学校内にフリースクールを作ればどうなるかくらい考えたほうがよろしいのではないでしょうか?

想像力が足りない。
ただその一点。

 実はこれは新しい取り組みでもなんでもなくて、学校管理職(この場合は裁量権のある校長を指す)さえ了承すれば行える実践であることはある程度周知になっています。一般化もしている。規模の大小に関わらずそこここの公立学校で気づかないうちに起こってしまっていることです。保護者が気がついた時にはもう遅い。それは決定事項だからです。それを望まない保護者がいてもお構い無し。それ以上にいるそれをどーでもいいと思う筋への配慮はないのです。実は意見を言わない筋への配慮というのが取り組みの成功には不可欠だということは最近よく思うことです。神は細部に宿るということはその一端に触れている気がするのです。

 私が申し上げたいことは一点。
 フツーの子どもが疎外されることだけは避けなければならない。頑張っている子どもの方が評価されないということは避けなければならない。ということです。2つ言ったかな?

 繰り返しになるけれど、援助の必要な人間と自助が必要な人間を取り違えてはならない。この勘違いを一般化してはならないし、この勘違いを専門性と言ってはならない。はっきり言っているけれども心理職の中には勘違い=専門性と言って憚らない連中が存在している。
 それは教育と福祉、心理にとっての相剋であるし、結果多くの子どもにとって良くない影響を及ぼすのではないかと思っている。

 ここから先はマジョリティ・マイノリティの話にもなってしまうのだけれども話はそう単純でもない。多数少数の話が単純というのではなく、それだけで構成されていない複雑さがあるという話である。それが集団を個々として教育するときに難しい話なのである。

 人間は個人として教育活動の影響を受けることもあれば、集団として影響を受けることもある。その領域は区別することができない。全てを学習活動の影響として受け取ってしまう。受け取ってしまうこともあれば全く受け取らないこともあってそれは結果論でしかない。しかし教育はなぜか全てを受け取ってしまう前提で設計されその設計に基づいて評価が行われるようにできている。ほとんど全ての教師がその前提においてその子ども個々を評価しているのである。そのインフルエンスが個人的に受け取ったものか、集団的に受け取ったものかはさほど問題ではない。

 特にこの傾向は低年齢であればあるほど強まる傾向にある。いわゆるふざけというのはこの部類に属する話であるし、〇〇デビューやいじめの中にもそうした要素で起こっているものも少なくないのではないかと思っている。クラス分けや担任との相性を強く結果として採用してしまうこともあれば、全く採用されないこともあるように。同時に特別支援教育・通級指導教室の対象にあるような子どももその傾向が強いことになるように感じる。
 とかく子どもは環境の影響を受けやすい存在であると言える。もちろん熱し易く冷め易いレジリエンス強めの側面もありはするのだが。

 そうした状況で学校内にフリースクールを作ることがどういうことになってしまうかはよく考えた方がいい。あることが悪いというよりそれがあることによってどういう学校空間、学校集団、クラス集団が形成されるかについてよく考えた方が良いのではないか?

 これを設置することを決定する主体は、(ほとんどの場合が)こうしたことを理解できていない学校管理職や教育委員会制度である。もちろん地方自治体議員も学校のそうした塊が持っている特性については知る由もない。そもそもこうしたことに対する理解が少ないのであって安易にこの手の取り組みに手を出すべきではない主体である。

 これはフリースクールが良い悪いという話以前の問題なのである。フリースクールが良いか悪いかはよくわからない。それは知らないという意味ではなく、子どもの前提と結果論の連結の問題としていくら考えても結論の出ない問題であるとしてのわからないである。現時点の私には。

 ただ一点問題になるのはコストであるのでそこは個別に解消していただきたい課題ではあるのだけれども。

 なのでここで触れる問題というのは学校内フリースクールが設置されて運用される影響、とりわけフツーの頑張ってる子どもに対する感覚から生まれる、その背後にいる保護者の心情から生まれる、学習集団としての質の変化に関わる問題なのである。

 道徳を高めれば社会がうまくいくという発想はすでにうまくいかなかったのではないかと思っている。道徳を教科にしようとした人たちの中にはそうした短絡的なことを考えていた人たちが一定割合いたと思うけれど。もちろんそれだけの効果ではなく、道徳的価値を思考し協働することを目指した筋もあったでしょうが。しかしそうしたことというのは強制できないことであって、国家権力の弱まり、ムラ社会の崩壊流動化や宗教がないことは日本にとって必ずしもよい影響ばかりであったといえなかった事情があったとしても、そう簡単に結果を伴うものでもない側面があります。

 道徳の問題は学校内であってもこうした判断、規則の順守、寛容、集団生活の充実、公平公正社会正義、節度節制といったことが充足する難しさに直面しているということなのだろうと思います。校内のフリースクールは今挙げた道徳の目標をきちんと取り消している、取り消すことを学んでしまう、ということにならないか?ということです。

 それが先程から語っているインフルエンスの内実になりはしないかということです。この一端をもって悪影響と断ずることはないけれど、それが善くないことに繋がっていく場合には対応しなければならないけれどこうした独断でなにも分かっていない人間が設置したものがこの対応をするとは思えない。そもそもそうした悪影響に対しても見て見ぬフリをするしか道が残されていないのではないかと思うのです。
 そこには設置することはそもそも善というあきらかに対話と合意と了解と配慮を欠いた独善しかないという私の仮説があります。もちろんココロプランに提示されている(たしか4つあったような)重要な取り組みであることは承知しています。人的配置や予算、責任について全くのザルであることはさておいても。

 しかしそれ以前の問題として今日述べたのはこれが学校組織(づくり)に与えるよくない影響として、がんばることの教育的価値と評価ポイントとして、子どものレジリエンスを信じることととして、もう少しきちんと考えるできないなら対話する必要があるのではないかという話なのです。

なんでもやりゃいいってもんではないでしょ。

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