自己内対話とは何なのか?

 個人内対話をどうとらえるかが対話を議論する上でキモではないかと思う。
 この場合「もちろんそれもある」は受け付けない。「も」扱いでは困るからである。三流研究者はツッコまれてコマったとき、よくこう言う。これはそこに重きをおいていないという意思表示なのかもしれないが議論するにあたって、よほど無能な集団でない限り論点というのは、ほぼ決まっているハズである。それがないなら論点を決める議論をすればよいだけの話である。
 それ「も」で切って捨てるならそれなりのロジックを示すべきでしょ。
 たぶん個人内対話を認めない論者は少ないのではないかと思う。しかしそれは話をややこしくすることを意味する。なぜなら個人内対話は目に見えないからである。
 目に見えないことは他者評価を難しくする。これはある意味正しくある意味間違っている。ここも正確に吟味されなければならない。
 見てないことと見えないことは違うからである。もう少し言えば意識しても見えないことは見えていることに限りなく近くなるのではないかということです。
 ポストモダンの社会理論はこうした意識が産み出す悪弊についてあばくだけあばいて捨て去るという結論を導きました。たしかに彼ら彼女らの社会理論は切れ味するどい。しかしそれは若者受けするロジックであってその切れ味を現場で使おうもんなら敵も味方も血だらけになってしまいます。あばいた結果、それを使って他者を攻撃することにはお構い無しだからです。
 残念ながらそれではもう役立たない。
 これ以上の破壊は必要ないわけで何かしらの成果を持って前進していくことが必要になってきます。

 とすれば個人内対話についての基本的な確定要件が必要になってくるということです。

◯今、小学校でおこなれている授業に個人内対話の無いものはない

 今の小学校教育はどの教科であっても話し合いが取り入れられている。もちろん特段のクラス事情を持って回避することはあっても、どうやっても個人内の変容にコミットする実践にあふれている。
 これはどれがどうということではなく、すべてにわたって個人内対話が含まれている実践ばかりということになる。逆に言えば小学生というのは小学校においてのどの場面でも個人内対話の産物によって成長発達を行っていることになる。
 例えば友だちと喧嘩をして教師にたしなめられた場合でもそこに悔しい気持ちや納得した気持ちがあればそれは必然的に個人内対話が存在したということになる。
 
 しかし変な研究者による、とある酷い研究紀要によれば、積極的な「見せかけの」主体的・対話的授業よりも全く話さない子による「あきらめない」様子の中により対話的な姿が「自己内対話」として存在していると断言している。これ自体は特段変でもないのだが、この論理構成をしてしまうということは結局対話とはなんでも良い、どうでも良いことを示していることになってしまう。そうではないだろう。そうであるなら対話は取り上げるべきトピックではなくいつでもそこにあるものになってしまうし、学習規律の問題や個人の性格の問題になってしまうことになってしまう。こうした問題はすり替えではなく本質にせまらなければならないのではないだろうか?

◯自己内複数性や多声性の体験

 そうした時に可視化する手掛かりとなるのが、自己内の複数性や多声性というキーワードになってくる。これをどう子どもが紡ぎ出すものとの連結を行なっていくかということになってくる。
 もう一つ、そうした体験をしたことに対する評価ポイントとして設定するかということである。
 すごく簡単に言えば子どもの中に複数の立ち位置が存在していたかということとそれをきちんと他者が掴めているかということの両立が必要になるということである。
 しかしクラスルームにいる教師も含めた全ての人間に複数性が存在していることになるとその対話はなかなか一方向には進みにくくなるという性質を帯びることになる。もう一つ個人の評価にあたってそうした複数性の中でどの部分に着目するか?もう少し言えばどこに基底点を置くかということが非常にわかりにくくなってしまうという堂々巡りになってしまうのである。結果が設定に戻ってしまっている。

◯自己内の対話に関する研究の乏しさといい加減さ

 ハーマンスの対話的自己論を持ち出すのは結構だが、結局どの論文も結論の部分で破綻している。このことについて誰も指摘しないのだろうか?
 こうした実践研究においては集めるデータに質も量も両方が必要になってくる。それを承知の上で長々ヒトからパクった文章を書いた挙句、結論でどちらかが足りなかったと結論づけるのはどういう意味なんだろう?
 しかもこうした研究には1時間のうちに何人もの子どもに対するアプローチをしていない。なんなら何時間も一人の子どもを何人かの大人で囲んでやっとこさおかしな結論に達する。そんなもん使い物になるかよ。
 こちとら授業やりながら、なるべく多くの子どもの評価に値する情報を収集して次の授業を組み立てることを文科省や中教審から要求されているんですよ。やっぱり大学教員に無駄金を払うことは必要ない。
 ここにはっきり表明しておきます。科研費全廃。一円もいらない。少なくとも自然科学の優秀な研究に潤沢にまわしても今の10分の1で済むはずです。そもそも文系は税金を使ってやるほどのことをしていない。100万人の無駄遣いの人たちがさらに増やせと宣ったらしいがこの出来の悪い成果を垂れ流しといてよくもまあそんなことが言えるもんだと感心します。盗人猛々しいとはまさにこのことです。教師に省察を求めるなら、あなたたちの出来の悪いな論文を省察してください。査読した人も同様です。

◯実践における複数性のつくり出しと評価

 教育実践の場における対話というのはどれだけたくさんの複数性つまり流行り言葉で言えば多様性を作り出していくかということになる。しかしこれは教員にとってはクラスルームの授業や日常生活にカオスを作り出す状態であることを容認していくことに他ならないということなのである。

 なぜなら子どもが最も子どもらしく複数性を生み出す状況というのは好き勝手に遊んでいる状況だからです。もう少し付け加えておくなら大人やルールが少しでも介入する状況−大学教員のいう「遊び」−では複数性は発揮されません。それどころか抑制される恐れが強い。

 つまり子どもの持つ子どもらしさという武器を存分に発揮しながら学びの空間を設定するというのはかなり困難であるということです。こんな無茶を平然と現場に求めるなんてどうかしてます。おそらくですが「対話的」といった人間がそこまで「深く」考えていないということです。もしくはやるの自分ではないのだからほっかむりをしたのかもしれません。最悪の想定はできっこないをしゃべれば無限に垂れ流しで稼げると考えたのだということです。まあ深く考えていないのが妥当なセンです。
 しかし15万人いる教職員を甘くみるなよということです。

 なんとか対話と授業の規律と学びの結果を鼎立させていく方法を考えて実践してみます。しかも瞬時に評価可能という想定で、という条件付きです。
たまに実際には全く使えないものを提案する研究授業がありますが、あれはいけません。見る人に使えそうと思わせないと意味がないということです。であるなら実は研究授業は教員にとっては非常にハードルの低いものでなくてはならないということです。もしくはその授業において教員の存在に意味がないことを示すかです。これは研究に対する壮大な矛盾なんですが、実践である以上そうすること、そうあること、でしか存在価値と見出すことができません。

 であるならば学習規律が整っているクラスでしか対話は無理なことになります。しかしこれは逆説的な側面を持っています。学習規律を対話の中で組み立てていくことも十分可能ではあるからです。小学校低学年で可能かはあんまり自信がないのですが・・・これは研究授業でやるようなことではないのです。学習内容とは関係ないからです。まあやってみてみている人をキョトンとさせるのも、授業がぶっ壊れるのも一興でしょう。

◯題材による複数性か?集団の成員による複数性か?

 授業における複数性の作成がキモになるのですがやり方として題材に複数性を用意するか?ということです。これはよくあるディベート形式の授業ということになります。
 今問われれている形式は題材だのみになるのではなく、どんなつまらない教材であってもイチャモンをつける事でより斬新な視点を作っていこうとする真摯な態度を子どもたちの中に育成する事なのだろうと考えます。だからこそどの子どもの頑張る姿にも自己内対話をみてとっても良いだろうという判断、それこそが主体性の発露になるのだろうという論法です。いつでもできる評価の視点でもあります。
 子どもらしく大人の作った教材に対して果敢に攻撃を試みていく、抵抗していく姿に、その手段としての足掻きの中に複数性を見出していく事なのだろうという事です。そして学校というのはまさにこのことに対して子どもに胸襟を開き心理的安全性を確保している学習の場を提供するということに他なりません。

 もちろんこれだけでは這い回る経験主義という実践なき理論からの的外れなそしりに対抗することができません。たとえ的外れであっても胸を貸してやろう、それが現場からの姿勢です。
 これまでも教員は子どもの頑張りという不確かなものに対して評価が決定的に位置付けれていなくてどこか恣意的な感じを拭えませんでした。
 しかしこれからはこうした頑張りに対して主体性とか対話における多様性・複数性へのコミットという視点が堂々と使えることになります。少なくとも使うことには這い回ると切って捨てることはできなくなったはずです。

 しかしそのためには、授業内のどこかの時点でふりかえりとしての文章化する必要が出てくると考えます。それが大学教員に胸を貸す条件になってくるのではないかと思います。学習での頑張りが文章として残れば、少なくとも活動量の観点からは評価のやりようがあります。そして文章化していれば個人内の対話があったことの証明になるからです。少なくとも前出の大学教員並みにこじつけることは可能です。まあそれ以上に題材に沿った文書作成能力というのは相当レベルの高い学習活動になります。そうした書く力と話す力の両立というのはその体験だけでも相当有用性が高いです。
 その分難易度も上がりますが・・・

 それと同時に授業として成立させるためには知識としての意味づけが必要になりますね。子どもにわかるレベルではっきりと。その意味で45分の授業内のどこかで教員としての学習のまとめをすることが必要になってきます。もちろん学習指導要領の目標に関連していることが望ましいですが、教科によっては考えるとか伝え合う、わかるというフワッとした目標が少なくありません。教科書解説書に書いてあるこうしたフワッとした目標の評価はそもそも学習内容そのものと繋がっていないことも珍しくありません。ただのコピペなんですよね。
 ここが教員の腕の見せ所かもしれません。しっかり一つ断言することが学習の一側面を形作ることになります。それが多少道徳や根性論に傾いても結果にコミットできるなら全く身にならない学習よりは場の形成の役に立つというものです。実は今の教育現場はこのタイプの伝承がなかなか行われません。こうしたことをきちんと認めるシステムがありません。
 教育実践が本質より見た目の収まりの良さを重視するスタイルを大学教員や文科省が推奨し続けたからです。結果がこのザマです。単純に斎藤喜博、無着成恭や東井義雄の揺り戻しなんですが、左に行きすぎたから次は右ですでは科学もへったくれもあったもんではありません。

 こうした感じで対話のある授業を構築して、評価していくということです。基本的に固定した学習の結果は存在しません。全てが行き先にカオスを抱えた授業です。まあ普通ならやる方からしたら怖さしかないですね。ハンドルの効かない車でレース、台本のない劇みたいなもんです。
 
 彼ら、彼女らの言う対話を授業化すればこうなるということです。少なくとも私のように真面目に向き合えば。
 今度このオープンエンドである個人内対話を交えて国語の授業をするのですが、事後研究会でおかしな雰囲気になった場合にはぜひ責任を取っていただきたいもんですな。
ちゃんと収束したら奇跡ですよ。
それで個人内対話が何人見てつかめるかということです。
もちろん結論の出ない話し合いという名の対話も挟んでいきます。

 気分はハードルのないハードル競走として臨みます。
 さて結果は如何に?

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