職員室の組織開発
コンサルさんのやっているYouTubeを見ていてなるほどなーと思うこともあり、それじゃあんまり変わらんでしょと思うこともあり・・・職員室の組織設計と組織開発という視点で見てみるとどうなるかなーと思って割と端折って考えてみます。あんまりコンサルさんのいうことを信じていないので。でもなぜ信じていないかということは語っておかなければならない。そしてその人たちの手法のどこが教育現場と合わない、もしくは合えないのかということを考えてみることには価値があると思います。
すごく単純にいうと今、「伴走」ということを教育関係で口にする人たちはこの手法を使っているからです。これがまずマズイ!と思う。
ミドルリーダーとかいう言葉もここに出てきます。興味があればこちらをみてください。
組織設計→組織開発というのは簡単にいうと組織を変更してそれがうまくいくように改善を繰り返していくという長期的な取り組みを業務として行うということです。
大企業ではこうしたカネも手間もかかることをコンサルに丸投げしてやっているということになります。中小企業でも危機感を持ったところがやっているようですが、
質の高い戦略を実行に移すことは難しいというのはまさに主体的・対話的で深い学びが学校現場に取り入れられる様と重なっています。無理やり実行しようとすると質の低い方法でしか実行できないのは致し方ないということです。思い当たることの多い示唆であります。
となると伴奏者の意図を汲んでいくためにはどれだけ主体的な集団になるかという元々抱いている困難に逆戻りしていくことになります。これは強要できない。それは学校組織が元々抱える学級業務と学校業務の股裂状態があるからです。その股裂を対立のままにしておかないようにするにはどうすれば良いかということが大事なのだということはこのコンサルさんの曰うところでありました。それはわかる。対立があることが当たり前であることを合意するだけで随分違うというのはその通りであると思います。どうしても組織は失敗や間違いを悪だとしてしまいがちですが、それ以上に職員室は対立を悪だと思いがちです。意見対立も含めて。特に若者に多い感覚なのかもしれません。少なくとも職員室で意見をぶつけることが怖いことではないことをわからせておくことも重要であるということなんでしょう。これは興味深いです。わかっていてもできないことの上位なのでしょう。
その対立を解消するためにはうまくいっているというのはどういう評価ポイントを生産性の高まりにおいてみるのはどうだろうということです。
その評価ポイントを守りながら、つまり自分のクラスの生産性を高めながら学校が持っている戦略と仲良くすることを学校業務にしていくというアイデアはどうだろうと思った訳です。
学校では必ずやらないといけない業務というのがあります。クラス担任としてやらなければならないことです。しかしそれだけやっていても上手い教師にはなれないし、自分が楽になっていくことも、学校が良くなっていくこともありません。また必須業務だけで生産性を上げても学校業務にはコミットすることができません。それで学校業務にコミットすると単純作業の量が増えるだけで良いことは一切増えないからです。そんな人が新人を指導すると良くない文化を再生産していくことになってしまいます。しかし必須業務と新しいこと・やりたいことを重ねてしまえば単純に業務量が増えますので残業や持ち帰り仕事に転化しなくてはならなくなってしまう事が現状の課題です。それは学校や文科省の戦略と付き合うことでも同様です。この文科省の戦略のことを研修とするのが今の教育委員会の業務内容なのだろうと言えると思います。
このことにきちんとフィットする教員が増えるようになることが文科省の官僚たちの狙いでもあるのだろうけれどそれは実際に教職という仕事を持続的にするためのエッセンスでもあるとは思います。しかしそれは前提としての基礎基本の前の準備運動ができていての話だとは思います。それすらできないで持続可能な人間というのはズルをするしかありません。まぁ何人かはそうしたズルをして定年を迎えた人間を見ましたけれども。それはご自分にとっても周りにとっても良いことではありません。あれじゃしんどいと思いますよ。少なくとも私はしんどかった。
それはさておき少なくともその按分のやり方を教えてあげたり、そうした事が業務内容として確立できるように職場を整備してあげる必要が、少なくとも(生活のためではなく)教職を続けていきたいと願う若者のためにはあるのかなと思います。
そのためにコンサルさんがいうのは個人にとってはマインドセットを伝授し、集団にとってはカルチャーを根付かせるということです。
それはある意味で流動性が高く、ある意味で固定性の高い集団である職員室にとって厄介な部分です。特に別にやりたい学年や教科でなくても働くことを強要され、転勤により文化的な自由が保証されない適材適所とは程遠い当てはまればなんでも良いというような人事をするのが学校の常です。それではカルチャーをコントロールすることも合わせることもその流動性によって最初から難しい。それだけではなく前にいる人・長くいる人が幅を利かせる上下関係によって固定がより固定化させる習性を持っています。
文化を変えることが学校を変えることだとわかっていてもそれはなかなか実現しにくいし、実行しようにも労力がかかりすぎるんです。その手法からは諦めざるを得なくなるということはよく理解できると思います。
ということは結局、教育現場という就業形態の困難さはカルチャーを作りにくい要素があるということを前提に話を進めなければならない。よほど優れた学校経営者がいれば話は別なのだろうけれど、今の選考形態からそれは著しく現実的はありません。それは中の人である私がよくわかっている。
にも関わらず、VUCAを説いて学校組織に対して一般大企業並みの変革を求めているのが今の文科省や先進的と勘違いされている市区町村の教育委員会なんだということです。
しかしややこしいことにこの外圧に伴うように、学校内ではそれにインスパイヤされるやる気のある教員というのがいるのです。それは悪いことでないのだけれども、その人たちは集団として質の低い職員室に質の高い戦略を採用するというコンサルさんが実現しないよねと指摘することを力一杯率先してしまうことになってしまうんです。しかもそのうまくいかないことをコンサルさんのように(もしくはいつも選挙で負けるのにポジティブな総括をする某政党のように)うまくいっているかのように詐称の言語化することでそうした人間が学校管理職になっていく現象が起こってしまうのです。これでは学校経営者というのは嘘つきの集団になってしまうじゃないか?と思われるかもしれませんが、実際教育委員会指導主事も含めた学校経営者というのは本当に成果が上がっているかということに対してシビアにみると怪しいことを撒き散らすことを仕事にせざるを得ません。しかも単年度で入れ替わることの多い教育委員会制度のもとでは腰を据えた変更というのが行えないようになっています。それに合わせてその下にぶら下がる学校組織の長だけが右往左往することになります。
会社組織であれば長期的にみて儲かるか潰れるかの二者択一で済むのだけれどもどちらもない公務労働組織というのはそうはいかないということになります。
そうした中でこれらのコンサルさんから学んだ知見を生かして実践するということになるんですが、大きな抵抗勢力はやる気のない教員ではなく学校管理職や教育委員会、そして多分労働組合なのだろうと思います。これらの人間のとっては組織開発されて主体的な人間が多く生まれることが自分たちの出番が減ってしまうことを意味するので具合がよくないだろうからです。
それが嫌なら自分たちはその役割を果たせば済む話なのですがね、という堂々巡りに対しては彼ら独特の攻撃性を発揮するような気がします。承認欲求の化け物なので。
こうしたことはやる気なく、成果を求めず実践するのが一番体に良いのかもしれません。コンサルのように金になるのならいざ知らず。