学校文化の崩壊とは?
学校が「文化」として崩壊しているとはどういうことか?
これは最近よく考えることです。文化というのは普段あまり考えることがない概念だと思います。
なぜならそうした一つのグループの中、つまり社会の中で常識として自然の流れとされているものが文化だからです。基本的に疑いを抱くことすら許されない、そういったものだということです。
だからこそ中の人間には感知しづらいことなんです。これに気づくためにはどうしたら良いかというと外部の人間がポンと投げ込まれると文化の差異にとたんに気づく。海外旅行をすれば一目瞭然です。(この辺は詳しく東浩紀さんが観光の社会学で述べていることとほぼほぼ似通っています。)日本を旅行していてもあまり感知できないのは根底に日本文化があってそこは共通なのであまり強く差異を感じらないからです。
しかしそんな日本社会でも住んでみると意外と違いに感知できるというのはその社会が持っている突出した文化に触れる機会が増えるということがあるからなんでしょう。
こうした感覚を前提において文化を考えてみると、その正体にいささか近づけるかと思います。そして私が最近これをよく考える理由は、最近馬鹿みたいに転勤を繰り返しているからです。ここ6年で4校目です。驚異的なハイペースです。(笑)別に問題を起こしたわけでもなければ管理職でもありません。(転勤自体が問題だといわれれば申し開きのしようもありませんが。)ヒラにしては驚くべきペースなのですが、お願いして転勤させてもらっています。それにはいくつかの理由と思いがあるのですが、そのなかの一つが学校文化を感知しやすいアンテナを作るためです。これは自分だけではなんともし難いです。と同時に学校参観のような観光客の立場ではあまり理解できないことです。その中で実際に住んで(?)働いてみないとその学校の文化は理解できません。これは先ほども言ったことです。
というわけでそういうふうに得た知見を振り返って考えてみることがあります。
そこでふと。もしかして学校文化はすでに崩壊しているのではないかということなんです。おい、文化はあるといったり、崩壊しているといったり、どっちなんだい。パワー!と思われた諸氏。崩壊というのは無とは違います。廃墟は残っているんですよね。学級崩壊にしたって学級がなくなっているわけでも、なかったわけでもない。崩壊したって厳然とそこには在り続けます。学級としての役割を為さずにそこに唯、物としてあるだけの存在。
文化の形骸化を指して、崩壊と称してみただけです。言い換えにすぎないわけですが実はこれを個別事例として批判したり、改善したりしようとする書きものはよく見るのですが、大きな括りとして学校文化とするような書きものに最近とんと出逢いません。
昔は社会学的な学校文化の分析の論文というのは結構あったんです。とくにフィールドワークという研究手法が流行った頃はちょちょっとしたフィールドワークの成果に文化人類学的な考察を少々加えて完成!としている論文や書籍をよく見かけました。こうしたものはフィールドワークの成果というよりはどちらかといえば文化論のパクリみたいな感じでした。今もビジネス書の範疇のグルーピングや分類、経営手法を丸パクリしている学校分析を以て学校組織マネジメントみたいなことを言っている大学教員がいますがあの手法は教師集団にはあてはまりません。考え方や目的、評価手法などが重なり合わないからです。ビジネスの考え方で消防署や警察をマネジメントしたら酷いことが起こるのは小学生でも理解できる理屈です。よって借り物はダメなのです。参考にするくらいならOKですが、なぜか今の大学教員は丸パクリしていることを正義、つまりきちんと改編なく引用していることが正しいお作法だと考えているようです。
それではいけないので、少しモデリングの手法から考えてみます。私の知識の範囲では、地底線を決めて積み重ねたり組み合われたりする手法と上部構造下部構造のように言葉でモデル化する手法があると思います。セイマーモデルなどは前者ですね。後者は構造主義やヴィトゲンシュタインの論理哲学論考のようなイメージです。昨今自然科学から着想した螺旋構造など無理矢理立体感を持たせようとするモデルもありますが、個人的にはモデルは2次元がよいと思います。それ以上は見る人間が処理しにくい。(完全に余談ですが大学教員が個人のオリジナル学術モデルを持たずに教授を名乗ることにだいぶ違和感を感じます。でもこんなことを言うとオリジナルモデル販売の業者が流行ってしまうので軽々しくモノが言えません。こまったもんだ。)今の学校現場をきちんとバラバラでありながら文化に縛られている部分が表せているモデルを作る必要があると思います。2次元で。それを叩き台にして議論をしないことには話が噛み合わないからです。例えば個別バラバラに学校には謎ルールがあると言ってもそれは文化のせいなのか?それともいずれ転勤してしまう珍妙な謎教員のせいなのか?がよくわからないと解決のしようもないです。もちろんその事象に対する議論も私見にしか過ぎなくなってしまいます。
ちなみに実践報告の助言者はほぼ私見だけです。なぜなら文化の面を考慮できてはいないからです。そもそも学校の研究ルールやどう議論が為されてここに呼ばれているかを理解している助言者というのがほとんど存在していないからです。たまにそこまで話し合っている研究活動をする学校もありますが、私はそれが効率的だと思いませんし、なにより正しい認識に基づいた合意ができているのか?非常に疑わしいとしか思えません。つまり私はそうしたことに対してどうあってもイチャモンをつけたいタイプなのです。
さればこそ今この学校がどういう文化を有しているかをいつも明らかにしておくべきだと思うのですが、それが今いる人にもよくわからなくなっている、そして誰も言語化しない、それが学校現場の現状ではないか?ということなんです。
本来ならシビアに管理職が指摘するくらいが妥当なのでしょうが、昨今のコンプラやハラスメントのせいでそれすらままならない。コロナなども相まってどういう経緯で、どういう仕組みになっていて、何をしたいのか?全く文化的な道筋が不明なまま教育活動を進めていってしまっているわけです。一つの物事がなぜそうなっているか?果たしてそれが正当なのか?そうした議論は学校内ではあるとき突然ストップがかかります。あるいはそうした問いかけ無しにいきなり変更されます。だれもなぜそういういきなりのストップやGOがかかるかわかりません。それが文化基盤だということに気付かないんです。
私はこれを以て学校文化が崩壊しているのではないかと思うわけです。学校内で誰一人文化について理解していなくて、誰一人理解しようとしない状況。せめてこうした状況へ枠組みを提供する作業を借り物ではないオリジナルでどっかの大学教員が作ってくれないかなと思うわけです。
わたしもやってみようとは思いますが、ちょっと時間がかかりそうです。今日はほんのさわりだけで失礼します。