大学は縮小するのか?その先にあるのは

 まずは昨日亡くなった森永卓郎さん。合掌。
 奇しくもこの人も(今日考えたい)大学(の)人だった。タレントイメージが強すぎるけれど・・・。流石に日経平均2000円は物理的にありえないと思うし。しかし見えている死ということはそういうことなんだろうということ。時間と存在とはよく言ったもんである。そうしたことから学べることがあるし死から逆算して想像しなければならないことがあるのだろうと思う。とにかくここ1年ほどの彼の活動にはある意味の(強者との対決への)共感と(死と立ち向かう立ち位置への)反発があったのもまた事実。その総括をすることが(全く関わり合いもない)彼への供養になるのではないかと思う。それは個人的に。

 これまでも大学関連のnoteは書いてきたのだけれども。直近ではこれ。

 結局自発的に廃業するか、退場を通告されるだけの違いなんでしょうけれども。通告するといってもやめなさいと直接言うのではなく、単に補助金を減らすとか設置認可などを認めないという匂わせ(という名の嫌がらせ)をするだけなのでしょうけれども・・・その中には経営の工夫をことごとく認可しないということも含まれます。そもそも新興でない限り大学はかなり多くの資産を持っているのでそれを有効的に活用できればそれなりのお金を生み出せることができるはずです。例えばたくさん持っている土地を貸し出すことで収入を確保する手法です。(原資は全て税金なので道徳的に良いかどうかは別にして)よく新聞社やテレビ局がやっていることです。本業は儲からないけれど不動産業で本業の補填を行いながら事業継続するということ。これらの手法を認可するかどうかは法的解釈を含めて全て文科省の専権事項になっています。
 これらが文科省のご機嫌のもとに認められなければ、結局大学経営が立ち行かなくなっていきます。本業では儲からないというのはそういうこと。そしてご機嫌というのは文科省に便宜を図るような行動様式を取れるかどうかということです。
 これでは一体大学に何を期待できるのかということになります。

 中教審の答申は、(実質的にどういう効果にとどまるかさておき)その全てが採用される傾向にありますので、これがこれからの文科省の大学に対する基本方針ということになるのでしょう。

 縮小しながら質を向上して機会均等を図るというのは、足場を小さくしてジャグリングの数を増やしながらそれを誰にでもできるようなパッケージにしろと言っているサーカスのような無理筋ではあります。我ながらたとえが下手ですけど。

 そしてできない奴は来んなよと言っています。多分。それが(同時に)成り立つと思っているのでしょうか?言ってることが無茶苦茶です。主体的・対話的で深い学びのように。でもこうしたことは別々に考えてしまうことはより股裂状態になってしまうのでどうしても同時にバランスよく考えねばならなくなることを強要します。必然的に。しかし実践段階では、どうもそれが必然にならないことに苦悩が伴うのです。それますが主体的・対話的で深い学びは主体的学びと対話的学びと深い学びが別々に考えられることの方が多いです。どうも最後に寄せ集めりゃなんとかなるだろと思っている人間が多いのですが、寄せ集める段階ではどれかが忘れられていることがほとんどになってしまいます。この場合深い学びまで話が配慮されていることはいつも稀です。そして最後には主体的はこう、対話的はこう、深い学びはこう、というふうに別々に結論が出されてしまうことになるのです。

 そもそも縮小と機会均等はぶつかり合う発想であることから出発して、議論の帰結としてどちらかを選択する必要があったと思います。それをどちらも同時に採用してしまった。おそらく匙加減次第で潰したり、残したりすることがしやすくなるということにしたかったのでしょう。

 これでは今でもまるでダメな高等教育が文科省支配のイロを強めよりダメになっていくという未来しか見えないということです。大学教員にしたって研究結果で他の研究者と戦っていくことに価値を見出していく基盤としての「場」の大学にはなりえないということに気づかねばなりません。ぬるま湯大学から飛び出さないと共倒れになるということです。
 いやいや厳しいよ・・ということではなく、そこにいて支配されることがぬるま湯だと言っているわけです。すぐに新たなプラットホームが構築されるわけでもありませんがなんとかしないといけません。

 結局文科省がどうのとか、大学がどうのとかいうことではなく、大学教員が大学を守るのではなく、大学に寄生するのはなく、研究結果で独り立ちできる主体になっていくことがすごく大事だといういつもの結論です。世論や世界を動かせる驚きをもたらせる大学教員が数人いる大学は絶対に潰れないし、学生もたくさん集まるし、研究開発費も集まるということです。大学に就職できた研究者という幸運はそうした結果のために使うべきでしょといういつも通りの結論です。

 力のない人間が大学教員になるから不幸になるというのは必然です。これまでにそうして公共財を食い潰してきた人間も同罪です。今更慌てるのもおかしな話ではないでしょうか?

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