教員としてマスクをし続ける理由

 コロナが一段落した今となってみれば、マスクに(何らかの)エビデンスがあったかどうかはよくわからない。それは手洗いにしても、換気にしてもそうである。

 こうしたことは実は選挙では当たり前のことなのだということに最近気がついた。当選者のエビデンスも落選者のエビデンスも全くない。サイコロ降っているのと変わらないところに権力とカネ(正確にはカネの采配権。それが税金であっても、パー券のカネであってもやってることは同じ。)が集まることには違和感しかない。
 それは体罰みたいなもんで確実なアウトしか排除できない。グレーを許容するしか選ぶ方に選択権がないから。だから体罰はなくならない。感情による選択の問題だからである。戦争も差別も同じなのかもしれない。

 それたが、私はワクチンにはエビデンスがあったと思う。それは死亡リスク込みでの前提としてである。結局エビデンスというのはそうした個別の研究結果でしか採用できない弱い概念ではないかということを考える。それを一般化する自然科学の手法として実験結果を結論に繋げていくことなのだろうけれど、ここまで細分化して情報が隅々まで行き渡るような社会になるとそれが一律には機能しなくなったのではないか?と感じる。量子力学的な発想が基礎的な一般理論を放逐することになりはしないか?と心配してしまう。事実、哲学の世界においてはマルクスガブリエルなどがそうした量子力学的な発想を実在論に持ち込もうとしている。大陸系でも分析哲学でもどっちでもよいが、昔から指摘されるような西洋ばかりありがたがる卑屈な日本人根性が隠れた形で逆に隆盛して、他者を攻撃することに加担するような姿勢はなんとかした方がよいのではないか?こうした受け売りはエビデンス信奉者にとっては他者を攻撃し、自己を正当化するだけの空虚(それを人は論破と呼ぶんだぜ。てなもんです。)を達成するための手段でしかない。
 それをありがたがって唯一無二の評価基準として採用する意味がよくわからない。それは議論のとっかかりであって、決して結論ではないと思う。

 いきなり結論になった気もするけれどこうしたことは実は実生活のなかで猛威を振るっている。
 日本ではこの間までコロナに掛かった人間、マスクをしない人間をまとめてきちんと差別するように作動したのである。不安の名の下に。
 そうした人間は自分のしたことをなかったことにしている。コロナの時に活躍した医療関係者がおしなべてそうであったようにエビデンスの名の下に。
 そしていけしゃあしゃあと元の生活に戻らない人間をまたしても差別しているのが昨今の状況である。これはうちの校長の話である。あのときあなたが熱く語っていた「新しい生活様式」はどこに行っちゃったのですか?別に考えを改めることが悪いとは言わない。しかしそこまでの他人に命令して従わぬ人間をこき下ろして、無理やり出世させないでおいて何の一言もないその厚顔無恥さには恐れ入るわけである。それがたとえ「よくわからない未知のこと」であったとしてもそれは理由にはならないと思う。
 謝りゃいいのに。ただただ一言詫びればいいだけなのに。それをしない。ボケていて謝れないならそれでいいからさっさと引退してほしい。65過ぎてまだまだ校長に居座る意味がわかりません。いやはやただの愚痴ですな。申し訳ありません。こうした人間が一人や二人ではないのです。目の前に居たすべての校長がコロナ禍でエビデンスのかけらもないことを言い、そして今又、厚顔無恥を繰り返しマスクを外しましょうと言うこの意味不明。元の生活に戻ることが正義であるかのように振る舞い「大きな運動会」を推奨する始末。

 さて本題。私がマスクをし続ける理由の一つにはこうした人間への意趣返しがあります。大人げなさ全開です。我ながら誠にあきれかえりますが。

 そしてもう一つはただの一人でもマスクをしている子どもが学校に居る限りは私はマスクをしておくということです。その子どもがマスクをし続ける理由はなんでも良い。美人に見えるでも、顔を隠したいでも、ウイルスが不安でも、それは何でも良い。マスクを強要してさも団結しているかのようなこんな社会をつくったのは大人の責任です。まちがいなく。やむ得ぬ理由があったとしてもそれを錦の御旗にする人間は教育に関わらない方が良いと思います。間違いは間違いで認めてきちんと訂正する。
 その認める行為を抜きにして教えるものの立場としての「希望」は存在し得ないと思うからです。そして学ぶ側にはその認めによる訂正を受け入れる「誠実さ」が必要になると思います。

 これは私なりのルイアラゴンの言葉の解釈になります。「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を心に刻むこと」物事は利己的で主体的な解釈なくして、より深い理解には繋がらないし、思考も生まれないと思います。そうしたことをこの言葉から意識したことのある管理職がどれほどいるのか?教育学者がどれほどいるのか?甚だ疑問です。こうした人間たちに教育を語る資格があるのか?狭い世界の固定的な知識だけで悦に入っているから実学としての学校教育の真逆を平気でやっちゃうのではないかと思わざるを得ません。。
 少なくとも私は子どもの誠実に応えるだけの謙虚さは持っていたいと思うわけです。不自由をさせた。不快を我慢させた。黙食や寒い思いをさせたことを忘れてはいけないと思います。
 戒めでもあり、反省でもある意味を込めた行動の継続でそこにアタッチメントしておきたいんです。それが自己満足との指摘があって然るべき。
 レジリエンスの化け物であるからこそ平然と子どもたちは何事もなかったかのようにコロナ禍の混乱から真っ当に立ち直ってきました。
 しかしそこにただの一人でもマスクを外さなくても良いかという問いかけなりがあるならば最後の最後まで付き合いますよということです。残念ながらまだまだマスクを外すことに抵抗のある子どもはどの学校にもたくさんいます。であるなら率先して外すのではなく、そこに付き合っていくことを続けていくしかないなあということです。

 学校は感染症が感染るところです。誰の責任でもありません。誰の気兼ねも必要ありません。お互い様だからです。それを忘れてしまう教師でありたくはないです。善悪の話ではありません。青臭いことを言えば矜持の問題です。だから他人にもそうしたことを強いるようなことはしません。外したければ外せばいいし、外したくなければ外さなければ良いだけの話です。

 しかし私が現場でマスクを外さないことには理由があります。という4年経って初めて明かす話があるんです。

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