文章が下手になったのか?という問いはすごく切実な問題。
これは身につまされる話。
読みにくいアウトプットに意味があるのかどうかという話だから。個人的な感想で言わせていただくとアウトプットの文章が難解になるのは別に構わないと思っている。それは内容を記憶するための読み方を必要としないからだ。カントも言っていたと思うけどテキストとして残っているものを記憶する必要がないし、外山滋比古さんが言っていたと記憶しているけれど内容を記憶するような読み方とそれ以外の読み方があるということ。
それは読んで「ふーん」で終わるようなもんに意味がないということだと思う。マニュアル本・ハウツー本にはそうした垂れ流しで溢れているけれど・・・それは実は研究授業でも同様です。失敗できない当たり前を明示しようとすると必然そうならざるを得ないということです。
学術論文を書く側の事情で言えば、深みのない文章を垂れ流しても大学教員は学位を認定してくれないだろうということ、それとそもそも引用する文献に書かれていること自体が意味が分かりにくくなっているからそれを論じる方もわかりにくくなるということなのだろうということです。発見されてきていることが増えたらそりゃ重箱の隅をつつかないとやってけないというのも理解できます。それをもって学問が進歩したかどうかはまた別問題だけれども・・・
逆説的に考えれば、古来より複雑で理解に苦しむような文献はもしかして失敗を前提としてチャレンジしてみた産物であったのではないかという仮説であるわけです。しかしそれはもはや確かめる術はありませんし、あったとしても本人が認めないかもしれないのでなんとも言えません。そうしたチャレンジが許された立場の大家がいた時代だったと思えば、大家と思われたけれどそうでもなかったという勘違いが存在したと思えば割と理解できる話なのかもしれないと妄想するわけです。
そうした理解し難い問いが存在しなければ、学問的発展が望みにくい構造なのであるとすればそれも致し方ないのかもしれません。それは数学的な「問題」の設定〜例えば「リーマン仮説」「ポアンカレ予想」「ホッジ予想」「バーチ、スウィンナートン=ダイアー予想」「P対NP問題」「ヤン・ミルズ理論」「ナヴィエ-ストークス方程式」〜を使って数学的な発展を引き寄せる様ということなのでしょう。哲学が学問的にそうした展開を古来タレスより繰り返していると考えるなら、人文科学・社会科学が同様に難解な問いを立てることで自分たちの学問を発展させようとしたとしても不思議ではないということです。
とても簡単に言えば、訳のわからないことを言ってみてその解釈や説明から新しい学説を引っ張り出してみようとしたということなのでしょう。
しかしここで思うのはそもそもそうしたわけのわからないことを言った先人たちの問題設定は適切だったのか?という素朴な問いなんですよね。それは今の文章が下手になったと言われる学術論文においても同じようなことが言えます。
そもそも無茶苦茶な論理を展開するためには2つの要件があると思います。
一つは他人から文句が届かないくらい偉い人になっている必要があるということです。今の日本のアカデミズムが象徴的ですけれど若い人が突拍子もない学説を提示することに対する攻撃というのはかなり苛烈です。それはおそらく外国のアカデミズムであっても大差ないと想像できます。分かりにくい学説を開陳してそれに少しでも耳を傾けてもらおうとするならそれなりのネームバリューが必要になるということです。これはエビデンスのない話でもなくて古典と言われる書物を読んでいるとたまに感じることがあるからです。「これ本当に意味わかって喋ってんのかな?」と思う瞬間があるからです。書いている瞬間は高揚していても書き終わってみると「ん?」ということは私自身もよくあります。偉人と私ごときを同列にするのもどうかと思いますが、ヒトにはそういう瞬間もよくあるはずです。そしてなぜか生半可な知識人というのはそうした謎めいたテキストを解釈することをすごく好みます。それはエヴァンゲリオンもそうだし、攻殻機動隊もそうだからです。「〜の謎」という本はみんな大好きだというように。
話が飛んでしまいましたが、2つ目の要件は単純にアカデミズムに所属しなければ無茶苦茶な論理展開をしようが誰からも指摘される必要がないです。止められもしない。
この本にあるように財政基盤があって、研究に没頭できるならそうした人たちが研究した成果の方がアカデミズムに所属する人間よりみるべきところが多いというのは説得力のある話なのでしょう。
問題はこうした学説とか主張が正当な評価を即時的に受けれられるかどうかということにかかっていると思う。そうでなくてはアカデミズムのように世に出るのに相当な時間がかかってしまうととても勿体無い。その素早い絶頂期が社会的に貢献することができれば社会変革が非常にスピーディーに進むことができるはずだから。
そのためには移行する社会が必ず善であるという確証に近いロジックとともに非常に慎重に進むことができる社会システムが必要だということです。残念ながら日本社会は知的レベルとしてその水準にまで達していないということを感じます。
と同時に学際的とか教科横断とかいう言葉がまともに機能しない日本(的ムラ)社会(久々にたこつぼ型という言葉を聞いてこれを知らないのが若者の常識であることに少々驚いた、それはものを知っている知らないのマウント合戦ではなく、学びの順序としてそこまでマニュアリック(タイパやコスパなど)なことに精通しているのにその前提たることを抜きにして話が始まっている不思議について。それは多分内田樹さんが言う当たり前だけど大事で積み重なりではないし余人にとって変わることとのできない行為であることの「風呂に入るようなこと」)に対して挑んでいくためにはこうしたことから始めていかなければならないと思うわけです。
ということで文学はどんどん難解になっていかなければならない。もちろんそれにまつわるSNS上の学問も難解でなくてはならない。みんな頑張ってそうしたものにしがみついていかなればならない。働くことにまつわるストレスが解放されるためにそうした接点にストレスを(仮想として)感じていくことが良い。そういうことなのでしょう。
そして少しラテラルな発想から加えれば書店の力の回復にもつながるよう難解で骨太なベストセラーを(作家育成とともに)大手出版社が取り揃えていかなければならないということです。と同時に国がそうしたストレスと接する国民に対してバウチャーを発行して奨励することで犯罪(犯罪する時間と金銭につきまとう意欲を削ぐ)の抑制にも貢献するという構想です。なんか思いつきの勢いで書いてしまいましたが一石何鳥かわからないくらいの感じです。
もっともっと難解を増やして、それに接するチャンスと利点に金をかければ大学に金銭を投入するより効率の良い知的社会が生まれると思います。それが多分ベーシックインカムを考えている人たちとの共通の幻想である知的活動による社会の発展を国民総がかりで行うということなんだと思います。教育環境を整備するとか子育てを便利にするとか防衛費を増大するとかよりも社会全体が全員で知的戦闘力を高めることで「自然と」そういう力は備わっている方が良いという妄想です。それは例えば日本国民に戦争を仕掛けると知的(崇拝からくる)反撃として世界中からボロクソに非難されまくるに違いないという指導者の認識による抑止力みたいなもんだということです。
だいぶ妄想が過ぎましたが、単純に文章が下手になったのではなく、読む力が失われた、そういうことなんでしょう。
もし読む力というか解釈する力が社会的に高まればどんなに難解な文章でも筋さえ通っていればそれは社会にとって簡便で役に立つ文章になりうるということになります。
そっちの方が日本のためには良いような気がします。