軽々しく「やってるやろ」と言わない学習集団
まぁ似たようなもんです。
問題としてはどっちが口に出すハードルが低いかということになります。
というか口に出すより、そういう心情を抱く子どもがクラスルームに多いかという話になると思います。
この感情を持った子どもが多いクラスルームは学べません。これを子どものせいにして解決しようとしているのが主体的な学習であるという見方もできると思います。なぜなら主体性に訴える学習というのはおしなべて、子どもの責任でそうしたやってるからええやろという感覚を抱くことを押し込めるやり方をするからです。言い方は塗りつぶすでも、すりかえるでも、置き換えるでも、可塑するでも、導くでもなんでもいいです。
問題はそれでは「学んでいるつもり」を乗り越えることはできない。相対的に見て学習効果が上がっているように見えるように操作することが可能だとしても、なま物である教育の結果を比べることは歴史にしかできないからである。
問題はそうした感覚は感染するということです。そうした感情を抱く子どもはなぜか仲間をつくって引き込もうとする傾向が強い。できない自分を肯定するためにできない仲間をつくろうとする。もし自分より弱点より低い人間がいればもう安心。その人間がより育たないように注視注力します。そうした友達関係は一見仲良く見えますが、お互いのためにはならない人間関係です。
こうした人間関係が渦巻く高学年の闇に気づかない小学校教員は結構多いんです。特に六年生の一年間は学習集団として機能させるより無事に出ていってもらうことに焦点化されるのでこの関係性が持つ危険性はどんどん増していきます。ほとんどが何らかの形で破裂することになるのですがなぜか常に担任は責任を外部に追放します。教科担任だったり、専科だったり、友達だったり、保護者だったり、地域のスポーツ組織までまきこむこともあります。
たとえ破裂しなくても、これじゃまずいんですが、システム的にこれをリセットする働きをするのが地域の中学校になるということです。
昨日ずいぶん中学校をディスったようにみえるんじゃないかと感じたので一応フォローしておきます。中学校は生徒指導と部活に特化し、教科担任制により人間関係を流動化して学習集団を指導します。これは個々別々に在るのではなく、相互に補完してその弱点を補っています。もう少し今風に分析すればどれも同じ要素を違う割合で含んでいるという存在が別々に存在するともいえると思います。そういう意味で小中一貫校はその六年生の難しい一年間を分散させるのに有効に働く面もあるということです。しかし仕事量は保存なので、見栄えとしてどちらがよいかというだけのことなのですが。
ここで重要なのは謙虚な姿勢で学ぶ学習集団を形成するという視点です。それは学習を丁寧に行うだったり、学習に時間をきちんと取ることだったり、学習をより深めたり、成果を欲張ったりすることです。外部的な力や欲求に頼らず己の力だけでそうした状況を作り出していかなければなりません。そう書いていて思い当たるこの行為の訓練というのは?そうアレです。宿題なんです。公文式なんです。
ということは宿題を廃止する行為というのはこうした訓練に触れる機会を無くしてしまうことに他なりません。宿題というのは非常に主体的な行為になります。なぜなら監視者がいないところで行う学習活動だからです。監視も励ましも叱責もありません。
しかしデキに対するレスポンスはあります。
マル付けの業務委託やDXについて以前としてそれを活用すべきだという教員の意見を見ますけれど、そこに賛同できない理由の最大は宿題を出す人間と丸つけする人間は同じであることが重要だからです。
できればテストを作る人間と丸つけする人間が同じであることも望ましい。(業務時間的には非常に厳しいけれども)それは意図と結果の「答え合わせ」をすることが教授の質を高めるためには一番役に立つ「主体的行為」だからだということです。
こうした学習の苦行面に対するコミットを不要であり、省くべきことによって学習が進みやすくなるというロジックを見かけますがそれはどうでしょう?そうした苦行から離脱は早晩、学校へ行くことから離脱する子どもを大量に生産することにつながっていく恐れがあります。それがたとえレジリエンスの化け物である子どもという生き物であってもです。
それが学習知の獲得だけに矮小化されれば尚のことです。偏差値教育の時から散々批判されたそうした学習知への姿勢は、実は今最大化されてきてしまってきているように感じます。教育現場の感触として。
それがやってるやろという自己評価をしてしまう子ども自身に現れていると感じるんです。それは自意識が膨らみ自尊感情だけが一人歩きする現代の子ども像と非常に重なります。こうした人間の自己評価を教育評価の一つして取り入れることには違和感しか感じません。それは謙虚さの欠如は学習者の主体的な意識としてどうなんだろうということです。
先人の偉業や教える側の倫理や強制・矯正によってなんとか子ども達を謙虚な方向へ導いていくことが学習集団の形成として今こそ必要だと感じます。しかし指導や懲戒の範囲が非常に狭まっている教員にとってこれを導いていくことはなかなか難儀な作業です。重ねて困難なのは道徳の価値判断が個々の心情に委ねられるべきだという教科としての道徳観が浸透し始めていることです。
宗教的なバックボーンのない日本においては、こうした自由による悪影響の重なりがある現代社会というのは学校の成果には強い逆風になってしまいます。その具現化としての尊大な子どもをなんとか引き戻して、謙虚な学習集団を作ることに力を入れるための方法を考えていかなければならないと思う今日この頃です。
まずはそう視点を持って流れに抗っていく姿勢を崩さない、そうしたメッセージを学習集団に伝えていく、押し込んでいく、ということが普遍になるようなクラスづくり、授業づくりをしていかなあかんなぁと思いました。なんだか頑張らなあかんことばっかりです。
やはり教職は精神的に堪えるブラック労働です。