学校「現場」改革はカネでもなければヒトでもない

 現場を知らない。ゲンシツを知らない。
 政策立案の過程がややこしい側面を持っていることはわかる。文科省をくさしたくないとのたまった聖人教員がいらっしゃるらしいが、現場で教員が死んだり、辞めたくもないのに来られなくなったりしているのを知らないのだろうか?
 ここまで事態をほおっておいて働かせ放題ではないと言い切る文科省などくさされて当然の対象である。まだ仕事するチャンスを与えているだけみんな優しいと思ってもらいたいぐらいである。彼ら彼女らはこの現場の悲惨な状況を知っていたハズ。さらにコロナの状況がかなり大きなダメージを追加することもある程度予測がついていたと思う。全面休校は寝耳に水だったとしても。
 コロナは現場に絶大な混乱をもたらした。それは文科省と教育委員会制度、学校管理職という既存のシステムのせいである。
 そして今改革すべきなのはここにメスをいれることである。カネでもなくヒトでもなく。
 今、こうしたカネとヒトの議論に荷担している大学教員や学校教員は意図的にこのシステムを守ろうとしていると思われてもしょうがない。意図的かも知れないし、無意識か無学なだけ知れない。
 現場にはカネもヒトも充足している。足りないというのはおサルさんがもっとエサがほしいというのと同じ思考であり、そこに乗っかる政治や労働組合の思惑である。まあキツく言えば「足りない足りない」詐欺の遣り口である。

 分配の手法がおかしなことになっているだけなのだが、この分配を担っているのが先に挙げた面々ということになるわけです。
 そこには非常に個人的な思惑が蠢く伏魔殿であります。上から下まで。学校管理職であっても平然といじめを行うし、見て見ぬフリをする。それは文科省でも同様だったというのはこの期に及んでNHKの定額働かせ放題の指摘にクレームをつけたことからも良く分かると思います。これは文科省の規定に基づけば、立派な「いじめ」です。実際に死んでいる人間もいるし、イヤだと言っている人間もいるからです。しかも山ほど。文科省のいう被害者準拠論に基づくいじめ規定なら間違いなくいじめ認定すべき事案です。さて文科省はこの事態にどういう言い訳をするつもりなんでしょう?大変興味深い。
 
 それはさておき、教員の待遇改善を語る上で子どもや保護者のことを言ってもしょうがない。そこに対応するのが教員の仕事だからである。しかしながらそれに対応できるように仕事の枠組みを変えていくのは教員の仕事ではなく、文科省や教育委員会制度や学校管理職の役割であったはずなんです。
 そこから目を背け、教員任せにして丸投げにしたのはまずは管理職。そういう人間ばかり選んで、かつそういう風に振る舞えば出世できると教育したのは教育委員会。
 余談だけどこうしたことに明確に逆らうのは外部から参入した工藤氏や藤原氏など教員免許を持たない校長たちである。たまに木村泰子氏みたいなちょっとおかしな教員出身の校長もいるにはいるけど。この人たちは学校文化を否定する側として機能するという利点があるが、逆に教育の国家的な機能に対する理解が欠けているのでビジネス的な偏った発想や子ども中心に偏った発想しかできないという明確な弱点があります。
 その立ち位置ではパブリックで持続的な文化というのは作れません。単発の打ち上げ花火を打ち上げて人目を引くぐらいしかできないということをもしかしたら彼ら彼女らも自覚しているのかもしれません。それほど教育委員会制度というのは強固なもんです。日本においては。鎌倉市がそうした新しい教育長を指名してもやることはこれまでの教育委員会制度と全く同じです。この制度はどの方向であっても教育を締め付けることしかできない制度なのです。私が教育委員会に制度を付ける所以です。文科省とて同じ発想できています。
 だから自分達に替わりはいないけど教員などいくらでも替えが効くという考え方をするのです。
 このこと自体が今の教育に暗い影を落としていることにそろそろ気づいてはどうでしょうか?

 今考えるべきは、ヒトでもなく、モノでもなく、カネでもなく、制度です。しかしコロナではっきりしたのは教育は止めてはいけないということ。止めればその分リカバリーにかなりの労力が必要になるということです。
 実際、コロナに附随した意味不明の政策のせいで、余計な仕事が教員に振り掛かったわけですし、不登校対策やGIGAなどは本来の教員の仕事ですらなかったハズのものです。こうした思いつきの施策はなんの予算措置も人的措置もなされていないし、方法や内容まで現場で考えろというものも珍しくありません。
 それは文科省から都道府県教育委員会制度に丸投げされ、それが市町村教育委員会制度に孫請に出され、各学校の管理職に曾孫請に出され、最後に一般の教員に曾曾孫請をムリヤリ押し付けられることになります。ちなみに研究指定を受けたり教育論文を書いたりする連中はこうしたことを下支えする悪い教員です。訳知り顔で意味のないことを解説して悦に入っているんです。それはまさしくミシェルフーコーのいう規律権力の具体例です。

 本来であるならこうした教員が不適格教員であるべきなのです。こうした教員はマニュアル本を書きがちというのは間違いのないレベルの経験則です。

 今教育現場で高い評価を受けている教員は、学校管理職や教育委員会の指導主事、実務家教員に転身した者などは、本来なら逆に教師失格の烙印を受けるべき使えない連中として認定されなければなりません。
 口先三寸で他者を貶めて自分を高めることをした人間がそうした地位を獲得している場合が非常に多いからです。(全部がそうと言っても差し支えないレベルです)教育実践発表や教育実践研究というのは少なからずそうした側面を有しています。そこで華々しい成果を得るにはそうした面で秀でた成果を上げるための努力をしなければならないということに他ならないからです。
 そうでなくても評価の難しいのが教育の特徴です。5年も経てば消え去るようなことに注力してそうした立場を勝ち取った人間たちにこれから先のことなど分かろうはずも無いし、国家百年の大計を委ねられようはずがないこともないということです。

 今の教育改革、学校改革はとんでもない見当違いをしています。
 「学び」と同じでそれは学んだ先にしか分かりようのないことなのかもしれません。しかし今確実にこうしたことに対して異議を唱えておくことは非常に重要です。そして彼ら彼女らがそれに対して明確に反論もできなかったことを記憶しておくことも重要なことです。
 この先の失敗をきちんと軌道修正して調節していくのは、どうせ現場の「逃げ出さない」人間だからです。この我慢強い真面目な人間たちが一番報われるような制度設計をした方がいいですよというだけの話です。
 無駄なカネを使って無用な教員や教職員組合、学校管理職を肥え太らせるような愚をまた政治は行おうとしていることを胸に刻んで、来るべき日に備えておかなければならないということです。
 そろそろ報われたいなぁ。

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