子どもは商品 だから磨き上げる必要があるという発言
この話ってそんなにツッコミが必要な話なんでしょうか?
教育の目的として国家の大計という話にも特に違和感がわかない。そもそも教育委員会や行政がそのレベルで話をしなくてどうするんだよと思う。逆に利用者におもねるばかりでは現場は疲弊するばかりである。(申し訳ないが心理学の知見は教員を疲弊させるロジックであふれている。今日もそういう現場の邪魔する教員の講演会だった。自身が教育現場のブラック化の片棒を両側から?かついでいる自覚はあるのだろうか?)
その福祉の視点で批判的な質問を加えたマスコミと議員の方に対して違和感がある。それではポピュリズムの権化だろう。もちろん子どもが商品化の道筋に置かれることには違和感があるがそもそもその議論は1980年代にずいぶんやられた話である。
「それを踏まえて」という話し合いが今できない。そうしようとした場合「それは知らない」という意見がちゃぶ台返しをするわけです。しかも平然と。知らないことは悪というのは1960年代中ごろ、全共闘時代の議論の作法であったわけですが歴史的修正としてすでに打ち捨てられています。しかし少なくとも「知らない」ならすまなさそうに議論に入ってくるのが建設的な議論の出発点なのではないかい?よくマスコミ、特に新聞記者が知らないくせにズケズケと質問してその成果をさも自分の作品であるかのような書き振りで読者に開陳する様を見かけるがあれは見ていて気分の良いものでない。社会の木鐸かなんか知らないけど、そういう学ぶ姿勢というのはきちんと正当な姿勢であるかのように社会に伝播しちゃうんですよね。これだけでも新聞を読まないに値する意味があるように思う。もう少し知的に謙虚であることを学ぶ姿勢として広げてほしいです。そうしたスタイルが根付かない限りはそもそも建設的な議論など成立するハズもないし、心理的安全性が図られるハズもない。
もしこの「商品」発言に少し問題があったとすれば教育は保護者のためでは全くないという趣旨の発言については(職業的立場を考えてあげても)偏りがあることであるかな?というぐらい。
でも多分デンマークやドイツの教育を視察して自分の自治体の教育をなんとかしようとしたのなら、その休暇を含んだ旅行気分について、重ねてその人間としての見識の低さについて、その上に教育レベルというものについての知識のなさについて、問いかけを行いたい部分は山ほどあるんですけどね。
それは大いに問いただされ批判されるべき職業倫理です。視察の先に何を生み出せるのだろうかという話です。こうした視察は大学教員の論文並みに何も生み出さない。もしくは明後日の方向のまるで的外れな指摘に終始するということです。
こうした過ちを事前に防ぐのが人文科学の唯一の役割であるわけです。
最近の書評に文学作品評論がいかにして学術として成立するかという視点からスタートした人文科学の存在価値を証明していく書籍のものがありましたが、そこにも似たような結論が書かれてありました。
しかし最後の結論としてズレているのは、人文科学や社会科学の論文が同じ過ちをおかしている場合どうするのか?ということです。
実はこれらの論文は大きく分けて2つ。ただただ当たり前のことをきちんと綴るか、あさっての方向にいくことを序論で宣言してあさっての方向に進み続けるだけの内容を綴るか、です。つまりそれでは訂正機能がはたらくわけがない。おまゆーになっちゃうからです。しかしなぜかピアサポートの幻想がはたらくことで承認されてしまってきた。そんな誰にでも分かるような強弁でむりやり乗り越えてきたせいで大学不要論や文学部不要論といった正論には対抗できなかったんです。それは運営費を削減するロジックを論破できなかったことに現れています。今なら言えることですが、実は大綱化、独法化は大学内にその片棒を担いだ人間が確実にいたことできちんと成立しました。理由はさまざま。自分たちだけは生き残れると考えて。
ピアサポート、ピアアセスメントはひとりがまちがっていればしかも偉い人、影響力のある人が間違った行動を取ればその悪もきちんと悪の方向に影響力の強さで回転するという至極当たり前の性質があります。しかも偉い人ほど訂正が利かない上に攻撃性を帯びてしまう。ハラスメントの構造理解の一方法です。
いまのSNSやネトゲがまさしくそう。商品として磨き上げる発想がありません。消費し尽くしてしまう前提で見せる方にも見る方にも振り切った状態を半ば強要していきます。
こんな先のないやり方を現代社会の商品と呼ぶなら安心してください。少なくとも小学校現場でなされている教育は、大学と違って持続可能な知についてコミットを怠っていないからです。コミュニティに承認された形で目先の金銭にとらわれず、善意と研究に基づいて運営されているんです。
そう考えてみれば、これは議員や教育委員会の生み出した産物ではないのだから結局のところクチだけで子どもを磨き上げる仕事の条件整備すら怠っている人間たちはやはり批判されてしかるべきだったんだねという話です。しかし批判の仕方が間違っていれば大学が文科省に屈したように同じ道筋を辿るんですよ。そうした批判をした場合、後に困った状態に陥るのは見当違いの方法を選んだ批判者になってしまうことをよくよく覚えておいた方がいいですよ。