に少ないと考えます。このへん話が大きくなってきたのでまた明日。”
→ここから働き方改革につながっていく話になりました。というか先般はこれでそれてしまったのですが大事な話です。教員が子どもをサポートするとなった場合、その教員がどれくらい合わせられるかによって子どもの集団への馴染み具合や能力の発揮具合が違ってきます。「子どもを変える」ことのできる教員というのは存在するものですが、そこに最大限甘えてしまうのはどうだろうということです。というのもそこら辺は必ずしもその教師の匙加減が正解しているとは言えないこともあるのが難しいところなんです。合う合わない得手不得手も踏まえてもです。というのはいいように次にバトンタッチしても活かされないこともあれば悪いように変わっても次の年に活かされることはあるからです。これにフツーの教員の良さまで重なってくると余計判断が難しくなります。さらに実際の判断を大きく邪魔しているのは、文科省や中教審、大学教員やマスコミが流す「実現不可能ではあるがなんだか耳障りのよい言説」なんです。この言説は教育現場ではさまざまな理由によって実現は非常に困難です。中にはそもそも妄想のようなものもあるので困ります。
一例を挙げれば小一の壁などというものは実際には存在しません。もしあるとすればそれは教育システムの中にあるのではなく、子どもの家庭の事情の中に存在している感情の話です。それは現場の教員がコミットできる代物でもないし、学校組織には関係のない話です。もちろん耳障りは良いし、解決に資することができるならそれは素晴らしいことには変わりない。しかしそれは教育システムが抱える問題の中では優先順位がそう高いもんでもない。勝手にイナゴが群がって話を大きくして注目を集めただけです。
教員が教員として向き合う必要のあるべき話かどうかは実は文科省の考える話ではなく財務省の金の使い方の話であるだけの話です。そこは明確に区別すべきです。これは首長が加減しても良い話です。どうあれそこを現場の労働者に問うべきではない問題です。
誰が追うべき責任で、その責任にどれぐらいの費用負担をすることが正当なのかということをきちんと考えていかなければいけないということです。その全てを特定の教員に押し付けるように進めてきたのが今の日本型学校教育です。そのシステムを社会的に容認したのも社会システムとして運用したのも実は国民だったということです。
それは政治にしたって教育にしたって、国民的な合意が必要なところをタブー視してその合意を避けて通ってきたツケが至るところで表出し始めてきたということです。そもそもその部分で国民を助けていくのが大学教員をはじめとする知識人であったり、マスコミであったりするはずだったのに実際は最もそうしたことをタブー視している張本人になってしまっていることが今の教育が抱える問題の元凶なんでしょう。
本来子どもは国は親のような存在になって責任を持って育てるという発想で成り立っているはずなんです。そのために必要なコストというのは何を差しおいても捻出するのが国の役割のはずです。そしてその捻出が不可能な場合は国民が協力してその役割を背負う必要があります。もちろんその場合はきちんと運営ができない為政者を国親の代わりの役割を果たした国民の名の下に退場させることは正当な行為となるはずです。こうした純正の方向への回転が行われるようにしなければならないのに今は適正な予算執行ができない為政者の責任を教員が押し付けられることになっている。それでは教員になりたがる人間はいないということです。都道府県の中にも明確に自分たちの巨大開発の失敗のツケを教員などの現場の公務員の給与を削ることで捻出している官僚がいるということなんです。それは純正の回転ではなく、非常に歪な回転であるということです。
これをなんとかしない限りは教育の正常化はあり得ません。