主体性をどうのこうのいう前に。

 目の前でだいぶ仕上がってきた学習集団を見ていて思ったこと。断っておくがそんなスゴいもんができているわけではない。
 ただ学習しましょうといえば学習できるだけの準備の整うだけである。そして学び始められるだけ、ただそれだけ。
 しかしそれを作り上げるのに、小さな工夫は散りばめてあるけれど、半年近く掛かるのである。うーんこれを解体するのはもったいない、そう思うのだけれども、私が受け持たなければたとえ全く同じメンバーであったとしてもその力は発揮できるとも限らない。次の担任さん次第である。一つでも学んだことが次のクラスルームでも活きればよいなぁと思うようにしている。

 これは確定的にいってよいと思うけれど、でき上がった学習集団であれば同じ授業をしてもやれる中身が違う。進度はもちろんそれを深度にまで持っていくことができる。その余分時間を簡単にはつくることができるからである。これはおそらく大学教員にはくわしくはわからないことであり、まぁ言ってはいけないこと(デリカシーのない発言という意味で)になってしまうのだろうということ。指導教員や助言者はガシガシ研究授業とか初任者指導でこうしたデリカシーのない発言を繰り返すのだけれども。聞いていて気分が悪いです。知能の問題以前の話です。

 とにかく転勤を繰り返して、いろんなクラスに入って授業を繰り返しているとその学習集団のでき上がり具合の違いが目につくのです。
 良い悪いの話ではなく、染み渡り具合としての学習集団とでもいいましょうか?私は細部にまですみずみまで意図も細かく行き届いている方が好きです。やりやすい。それはただの好みの問題です。しかしクラスルームが授業者の好みであるかどうかはスゴく大きい。やりやすいクラスは、飛び込みでいきなり授業をしてもスゴく合う。しかしやりにくいクラスは四、五時間やってもしっくり来ない。自分好みのクラスに仕上げるのに時間がかかる。そもそも持ち時間上、担任とは勝負にならない。勝ち負けの問題ではないにせよ。それでも週3時間で自分の方に寄せることはできるけれども、少なくとも私はそうしない。所詮担任以外は脇役だと思っているからである。それは卑屈なのでもなく、控えめなのでもない。それが役割なのだと考えている。脇役が目立つ映画に碌なものはない。助演賞というのは主演を立てられる人がもらうもんで主演を喰ってしまうようでは三流だと思う。
 たまに担任を乗り越えて自慢げな人、もしくは管理職がいるけれど、そんな奴はダメだと思う。確かに報われないことに対する苛立ちや目立ちたい精神はわからんでもない。特に高学年担任というのは偉ぶって他の教職員を蔑ろにしがちではある。しかしそこをグッと我慢。そうしたじゃない方の芸人みたいな人が報われる評価システムがあるといいなと思う。そういう意味では教師の評価システムは芸人さんの評価よりもレベルの低い評価しかしていないことになる。騒がしいだけの奴がMCになることは絶対にないからである。体育会系丸出しで中身のない校長や教頭や主事は山ほどいるけれども。というかそれしかいない。

 それてしまった。つまり主体性がどうとか、対話的がどうのとか、言う前に学校ではクラスルームが学習集団として誰にでも馴染めるほどの仕上がりを見せなければならないのではないかと思う。
 もちろん個別の事情で難しいことがあるかもしれない。でも主体性やICTの研究をする前に現場というものはそこを助け合って、手を入れて、その事情を乗り越えていくことの方が優先順位が高いのではないかと思う。そうしたことを放置したまま研究するなどということは、食事の準備をする前に食材を全部食べてしまうような行為だと思うのです。(上手く例えられているのかなぁ?)
 一時期ほど安心安全の学校づくりと言わなくなってきたけれど、クラスルームが学習に臨むにあたって障害のない状態になることを以て安心安全というのだと私は思う。それが実現して十分染み渡った後から主体性を考えることができるのではないかと思うわけです。ものの順として。
 学校がチームになるということは、そうした問題点に対して全ての人間が我がことを感じ、真摯にその問題に向き合い、自分なりにできることを自分で考え、少しずつでもいいから確実に実行していくことを管理職がきちんと眼差しを持って労っていくということです。この労いをマネジメントというのではないでしょうか?偉そうに命令することでも、しゃしゃり出る事でもなく、きちんと隅々まで見渡して嘘褒めではないきちんと正当な評価をして高めあうために努力すること、これは少なくとも誰にでもできる仕事ではないと思います。だから管理職手当がついているんでしょう。学校管理職の成り手がいないことでそのハードルを下げて誰にでもできる仕事にしてしまったばっかりに学校がつまらない場所になってしまった。それは教職員が悪いのではなく、教育委員会制度という組織を防衛するためだけの愚策であったという事です。

 主体的がどうのいう前に、やれることがいっぱいあるでしょう。
 若干「大洪水の前に」をパクった感じになってしまいました。しかし斎藤幸平さんには悪いけれども日本にとっては主体性をどうのこうのいう前に、の方が喫緊の課題かつ全体的な課題だと思います。
 今教育システムを真っ当にしなければ大変なことになると思いますよ。


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