富裕層はセグメントとしてはあり得ない

こないだビジネスニュースを見てたら星野リゾートの社長さんが言ってた。
そうだよね。富裕層がみんなおんなじモンを求めてるわけがない。
なんか当たり前のこと。でもみんなが気づいていないこと。
富裕層がみんなお金を撒き散らすことしか考えない人ばかりではない。


低学力というセグメントはない

 学校教育現場においてもターゲットゾーンについて無茶苦茶な分け方をしている人がいる。
 その思いつきを批判すると、思いつきもそう悪いことではないという反論が返ってくるのでミソも◯も同じかよと思わざるを得ない。場の問題を弁えることが議論の勘所だよねと思うと同時に思いつきだけが行き交うカンファレンスという弁えた場が了解として必要なんだよねと考えた。対話と一言で片付けがちなのだが、一歩手間にこそ主体性と覚悟の承認作業が必要であり時間としての業務としての補償がなければ教育現場が効率的にこうした潤滑油の作業を受け入れることができないことを周知する必要があると思うのだが・・いつものように現場の仕事ではなく教育行政と寄生虫の仕事でしょという主張。

 それたが低学力児童へのコミットメントというセグメント分けをするのは教育現場の常だが、実はそもそも正しくないのではないか?という話。
大きく分けても低学力には2種類ある。しかもその上の2種類ある。
まず自分由来か環境由来かという話。次の許容可能か許容不可能かという話である。これを全てごっちゃにして低学力とすることはすでにセグメント設定の時点で論理が破綻していることを如実に表しています。
どう足掻いても本人の能力が足りていない段階で無理をすることは正しいことではないです。それを諦めだという人は学力へのコミットの意味がわかっていない。学力への直接のコミットが効果がない場合、本人の別の部分に問題があることが多いことは小学校段階においてはよくあることだからである。それは実は長い時間をかけて学習指導してから手立てを探せるモノであって一目見て・・・というようなお手軽なモノではない。お手軽なヤツがないわけではないのだが、そこへのコミットはなるべく個別のセグメント設定が好ましい。ターゲットを個別化するというのだろうか、個別最適化するといのだろうか?
 しかしながら、学習を個別最適化するのと、学習における課題を個別最適化するのでは話は全く違う。そういう意味では低学力というセグメント分析のトンチンカンと学習の個別最適化というトンチンカンはよく似ている。労多くして益少なしの典型例みたいなもんだからである。
 もう一つはその低学力がクラスルームにおいて許容範囲内にあるかどうかということである。これは平均点の上か下かという話ではない。クラスルームにおいて日常の共同的な学びをする場合、絶対に許容したくない低学力というのは実際に存在します。言い方はいろいろありますがとにかく協働としようとする時にそれを阻害する要因を持った低学力です。ただ単なる勉強できない子というのは実は学力が高い子にとっては非常に良い教材であることが多いわけです。
 しかし集団的学びを破壊する行為というのがあります。これ実は低学力より高学力の子が持ち合わせてることが多くて難儀することがあります。多分日本で起こっている学級崩壊の半分ぐらいはこの子達のせいです。というかこのことをコントロールできない教員のせいです。これを持って不登校を容認したり、一斉教育を批判したりする言説を見ますがこれには一切同意出来ません。根拠のターゲットが明らかにズレているからです。被害者のターゲットもズレています。この時最も救済が必要なのは勉強が分かりすぎて暇で暴れている子ではなく、勉強がわからなさすぎて逃亡している子でもなく、ニコニコと穏やかによくわかんないけど頑張って授業に合わせている子なんです。学校の授業づくりのセグメント上重要視すべきなのは許容可能な低学力児童になると同時に、一生懸命学習にアタッチメントしようとする中間層だということです。セグメントの設定一つとってもクラスルーム理解の手法としては非常に重要だと思います。

 何をどう屁理屈をこねても教育という営みである以上、下ろすことのできないカンバンというものがあるはずです。
セグメント(ターゲットの塊)の設定というのは決してその勘所を外してはいけないはずです。個別最適化の最大の弱点は人と人のつながりでなければ教育として成り立たないというところをスカすために学習をモノとして捉えようとしている部分と協働とセット販売にすることでごまかそうとしている部分です。
 クラスルームという単位に学習の場をセッティングすることはセグメントを分析する上で非常にやりやすい大きさであることは疑いない。

しょうがいしゃというセグメントはない

 これも同じような感じです。特別支援担当教員はこのセグメント設定もしくじっていると思います。多分特別支援教育関係で以前にnoteしているはずです。これは自閉症スペクトラムというネーミングによるセグメントごまかしの経緯がわかりやすいと思います。傾向って。富裕層と同じくらいセグメントとして成立していません。

困り感というセグメント?

 生徒指導におけるセグメントはかなりターゲットのくくりが難しいと思います。
 じゃあセグメントなく対応すれば良いのでは思うかもしれませんが、それはとっても非効率です。何でも屋じゃないんだから・・・と言って学校は何でも屋かもしれないと思った次第です。
 企業だって事業にはセグメントがあってセグメントなりの目的と取り組み方が一旦確立されています。その先にカイゼンや革新、イノベーションがあるのですから土台のようなものです。
 一時期、生徒指導のセグメント割りに困り感というものが流行りました。身体以外のしょうがいが今ほどメジャーではない時期にはそこにも援用されましたし、感覚が過敏すぎて生きにくい人たちを表すときにも使われたと記憶しています。時系列は忘れたけど・・・しかしこれも実際セグメントとしては成立しませんでした。やはり感にはデータ的に裏付けがなさすぎでした。それってあなたの・・・なんですよね。
 しかも生徒指導の場合確実に対応しなければならないと思われている事案の場合でも本人に困り感が全くないことがあってしまうんですよね。そりゃちょっとマズくね?と思ったことは1度や2度ではありません。
 この辺は道徳規範にセグメント割りを委ねちゃう危険性かなと思ってしまいます。
 というのも学校現場では日常生活に全く実害を及ぼしそうにもないことにまで個人の困り感を押し込んでくる事例が枚挙にいとまがないからです。教員がこれをお断りできないようにしたのは弱気な教育行政と煽ったマスゴミのせいであり、それをそのまま受け入れたアホな首脳陣のせいです。

 余談ですが、哲学的な場の設定を道徳規範の正義に委ねて問題解決しようとするマルクスガブリエルという哲学者がいますけどこの部分にだけは実践的に同意しかねます。

教育現場におけるセグメント

 では、教育現場におけるセグメントはどう活用したら良いのか?
 まずは今までのセグメントを見直す作業ということは一つの重要な視点になるということを意識する必要はあるかもしれません。
 これは多分新たな仕事になってしまう可能性が高いので、あまりお勧めできません。できたらなんか新しいことしろと変な仕事が降ってきたときに分析手法とブレインストーミングとして使う程度が良いのかなあと思います。
 それぐらい今の教育に対するターゲットの塊の捉え方はナンかズレている。
 だから福祉的な視点に頼ったり、マニュアル本が幅を利かせたりするんではないでしょうか?教育実践におけるセグメントは指導という区割りがあることが有名であるけれど、実は学習指導、生徒指導、安全指導、給食指導、進路指導などをどのぐらいの配分で指導するかということについては明記されているものがない。
 しかも学習指導要領しか法的根拠を持ったものはない。その学習指導要領ですら明確なセグメントの形成とその配分はかなりのズレの解釈を許容するものになっている。いずれ書こうと思っているが生徒指導提要はなかなか酷いセグメント分析をしている。というかこれが法的根拠を持てない理由はその書きぶりのせいだと思われます。

塊として捉えて分析する

 とにかくこれから何らかの取り組みをする場合には子どもをどういう塊として、どういう種類の集団として捉えているかということについては明らかにするのが良いと思う。
 その場合、よく指導案の児童観でよく使われる手法であるがクラスを一つの塊であるかのように決めつけてしまわず、クラスを一つの視点から見てどういう配分のセグメントでできているかというような見方をしてみてはどうだろうかということである。
 大中小、上中下という単純なセグメントであってもそのどの部分が多数でありどこが少数であるかを掴むだけでクラスの見方の確度や授業方法選択の正当性は格段に信頼性が上がるのではないかと思う。
 その場合担任の主観がセグメントを形成することに対して恐れを持たない方が良い。クラスのことを一番わかっているのは担任であり、責任を持ってコミットするのも担任だからである。それだけでも外部の経験豊かな助言者が訳のわからない分析を開陳する何倍もの価値があると思う。
 なぜなら富裕層セグメントの逸話は、数字を、特に信頼性の高い数字をセグメント化の根拠とすることの危険性を如実に表しているからである。アンケート結果が購買商品に直結することが少ないことはよく言われているがときに客観は主観に勝てないことがある。そういう場合、成果の上がる取り組みに密接するためには一番近い人間が固定のターゲットを決めて取り組みを行い、固定の集団内に展開する方でPDCAに繋がりやすいに決まっている。

 実はそういう意味で実践に結びつければ、既存の指導案のプリセットにはものすごい違和感がある。特に最近。
 指導案の展開図というのは取り組み方によって自由に変わるべきではないかと思っている。
 なぜか現場ではこれを書くべき、この道筋を示すべき、これは書いちゃダメみたいな定型が幅を利かせている。
 そうした問題提起の一点としてセグメントによる分析を入れた決算書みたいな指導案があっても良いのかなと思った次第。

 全く教育に関係ない経済ニュースを見ながらでも、いつも思うのは教育の奥深さ、懐の深さ、そしていかようにでも姿を変えられる柔軟さである。

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