閑話休題 御上先生 第3話 学習指導要領と教科書検定の間には関係がない

 検定に合格した教科書を使わなければならない。これは学校教育法34条だっけ。そして学習指導要領を遵守しなければならないは学校教育法施行規則第25条かな?管理職選考の燃え滓程度のうろ覚えですが。

 これらに連結性はない。
 そもそも教科書会社が指定する内容が、意図している教科書の使用方法が、学習指導要領とピッタリ一致している事はない。それどころか誤読しているとしか思えない解釈すらある。もちろん個人的な感覚ですが、それは証明のしようがない。
 そもそも検定そのものが厳密には教科書が学習指導要領に則っているのかを判定しているわけではないからである。それ以上にそれ以外のパワーバランス、言い方を悪くすればお付き合いがはたらいている事だって想像に難くない。昔教科書にチャレンジして上手くお付き合いできなくて経営が傾いてしまった会社に印税を放棄させられた経験があるのでそれは間違いないのです。まあ新しい教科書を作る会(そういえば西尾幹二さんが亡くなったのはついこないだの話でその時にもこの騒動のことを思い出しました。)のことが話題に上っていたのは私がまだ大学に片足を突っ込んでいた時期だったのでよくその議論をした時にも似たような話は山ほど出てきていました。真偽の程はさておき。

 まあ私にとっては面白い思い出話ではあってもこれを唐突にぶち込んでしまっては一般人は「はぁ」(色んな意味で)ってなもんだよなぁと思いました。
 その時に中学校の学習指導要領が官僚に評判が悪いみたいに話が出てきたのですけれども、ではどこなら評判が良いのだろう?家族の平和のためにあるのではないのなら何のために学習指導要領があるのだろう?ということは論点としてわかりにくかったのです。
 問いはたくさんあったけれど、どういう論点だったのかということです。どういう提起であったかということです。
 学習指導要領というのは一律のスタンダードのためにある、そういう解釈でいいと思います。それは平等のためです。それは機会平等でも実質平等でも結果平等でもなんでも良い、そこは問題ではないと思う。教育の方向性としてのスタンダートとしてということです。故に年を追うごとに内容についての記述というのは減ってきている。非常に曖昧な記述が目立つようになっている。それが勉強していない管理職から見れば非常に新鮮で高邁に移ったとしてもそれは致し方ないように思う。それは第3話を通して工藤勇一さんが示した何かを書いてあるようで実は何も書いていないのが学習指導要領の実体であるという指摘なのではないかと私は解釈するわけです。
 その先は自分で考えろ=エリートというものはそういうものだということです。学習指導要領というのはそういう考えた先に何かがある代物だよと解釈しているのではないかと思うのです。それが教育の指針としてよいのか?とは思いますけれど。

 そもそも先に指摘したように、ドラマで高校生役の子達が言っていたようにどの論理にも固定的な価値観もなければ、関連性もない。
 日本のこうした教育制度というのはそうした連結性のない一個の個体として様々なことが並立している状況で成り立っているということなんです。そのことを全体的に外観して論じることのできる人間が日本にどのくらいいるのだろうということです。知識として知っている事はあってもそれを教育として全体的に論じることを、対話することができる教養を有していかなかればならないし、そうした場を設定することが必要ではないかと思うのです。

 それはいじめの防ぐためにピンクのシャツを着るというようなことではない。できないことでも論じなければならないし、できることでも排除しなければならないことがあるというようなシビアさではないかと思うのです。

 すべての個別が連続的にあるのに、それを連関で見ることができないし論じることができないもどかしさを感じる時がある。それが今回のドラマで(おそらく)生徒の数だけ教育問題が割り当てられるということになるのではないだろうかと思うのです。その場合それはできないことであるとはっきり言わねばならない。
 それは御上先生が学習指導要領と家族の幸せは関係ないと言い切った時にビビッときたということです。本来関係ないことには関係ないと言い切らなければならないのにそうはなっていない教育の理屈が現場を苦しめるということにつながらないだろうかということをやはり感じたということです。

 しかし排除するだけはいけない。それができるために論じるためには一旦忘れて、傍において(エポケー)からそれを実現するための対話をしなければならないということなんだと思います。

 寄り添うことを忘れておもねってしまうのは味噌もクソも一緒にしまってから対話がスタートしてしまっているところにその問題点があるということです。言い方はどうでもいいけれど、熱い心に対して冷たすぎるぐらいの理性が個人のなかで拮抗している集団でなければそこに時短されながらも建設的な盛り上がる様というのは生まれようもないのだろうと思うのです。

 一体どこが問題なのか?一体何を目指しているのか?優先順位をどうつけるのか?少なくともこうしたことに合意するための準備する時間が保証され、了解するために知識の蓄積が準備されることが学校内で用意されなければ学校経営そのものは有効にワークする事はないのではないかと思います。

 別にそこまで高まらなくても学校という場での教育はそのまま流れていくことの可能です。それがなくても今まで通りの教育体制を維持していくことはそう難しいことではない。とりあえず1年を乗り切っていけばそれ以上のはその先の1年で考えればいい話だからです。

 しかしこの先日本の学校教育が永続的に安定性を保つためには教師個々人の能力の増加というのは欠かせないと思います。残念ながら日本の教員養成というのは1年単位でぶっちぎって今の体制を維持することしか目指していません。その能力すら養成しているかどうかもかなり怪しいのですが・・・。これはOJTどうのこうの言うレベルの話ではありません。そもそも教育委員会、学校管理職には教員養成能力がないからです。これは歴史が証明しています。これらにできることは維持することだけだからです。

 独自教材を使うことが生きる力に連結しているかどうかを判定できる人間というのは、判定の上でその判定に責任を取ることのできる人間というのは日本には存在しない。これはゲームマスターのいないカオスなゲームに過ぎないということを理解するところから始めなければなりません。辞めさせられるまで固執するのではなく、そこは遵守しながら学習指導要領に合うことを実現するところがこの問題提起の出発点ではないかと思うのです。

 この問題は実は御上先生が最初に指摘したところに立派に戻ってくるんです。そうしたことをきちんと実践する人間というのは結局出世しないで教育行政の中枢に「参加する」権利を獲得することができないということにつながるのです。おそらくこのドラマの「教育的な価値」の主張は最終的に(工藤さんなりの)文科省が司る教育行政と子どもの将来との相剋での着地点に落ち着くことになると思います。

 ドラマなので面白ければ良いのだろうと思います。
 しかしせっかくなので教育行政が抱える「真の闇」に迫ってもらえると良いのではないかと思います。それはそもそも日本型学校教育ではそのシステム上「正しい(ことへの)評価」が行われていないということではないかと思います。一言で言えば。

いいなと思ったら応援しよう!