声の大きなポジティブ人間

 これは今さら言うことでもないでしょう。
声の大きいというのは言い換えれば影響力を誇示したがる人間で良いと思いますが、元来老害や年嵩の女性を指すのに使われました。
 特に小学校現場ではこれが遠慮なく跋扈していることが常態化していましたので、私などはこれをターゲットにして暴れまわっていたという今考えれば恥ずかしい若気の至りがあったわけです。

現代日本社会にいる「声の大きな人間」の特徴

 しかし現在の状況は少し違っていて、ここにそれ以外の人間が混ざり込んでくるようになったことです。単純に言えば、SNSの影響ということになるのでしょうけれど、私の感覚ではそうとばかりも言えないのではないかという感覚があるわけなんです。

 声の大きい人間はそもそも勘違いをしています。人間、どうかしていないとそこまで自分の行動や言動に自信満々にはなれないもんです。子どもでもない限り。
 しかもその勘違いが持続するためにはかなりの量の燃料が必要なハズなんです。周りの人間の理解とか応援、かなりの知識や経験、あとはアーレントのいうような活動です。まあ労働組合とか医師会、あとサークルとかいう集まりの中での役割みたいなもんでしょうか?神戸大学のおかしなサークルのような勘違い人間たちを指して我々の若い頃は大学生デビューと呼んで散々バカにしたもんですが、そうした指摘による抑制が全く効かなくなっている大学はもはや場としての存在意義がないです。
 なぜこのように抑制の効かない声の大きい人間に対してそれで良いと思わせるそれほど大きな燃料が投入されるのか?
 そこに非常に興味があると同時に他者による抑制や静止が効かないことになってしまっている現状に対して疑問が湧いてくるわけです。

 それは声の大きな人間と言わないのではないか?と思われるかもしれませんが結果こうした問題を引き起こしてしまう人間は近くでいると声の大きい人間であることに気づかされる共通点を持っているのではないかということです。

日本特有の「声の大きな人間」を補完する集団性

 つまりこれまではこうした人間は狭い範囲でしか影響を行使できなかったハズなのになかなか広い範囲で自分の気づかぬ悪意を振り撒くことになってしまっているというのが私の認識です。

 それは良かれと思っているエネルギーにはなかなか破壊力があるということです。元来ネトウヨや特定厨はこうした無償の悪意を源泉としています。他にせなあかんことがあるやろと思うのですがたぶんこの中途半端に豊かな日本は、そしてデモや政治的議論、起業などの自発的行為が社会によって抑制された日本は、国民がやらなあかんことがなくなってしまっているのです。こうして既得権を守るために露骨に新規参入を阻めば自分たちの富やそれを継続させることまで減じてしまうことにどうやら気づいてはいないらしいということです。この既得権益者が作る社会的な不自由さがもたらす感覚というのはただの分断としての具現化している以上のことがあるように感じられます。

 自己を大きく見せ、同時に他者を攻撃することが一般化する社会が住み良いわけがありません。それなら全く関わり合いのない社会の方がマシだという人の方が多いのではないか?隣に住んでいる人は知らない人だけどその人間の生活スタイルや生活規範についてはきちんと攻撃し続けるというのはいささか不具合が多すぎるように思います。さりとてそれが他者の我慢の範囲を著しく越えているのにさもそれが自由の範疇であるかのようにして逆に他者の方を攻撃することもあまり具合が良いこととは言えない。

「声の大きさ」というのは正当性とは相関が薄いにも関わらず、影響力が大きいということです。このズレに対して忖度や無言を承認とみなすという日本の文化が補完の役割を果たすことも具合が良くない。

周囲に居る「声の大きな人間」への対処

 こうした何重もの重なりに裏打ちされた声の大きな人間に対する対処するのはなかなか厄介です。こうした現象は同時に「声の強い人間」という勘違いも容認させるような更なる勘違いをも生み出します。実はこうした人間というのは教育現場の教員側にも、保護者側にも、そして地域側にもいて非常に迷惑をします。無視をしてやり過ごしたいところですがどうやら無視は無言を承認とみなすという日本的な解釈からこうした無垢な悪意にエネルギーを注入することになってしまっているようです。

 こうした状況は分かりやすく選挙制度の中に現れていて、先の東京15区補選や今回の都知事選では相手をしても相手をしなくてもエネルギーと感じるという都合の良さで自己の存在価値を自分から価値づけていっています。羨ましいまでのポジティブさですが、こうでもしなければ埋没してしまいかねないという恐れの裏返しに過ぎません。これこそ相手にする必要がないということです。

 こうしたコンビニエンスな社会になってしまうことに対しての対抗策というのはいつの時代も愚直に凡事徹底だというこれまた日本の得意技になるのではないのかということです。

 YouTubeよりもinstaよりもXよりもブログ、メール、書籍あるいはnote。電話やzoomより会うこと。

 終わりなき「対話」の時間を保持する。便利に負けずに対話を保持し続け、長くダラダラと話し続ける。なるべく意味があることが残るように書く。
 こうしたことを愚直に繰り返すことは直接こうした人間を相手にしなくても無視したことにはならず、無言の圧力を加えていくことができるわけです。「声の大きな人間」「声の強い人間」を攻撃することはないけれど、決して同意しないという意思表示をどこかで何らかの形で意思表示することはいずれキチンと効いてくるはずです。

 だから私は意思表示を続けるわけです。声の大きな人間に屈するわけにはいかないかたです。ただのんべんだらりんと過ごしていて、ある日突然自分に不幸が襲ってきた時初めてそれは不条理だということは時すでに遅いからです。
 今年もプールでの死亡事故が学校で起こってしまいましたが、これも同様です。プールに入る以上そうしたリスクは逃れ得ません。詳細は分かりませんので何とも言えない前提で言えば、子どもの側にも保護者の側にも教育委員会の側にも、もちろん教師の側にもそこまでの前準備としての語りがあったのかということです。ただふざけたいだけの子ども、ただ文句を言いたいだけの保護者、事なかれ主義の教育委員会や学校管理職、教育活動の意味を突き詰めない教職員、これらがきちんと揃ってしまえばうまくいくはずもありません。
 登校中の事故、いじめ問題とその対応、不登校、モンペ問題、特別支援、働き方改革挙げればキリがありません。こうしたことに対する声の大きな人間による妨害やすげかえは日常茶飯事です。そこに対する事前の意見表明の重要性はこれからも大きくなるのではないでしょうか?
 静かにコソコソと、でも力強く愚直で細部まで、それが自己形成につながれば尚良し。本日はそうした意見表明でもあり、自己形成でもありました。

 まだまだ文章の分量的には足りてはいませんが、これだけ考えて書けば、少なくとも本日の都知事選に関わった人間よりは大きい覚悟と決意を示し、前もって無言の圧力を加えたことになるのではないかということです。民意も自己形成もAIにはできないことですよね。

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