戸塚ヨットスクールと明治大学野球部の違い

 戸塚のYouTubeの件を過去の経験も踏まえて書こうかと思ったが、あーいうことに少しでも資するようなことはイカンと思って止めていた。
 しかし先般古田敦也さんのYouTubeを見ていて(おまえどんだけYouTube見んねん)繋がったことがあった。

 プロ野球界に一番多くの人材を輩出している組織、しかも継続的に超一流に人材を供給しているという意味でもスゴい、明治大学野球部。

 このある意味暴力肯定集団と戸塚の違いは何なんだろうと思った次第です。
 たぶんやってることは同じです。もしかしたら戸塚より非人間的なことをこれまでのスポーツ界はやってきたのかもしれないというのは実は暗黙の了解だったんでしょうか? 
 そういえば戸塚もスポーツ鍛練を謳った集団だった。忘れてたけど。 

 エンジョイベースボールに象徴されるような今の状況というのは、ポストモダン的に言えば、不可視だった権力性が可視化されただけということなんでしょう。しかし全てが同列にポストモダン的な批判にさらされることは非常に違和感を覚えます。

 今の中途半端な知識人というのは本で得た知識だけでゲンシツを解釈しようとします。今SNSで行われる個々の意見表明と大学教員の紀要などでの研究は主張だけに絞って見れば、そんなに変わらないんです。そういう意味でも人文科学の書物の解釈だけの研究が導き出す結論というのはそう変わり映えのしないよもやま話にすぎません。
 しかしそうはならんだろと思うことが多いのは理論が悪いのではなく、当てはめる人間の読解力が低い上に経験値が乏しいためだということはまず理解しておかねばならないでしょう。
 というか一般人はポストモダンほど阿呆ではなく、きちんと否定すべき部分とそうでない部分をわきまえているのではないかということです。
 それが少なくともこの間のYouTubeでは区別されたということ。
 最近20年前の体罰やハラスメントを訴えたという話があったりするわけですが、それとも全く違う経緯をたどっています。その区別の基準は戸塚のように死人が出たかどうかでもないようです。気分なのかなぁ?というかその境目が叩く叩かないと同じくらい分かりにくい。

 たぶん戸塚の彼が言っていたこともそもそもそれってあなたの感想ですよねという類のもののです。しかし口に出していたか否かだけの違いであってこれまでのスポーツを取り巻く大人の考え方は基本的に変わっていないのかもしれません。そして学校教育はその側面を兼ね備えていたことを反省しなければならないのかもしれないということです。この点は行為の是非を問うよりは反省の視点として活かすことを考える方が良いと思います。

 少し切り込んだ仮説に持っていくとするなら、結局これは受益者の側の変容の感覚に、つまりに実存の問題ではなく認識の問題という哲学的に言えば時代を逆行することが問題の中心になるのではないかと考えます。もちろんそんなの当たり前だろと思われるかもしれませんが、実存として考えてからの認識に立ち返るというのは個人的には哲学的に二周くらい大回りしていると考えるところではあるんですが・・・

 受益者がそうした環境に身を置く中で、指導する立場の人間の意図がなんであれ、それに対して不満を抱く状況が日常化するかどうかというのはまずは「場の設定」になります。基本的に昭和のスポーツ集団というのは基本的に中学校の部活動ですらそうした状況であることがフツーでした。しかしこれにも実は全員が共通の場の決定にはなりません。なぜなら場が設定したレベルと個人のレベルの違いがその感覚の生成にかなり大きな影響を及ぼすからです。
 たとえて言えば、非常にレベルの高い子どもにとって今の学校教育というのは暇以外の何物でありません。しかし同時にクラスルームの中にはそうした要求ですら過重になっている子どもも存在しています。これは元来どちらの子どもが悪いという話にはならないはずです。もちろん教員の責任でも場の設定の問題でもない。それはそういうもんだからです。幾らかの抵抗があっても離脱の自由もそれなりに保証されているし。
 そこで場の設定が成立するかどうかというのはそれこそ個別の事情になってくるところというのもあります。これが認識。しかしそこに実存的に場の設定がないかというと教師のコントロール具合によって成立させることも可能です。こうした思弁的実存ともいうべき多面性があるという認識が必要ではないかということです。

 戸塚しても明治にしても場の設定という実存はあります。そこで行われているある意味の不条理も実存の側面もそして成員の認識の側面もあります。成員については管理する側、管理される側というセグメントではないのかもしれません。おそらくそうした実存に対しての感覚が麻痺している側と麻痺していない側というセグメントの方が合うでしょう。
 今の教育現場も辞めてしまうのは子どもだけではなく、教職員の方も同様だからです。それを個人的な感覚だけに収めてしまうのは我慢とか忍耐力とかいう話になるのでしょうが、多分これは認識の問題としてかなり曖昧で議論に耐えられるように代物ではないと思います。個人的な感覚である以上に時や気分によって変わることが良さにように捉える代物です。これは今ウェルビーイングという仮面を被せられてさも社会的に利用可能な価値のように謳われていますが、おそらく下部に蠢くこうした感覚を隠蔽しなければ一定の規定もできない机上の空論に過ぎないと思います。

 そうではなく集団の抱える問題に対して、たとえどこかでその問題が可視化されていたとしても、そこにコミットするかしないかを決めていくことの感覚が区分されていく過程でその集団がどういう集団になってしまうかということが規定されてきたのではないか?そしてこれからもそうした規定をされていくのではないか?ということです。もはやこうした状況に陥ってしまうとその集団に属さない人間の雑感というのは何に意味も持たなくなってしまいます。
 その集団を評価する実存が一定しないからです。事実だけを紹介することが可能になったとしてもその事実すら本当に確定的な状況であるかがアヤシイからです。

 こうした状況を生み出しがちな集団というのが教授も含めた教育が設定する場の困難さなのではないかと感じました。他方で役立ったという人がいれば、他方では非人間的な状況であったと評する人間がいるとしてそれが認識の問題に押し留められるとするなら、その実存は存在しないことになってしまいます。
 戸塚も明治大学もオリンピック選手の練習も修行も、そして家族を築くことや働くことすら大きな意味では教育の一部になってしまうからです。

 適当な評論では実存を作ることが必要だと思います。おそらく今回の戸塚のYouTubeに対してまともな実存的視点からの反論があったとは思えません。感情的な、見えていない、規定とも言えない規定に基づく、そうした批判自体があっただろうことは予想に難くありません。
 それは今教師と学校現場がさらされている筋違いな批判と同じだからです。それはおそらくSNSに溢れる誹謗中傷と同じ構造なのだろうということです。問題はなぜこんなことが許されるのかということです。

 こうしたことを避けながら、多面的に分析して評価をねりあげていくことが場の設定におけるカイゼンにつながるのではないかという平凡な結論です。そもそも日本社会は左がダメなら右に振れるという振り子型の問題が解決を得意にしています。同時に左がダメで義理と人情でなんとか踏ん張るという解決方法も得意にしています。
 日本においても細分化したモノの見方ではなく、学際的に大きな視点からのアプローチでモノを見ていく按分を増やしていく方が良いのではないでしょうか?同時にこうした考えが蔓延してしまうぐらい道徳的価値という観念が非常に合意の取りにくいモノサシであるということを合わせて了解しておかねばならないと思います。

 明治大学野球部が善で、戸塚ヨットスクールが悪という非常に単純な結論に対して異を唱えるとともに、そうしたモノの見方を場の設定という考え方と活かすとともに、実は教育という場の設定がとても困難な代物であるという認識に至ったわけです。こりゃ、どの方面からも攻撃しやすいのは当たり前なんだなぁ。そりゃそんな仕事やりたくないよね。ということ。


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