学校代わりの仮想空間やオンラインゲームに何の意味があるのだろう?

 子どもの居場所が不要だとは思わない。多様性も良いだろう。しかし管理もできないのに居場所を用意することには違和感しかわかない。予算の見込みもないのに偉そうな綺麗事ばかりいうのはいかがなものだろうか?

 いつも思うことの一つに規律に対するカウンターというのはどこまでの射程を考えているのかということ。それが簡単に言えば不登校という一つの事象に対して何を用意するのか?ということなんだと思う。

 そこでこないだ聞いてなるほどと思った事例。
運動会で優先観覧席を設けている学校があるらしい。保護者の人数が多すぎる学校なので競技のたびに演技学年が優先的に観覧することができる特等席を用意するという取り組みである。取り組み初年度は保護者みんな真面目にその制度の約束事を守って、自分の学年以外の時には優先席から離れていたらしい。(それでも見つからなければ良いだろうという無作法な人間がごくごく少数いたらしいけれども。どうやらパブリックな場所では怒られるまではルール違反が許されるみたいなプロレス発想の自分ルールを立ててキレることで不具合を回避するというまさに悪役レスラーのような人間がいる。確実に。こうしたことの対策は制限ではなく、解放であるというのはよくある話だと思うけれども。)しかし制度も2年目になってみんな慣れてくると、制度の抜け穴を探すようになり、優先席の前から三列目辺りで前の演技から待機するという技を発動するようになってきたそうです。
 ここからわかることはいたちごっこという話だけではない。目新しい制度は万能に見えるけどカビの生えた古くさい慣習に敵わないし、結局みなそれに飽きてしまう。日本の公的な互助制度というのは村八分という強烈な罰則込みでの運用形態であるということです。それが体罰の歴史的根拠であり、過剰な(生徒)指導ということになるのだろうということ。そうでなければ清く正しく美しくの掛け声だけでは上手く進めることが難しいということです。

 今の教育はこうした罰則抜きで制度を運用しなければならない。それは良いことだと思う。反面である。寄り添うだけで何かが実現するのか?というありがちな課題に行き着くわけです。極端な話ではなく、現実問題としてです。もし、獲得の度合いが前時代(これを揶揄、自虐して昭和というのでしょうが、私はこの精緻さが微塵もない括りかたに怒りにも似た感情を覚えます。)より落ちているとすればこれはゆゆしき問題なのではないかと思うわけです。これは統計だけでは測れません。そもそも学力はそうした単純な動態比較には向きません。少なくとも今の教育評価にそこまでの精緻さはない。それは梶田叡一さんとブルームに群がった研究者が無批判に研究を進めてきたガラクタのせいだと思っています。この話はいずれ。

 不登校がこれらの現象の積み重なりによる総和だとするなら、その対応の仕方はもう少ししっかり考えなくてはならないといういつも言っていることです。目先を反らして嫌な気持ちを忘れさせるみたいな保育所でよくやる技で何とかなるならそんな簡単な話はないし、学校でもやってるでしょということになります。それが桃鉄やマイクラであるだけではそこに意味はありません。学校はマイクラのやり方を学ぶ場所ではないからです。そんなに底浅くはない。
 しかも教師の自腹と自爆のおかげでかなりクオリティの高い教育活動が施されていると思います。少なくとも小学校では。

 もう一つ先ほどの運動会の話に絡めて言えば、こうした手法は「正直者が馬鹿を見る」ということを強く規定することになります。私などバカを見過ぎて呆れ果ててしまいます。完全に自己満足なのですがそれで良いと思っています。しかし不倫した馬鹿者が政治家を続けている意味もわからないし、不倫した奴が他人の不倫にコメントしている意味もわかりません。こうした人間の方が真面目にやっている人間より所得が多いことが今のこうした日本の状況を如実に表していると思います。そしてズルした奴が出世するのは今の教育現場が抱える問題で最も大きなものだと思います。テレビが滅びるとしたらこうしたことに過大なコストをかけていることだと思うし、教育が滅びるとしたらこうした人事考課をしていることだということです。日本は官僚制の中でこうした意味不明の人事考課を育て守ってきたことになります。自分で自分の首を絞めるとはまさしくこのことです。

 これらは財政措置もなく、学びとして学校の置き換えにはなっていません。実は児童館事業が全国で段々と下火になっていくのは居場所という話が特にこれからの子どもにとって必要な話ではなくなっているからです。コミュニティがそうした固定性を持ち、グループを固定していくことがよろしくないということになってきたからです。しかしそうした動きに逆らうように学校教育は地域回帰を進めてきています。不登校というのはそうした動きに同調できない人たちの集まりということもできます。であるならそうした筋の受け皿としてのコモンを作る必要があるのかもしれませんが、欲求やニーズに個別性が高すぎてコモンにはなれないようです。無理やりこうしたコモンに引き込もうとすること自体が間違いなのかもしれません。私は子ども食堂に批判的です。食い物で釣って人を集めるということが健全だとは思えないからです。おそらく動機がそれではコモンとして育つことはありません。もちろん集団としての高まりもないということです。

 ただの無駄遣いではないか?
 空間として実空間ではないからいいだろうとはならない。それがたとえ実体をたくさん使っていても使用価値として高いのならばコストとして計上しても無駄にはならないけれど、いくら資源を使っていないとしても効果が上がらないというのはノートを使わないディスプレー上の書き取りと同じで意味がない。それなら紙を使う無駄の方を採りましょうということです。最も機械を作るにも使うにも壮大に資源を無駄遣いしているので紙の方がマシなんですけど。

 不登校に対応することが真に対応することになっているのか?それはきちんと問うた方が良いと思う。ただそれだけのことでした。

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